南洋日本人町(読み)なんようにほんじんまち

改訂新版 世界大百科事典 「南洋日本人町」の意味・わかりやすい解説

南洋日本人町 (なんようにほんじんまち)

17世紀初めごろから末近くまで,東南アジア各地に形成された日本人居留民の町。日本人の海外渡航はすでに16世紀の終りごろから増加していたが,朱印船制度(朱印船)の確立とともに一段と盛んになった。1636年(寛永13)の第4回鎖国令発布までの約30年間に発給した朱印状の数は合計356通に達するが,実際の渡航船隻数はこれより多かったと考えられる。その行先は交趾(現在のベトナム中部),暹羅(タイ),呂宋(フィリピンルソン島),柬埔寨(カンボジア),東京(トンキン。現在のベトナム北部),高砂(台湾)という順位であった。渡航者は海賊船員商人,失業者,追放キリシタン等さまざまであり,また外国人の雇人として外国船で渡航した場合もある。当時の朱印船の乗組員数は,57人から394人まで船の大きさによってかなりの差があるが,岩生成一の計算によれば,この期間に出国した日本人総数は延べ10万人以上といわれる。彼ら渡航者の一部は現地に残り,人口の多い場合は特定の地域に日本人だけの集落をつくった。これが南洋日本人町と呼ばれるもので,だいたい朱印船渡航の頻度に応じて,ベトナム中部のフェイフォ(現在のホイアン),トゥーランダナン),タイのアユタヤ,ルソン島のマニラ郊外にあるディラオとサン・ミゲル,カンボジアのプノンペンとピニャールーの合計7ヵ所であるが,他国人の間に分散して住む例は,マカオ以南に少なくとも20ヵ所あり,ほとんど東南アジアの全域に及んでいる。日本人町の最盛期の推定人口はマニラ郊外の3000人,アユタヤの1500人をはじめ,7ヵ所の全日本人町で総計5000人以上に達したらしい。

 これらの日本人町は多くの場合,自治権を与えられ,その頭領には日本人が選ばれた。これは言語,習慣,法律などが違うために現地政府側がとった処置であり,日本人側が要求したためではない。また日本人町を形成しなかった各地(たとえばジャカルタモルッカ諸島のテルナテ,現ミャンマーの旧アラカン地域)でも日本人統治の便宜上,頭領が選ばれていた。各地の日本人頭領の中には史料に名の残っている者が多いが,最も有名なのはアユタヤ日本人町の頭領,山田長政である。彼は部下の日本人を指揮してタイの政界を左右するほどの勢力をもち,南方リゴール州の長官に任命されたが,ついに政敵により1630年に毒殺された。この例からもわかるように,日本人の中には武勇にすぐれた者も多く,日本人の軍隊を雇っていた国王や高官などの例も少なくない。しかし,日本人の大部分は商業に従事し,とくに日本から来航する朱印船のために,生糸,鹿皮,鮫皮,蘇芳木(すおうぎ)(赤色系の染料)などの商品を買い集めた。日本内地の朱印船貿易商の中には,自分の親戚や使用人を現地に常駐させる者もあり,フェイフォの平野屋六兵衛,角屋七郎兵衛,アユタヤの絲屋太右衛門などはその例であった。

 これほど繁栄した日本人町も,1633年(寛永10)以後の一連の鎖国令による海外渡航禁令の強化に伴って,朱印船が来航しなくなり,また内地からの新しい人材の供給を絶たれることになった。しかも海外に長年滞在した者は帰国すると死罪に処せられるので,帰国することもできず,日本人同士の間で複雑な姻戚関係を結んでいたが,しだいに現地社会の中に吸収されていった。しかし,オランダの記録によれば,フェイフォ,アユタヤ,ディラオの3ヵ所には1690-1708年ごろまで何人かの日本人が生存していたことが知られる。彼らは長い間日本を離れていても日本の生活様式をだいたい守り,床に畳を敷き,鎖国後も日本から酒,しょう油,奈良漬,鰹節,干し大根,梅干しなどを取り寄せていたらしい。また日本への通信は比較的自由であったらしく,長崎から追放されてジャカルタで1697年ごろまで生きていた混血女性ジャガタラお春その他の女性が故郷に宛てたいわゆるジャガタラ文が現存する。
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百科事典マイペディア 「南洋日本人町」の意味・わかりやすい解説

南洋日本人町【なんようにほんじんまち】

17世紀初めごろから同世紀末近くまで,東南アジア各地に形成された日本人居留民の町。日本人の海外渡航はすでに16世紀の終りごろから増加していたが,朱印船制度の確立とともにいちだんと盛んとなり,鎖国まで続いた。行先は交趾(現在のベトナム中部),暹羅(タイ),呂宋(フィリピンのルソン島),柬埔寨(カンボジア),東京(トンキン。現在のベトナム北部),高砂(台湾)という順位であった。渡航者は海賊,船員,商人,失業者,追放キリシタン等さまざまであり,また外国人の雇人として外国船で渡航した場合もあり,この期間に出国した日本人総数は延べ10万人以上といわれる。彼ら渡航者の一部は現地に残り,人口の多い場合は特定の地域に日本人だけの集落をつくった。これが南洋日本人町と呼ばれるもので,だいたい朱印船渡航の頻度に応じて,ベトナム中部のフェイフォ(現在のホイアン),トゥーラン(ダナン),タイのアユタヤ,ルソン島のマニラ郊外にあるディラオとサン・ミゲル,カンボジアのプノンペンとピニャールーの合計7ヵ所。ほかに他国人の間に分散して住む例がマカオ以南に少なくとも20ヵ所あり,ほとんど東南アジアの全域に及んでいる。日本人町の最盛期の推定人口はマニラ郊外の3000人,アユタヤの1500人をはじめ,7ヵ所の全日本人町で総計5000人以上に達したようである。日本人町は多くの場合,自治権を与えられ,その頭領には日本人が選ばれた。これは言語,習慣,法律などが違うために現地政府側がとった処置であった。また日本人町を形成しなかった各地(たとえばジャカルタ,モルッカ諸島のテルナテ(現ミャンマー)のアラカン)でも日本人統治の便宜上,頭領が選ばれていた。繁栄した日本人町も一連の鎖国令による海外渡航禁令の強化に伴って,朱印船が来航しなくなり,内地からの新しい人材の供給を絶たれ,また海外に長年滞在した者は帰国すると死罪に処せられるので,帰国することもできず,日本人同士の間で複雑な姻戚関係を結んでいたが,しだいに現地社会の中に吸収されていった。しかし,オランダの記録によれば,フェイフォ,アユタヤ,ディラオの3ヵ所には1690年―1708年ごろまで何人かの日本人が生存していたことが知られる。日本への通信は比較的自由であったらしく,長崎から追放されてジャカルタで1697年ごろまで生きていた混血女性〈ジャガタラお春〉その他の女性が故郷に宛てたいわゆるジャガタラ文が現存。→山田長政
→関連項目アユタヤ朝ディラオ

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南洋日本人町
なんようにほんじんまち

日本町

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