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江戸時代,諸大名が一定の時期を限って江戸に伺候することを参勤,封地に就くのを交代といい,その総称。参覲交替とも書く。一般に参勤交代とは,将軍に対する大名の,また本藩主に対する支藩主や知行主らの,主従関係の表示としての拝謁,勤役を前提とした上洛,参府または本城伺候および就封をさすが,この参勤を契機として,当事者間には御恩-奉公の主従関係が成立する。
〈参勤〉の語は,鎌倉・室町幕府の評定衆や奉行人らの出仕制に関連ある語句として現れ,具体的には鎌倉幕府の御家人の鎌倉大番役や京都大番役などの軍役負担に,その原初的形態をみる。室町幕府は,将軍の直接支配下にある守護大名に対して,京都に屋形を構えて集住することを強制し,将軍の賜暇を得ず勝手に下国するものを謀反とみなして,容易に下国,在国を許さなかった。その後,幕府の大名統制がゆるみ群雄割拠の時代に入ると,戦国大名はその家臣統制策の一環として,本城勤仕の制法を定めて支配を強化し,領内限りの参勤交代を強制した。近世の統一権力は,こうした従来の支配方式を全国的規模で,新たな大名統制策として近世的権力構成に改編して,参勤交代制を形成したのである。まず織豊政権下では,織田信長は服属した大名を岐阜城,安土城に参勤させた。豊臣秀吉もまた大坂城,聚楽第,伏見城の周辺に諸大名の邸宅をおき,その領国とを往復させる一方,在京賄料などを給した。とくに秀吉は,大名妻子の在京,家臣とその妻子の城下集中を全国的規模で強制して,参勤交代制の雛形を完成させた。
1600年(慶長5)の関ヶ原の戦の勝利によって,徳川家康が天下の覇権をにぎると,外様大名のうち江戸に参勤するものも現れたが,03年の家康の征夷大将軍就任はその傾向に拍車をかけた。家康も外様大名の江戸参勤とその妻子の江戸居住を奨励し,参勤の大名には屋敷地(大名屋敷)のほか刀剣,書画,鷹,馬,糧米などを下賜する一方,大大名には将軍みずから鷹狩りに託して,東海道は高輪御殿,中山道は白山御殿,奥州街道は小菅御殿まで出迎えるなど,優遇策を講じた。09年幕府は,中国,西国,北国など豊臣勢力圏の諸大名に江戸参勤・越年を強要,11年には豊臣秀頼を京都二条城に謁見して,徳川氏と豊臣以下全国大小名との間の主従関係を確定させた。ここに従来の豊臣系大名による大坂,駿府,江戸各城への参勤形態は消滅し,江戸参勤へと統一される。15年(元和1)大坂夏の陣後の武家諸法度は,その第9条に〈諸大名参覲作法之事〉として,京都二条城ないし伏見城における徳川氏への諸大名の参勤規定を掲げているが,29年(寛永6)の武家諸法度では削除され,事実上隔年の江戸参勤をふまえて,35年6月21日の武家諸法度の第2条において,〈大名小名在江戸交替所相定也,毎歳夏四月中可致参勤〉と定め,大名は毎年4月交代で江戸に参勤することが正式に制度化された。42年には,従来在府中の譜代大名に6月または8月の交代,関東の譜代大名に2月,8月の半年交代,さらに城邑を占める大名には交互の参勤を命じ,ここに参勤交代制は全大名に一般化されるに至った。もっとも,対馬の宗氏は3年1勤,蝦夷地の松前氏は5年1勤,水戸徳川家や役付の大名は定府(じようふ)とするなど,若干の例外もみられる。その翌年には,将軍への大名の拝謁順序が定められ,86年(貞享3)以降は,表礼衆,那須衆,美濃衆,三河衆など旗本30余家にも隔年参勤が義務づけられた(交代寄合)。
1722年(享保7)幕府は財政窮乏を打開するため,大名より高1万石につき100石の上米(あげまい)を徴して,その在府期間を短縮,交代期を3月,9月に変更して在府半年,在国1年半(半年交代の譜代大名は1年在国)とした。これは参勤交代制の根幹にふれる政策であるため,30年には上米を免じて,参勤交代制を復旧した。幕末期,内外情勢の緊迫化にともない,1862年(文久2)には一橋慶喜,松平慶永らの幕政改革によって,大名は3年に1年または100日の在府,その妻・嫡子とも在府・在国自由となった。これは幕府の大名統制力の低下によるもので,65年(慶応1)再び旧制への復帰を図ったが効なく,幕府倒壊を早めただけに終わった。なお,参勤交代は,将軍-大小名間だけでなく,陸奥仙台,長州萩,肥前佐賀,薩摩鹿児島などの有力外様大名と,その支藩主または知行主との間にも行われ,さらに大知行主と在郷武士との間にも存在して,重層的かつ複雑な構造を示したが,これまた幕末期には消滅した。
このように参勤交代制は,幕藩制国家支配の政治的基幹として,幕府が諸大名の地方割拠の形勢を抑制して中央集権の実をあげるのに絶大な効果があった。一方,大名は江戸と在国との二重生活によって繁忙と経済的窮乏に苦しむこととなり,とくに遠隔地の外様大名に多大の負担を強いた。しかし経済面では,江戸の都市的発展による三都を中核とする国内市場の形成,水陸交通の整備と宿場町などの繁栄,文化・思想面では江戸文化の地方伝播と庶民文化の発達,全国各地方の人心の一体化傾向を促進した。
→大名行列
執筆者:丸山 雍成
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参覲交替とも書く。江戸幕府が課した大名軍役の一つ。それによって、幕府は諸大名の江戸参勤を役儀・奉公として義務づけ、強力な大名統制を行うとともに、権力の集中強化を図り、幕藩体制の長期存続を可能とした。
[藤野 保]
諸大名が徳川氏に対する臣従の証拠として、江戸城に人質を提出したことに始まる。1596年(慶長1)藤堂高虎(とうどうたかとら)が弟の正高を証人として江戸に送ったのは、その早い例。徳川氏の覇権確立後、諸大名の証人提出が多くなり、また江戸に大名屋敷を設けるものが多くなったが、なお、諸大名の自発的意志によるもので、制度として実施されたわけではない。1615年(元和1)制定の「武家諸法度(ぶけしょはっと)」は、参勤作法として従者の員数を定めただけで100万石以下20万石以上の大名は20騎以下、10万石以下の大名は分に応ずるよう規定した。しかるに3代将軍家光(いえみつ)は、1634年(寛永11)譜代(ふだい)大名の妻子を江戸に移し、翌35年には「武家諸法度」を改定し、その第2条に「大名・小名、在江戸交替相定むる所なり、毎歳夏四月中、参勤いたすべし」と規定し、参勤交代を制度化した。ここに参勤交代は諸大名の役儀・奉公として義務づけられ、毎年4月が交代期と定められた。こうして諸大名は在府・在国1年交代となり、大名妻子をはじめ多数の家臣団が江戸に常住することになった。1642年(寛永19)制度の改正が行われ、譜代大名の交代期は6月、とくに関東の譜代大名は在府・在国半年、8月ないし2月交代となった。ほかに対馬(つしま)の宗(そう)氏は三年一勤(4か月在府)、水戸藩や老中などの役付大名は江戸定府(じょうふ)となった。
8代将軍吉宗(よしむね)は、幕府財政再建のため、1722年(享保7)諸大名に1万石につき100石の上米(あげまい)を命じ、その代償として、参勤交代を緩和し、在府半年・在国1年半としたが、30年旧制に復した。その後、幕府は幕末に至り、幕政改革の一環として、1862年(文久2)ふたたび参勤交代を緩和し、三年一勤百日在府制を実施したが、それによって、諸大名の幕府からの離反を防ぐことができず、かえって幕府の崩壊を早める結果となった。
[藤野 保]
江戸時代に入り、幕府の軍役体系は整備されたが、平和の到来によって、諸大名を戦争に動員する機会はなくなり、参勤交代が手伝普請(てつだいぶしん)とともに、軍役として重要な意義を担った。参勤交代の制度化によって、江戸は諸大名とその家臣団が集居する大消費都市に発展したが、諸大名の参勤交代に要する費用は膨大なもので、大名財政の窮乏をきたす主要因となった。そのため、諸大名は年貢米と特産品を中央市場である大坂で販売し、貨幣を獲得する必要に迫られたが、大坂に集まった全国の物資は、おもに江戸へ輸送され、江戸の膨大な商品需要に応じたのである。こうして、参勤交代の制度化によって、諸大名と大坂、大坂と江戸という商品の流通路ができあがり、三者の経済的な結合が実現して、全国市場の形成を促進した。江戸時代の商品流通、交通・宿駅、また貨幣経済・商工業などの発達は、参勤交代によるところが大きく、さらに中央文化の地方普及にも貢献するところが少なくなかった。
[藤野 保]
『藤野保著『新訂幕藩体制史の研究』(1975・吉川弘文館)』
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参覲交代とも。江戸時代,大名が一定期間江戸に出仕することを参勤といい,交代とは領地に就くことをいう。参勤の起源は鎌倉時代までさかのぼり,室町時代には守護大名の京都在住が強制されている。織豊政権下でも参勤がみられ,豊臣秀吉が参勤交代の原形をつくった。1600年(慶長5)の関ケ原の戦後,外様大名の江戸参勤が増加し,徳川家康の将軍宣下後はその傾向が強まった。家康は参勤する大名に屋敷地を与えて妻子の江戸居住を奨励する一方,鷹狩と称して参勤する大名を出迎える配慮を示した。09年には参勤・江戸越年をもとめるなど,しだいに参勤を定着させ,15年(元和元)武家諸法度に参勤作法之事を定めた。35年(寛永12)大名の4月参勤を制度化し,42年には譜代大名へも参勤を義務づけた。8代将軍吉宗のとき財政窮乏により在府期間を一時半減したものの,1862年(文久2)の改革まで継続された。参勤交代による大名の財政的負担は大きく,大名統制策の根幹としての意義があった。一方交通の整備や宿場の繁栄,文化の地方伝播も促進した。
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…御殿とは元来,天皇の清涼殿などをさし,後には貴族や大名・社寺の殿舎をふくめていうようになったが,各時代の殿舎構成は,古代は寝殿,中世は主殿,近世は書院を中核としていた。一方,御茶屋は戦国大名などが領内を巡歴,遊猟する途次,休憩して茶の湯を興行する茶亭にはじまり,江戸時代には大名の参勤交代時の休泊所としても利用された。御旅屋,御仮屋なども同様である。…
…行装の詳細は《甲子夜話(かつしやわ)》や《武家擥要(ぶけらんよう)》にみえる。参勤交代による通行はその代表的なもので,大藩である加賀藩の供人数は多いときで2500人余を数えたが,多くの大名は通常150~300人前後の規模である。整然とした隊列を組むのは宿場などの特定地に限られる。…
…江戸幕府が武家の守るべき義務を定めた法令。天皇,公家に対する禁中並公家諸法度,寺家に対する諸宗本山本寺諸法度(寺院法度)と並んで,幕府による支配身分統制の基本法であった。1615年(元和1)大坂落城後,徳川家康は以心崇伝らに命じて法度草案を作らせ,検討ののち7月7日将軍秀忠のいた伏見城に諸大名を集め,崇伝に朗読させ公布した。漢文体で13ヵ条より成り,〈文武弓馬の道もっぱら相嗜むべき事〉をはじめとして,品行を正し,科人(とがにん)を隠さず,反逆・殺害人の追放,他国者の禁止,居城修理の申告を求め,私婚禁止,朝廷への参勤作法,衣服と乗輿(じようよ)の制,倹約,国主(こくしゆ)の人選について規定し,各条に注釈を付している。…
※「参勤交代」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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