(1)古代から近世におかれた朝廷の官職名。令外官の一つ。三木とも書き,宰相,相公,八座(はちざ),やくらのつかさともいう。参議の呼称は〈朝政に参議する〉に由来する。令制で朝政に参議するのは大納言の任であったが,大納言以外の者にもその任を広げて中納言を設置した。731年(天平3)8月諸司の主典(さかん)以上に命じ,政務にたえる者6名を選ばせて参議としたのが正式官名の始まり。このとき参議に食封(じきふ)80戸を与えた。しかし806年(大同1)観察使を置き,地方行政の監察を行わせ,これに参議を充て,翌年参議の号をやめて観察使のみとしたため,朝政参議の機能は消えたが,810年(弘仁1)参議制を復活させた。このとき畿内と七道の観察使を参議としたため,参議は8人となり,のちこれが参議の定数のごとく見られるが,定数が定められたわけではない。ただし参議を八座(やくら)の臣というのはこれに由来している。参議は,三位以上の者か,蔵人頭,左・右大弁,左中弁,近衛中将,式部大輔,または5ヵ国の守の歴任者を資格とし,三位以上でも参議にならない者を非参議といった。なお参議はその成立の経過から見ても大・中納言に準ずる地位にあるが,納言のごとく太政官符および官宣旨を下す権限を持っていない。
執筆者:米田 雄介(2)明治初期,内閣制以前の太政官制における重職。1869年(明治2)7月8日の官制改革で,太政官に左大臣,右大臣,大納言とともに設置され,左・右大臣は天皇を補佐して大政を掌理し,参議は大納言と大政に参与した。副島種臣,前原一誠についで大久保利通,広沢真臣,佐々木高行,斎藤利行,木戸孝允,大隈重信ら薩長土肥4藩の代表者が任命され,しだいに権限を握った。71年の廃藩置県直後における7月29日の官制改革で,正院,左院,右院の3院が設置されるや,参議は最高官庁としての正院にあって太政大臣,左・右大臣をたすけて国政の機務に参画した。73年5月2日,内閣議官として天皇輔弼(ほひつ)の大臣と分離し,明治6年10月の政変後は,各省の長官を兼任し(10月25日),また,成員も増やされた。この兼任制は80年2月28日に解かれたが,翌81年,いわゆる明治14年の政変後ふたたび兼任制が復活した(10月21日)。85年12月22日の内閣制度の創設で廃官となった。1871年以降のメンバーを発令順に列記すると次の通りである。木戸孝允,西郷隆盛,大隈重信,板垣退助,後藤象二郎,大木喬任,江藤新平,大久保利通,副島種臣,伊藤博文,勝安芳,寺島宗則,伊地知正治,山県有朋,黒田清隆,木戸(再任),板垣(同),西郷従道,川村純義,井上馨,山田顕義,松方正義,大山巌,福岡孝弟,佐々木高行(西郷従道以下8名が廃官当時の参議)。いかに薩長土肥の藩閥中心であったかがわかる。
執筆者:田中 彰
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(1)令外官(りょうげのかん)の一つ。納言(なごん)に次ぐ公卿(くぎょう)。宰相、相公、八座(はちざ)、「やくらのつかさ」ともいい、「おおまつりごとひと」とも読む。参議の号は、702年(大宝2)大伴安麻呂(おおとものやすまろ)以下5人に朝政に参議させたというのが初見であるが、これは仮の措置であって、正式な官名としては、731年(天平3)藤原宇合(うまかい)以下6人を任命したのに始まるか。807年(大同2)参議の号を廃して観察使(かんさつし)を置いたが、810年(弘仁1)に至り、またもとの参議に復した。この参議に進むには七つのコースがあり、蔵人頭(くろうどのとう)、大弁、左中弁、近衛(このえ)中将、式部大輔(たいふ)の5官のほか、5か国の受領(ずりょう)歴任者と三位の位階をもつもののなかから選ばれた。
[渡辺直彦]
(2)明治初年から内閣制度実施までの政府要職。1869年(明治2)7月の職員令官制で、左右大臣、大納言とともに太政官(だじょうかん)の職として新設された。職掌は大納言と同じく大政に参与するものである。71年廃藩置県に伴う官制改革で、太政大臣、納言と正院(せいいん)を構成。大久保利通(としみち)、木戸孝允(たかよし)、板垣退助(たいすけ)、大隈重信(おおくましげのぶ)ら薩長土肥(さっちょうどひ)藩の実力者が任命され、実質的に政府の実権を握るようになった。73年征韓論政変後は、各省の長官=卿を兼任する者もあり、定員も増加、参議の権力はより強大化した。80年いったん参議と省の長官が分離されたが、翌年にはふたたび兼任が行われた。85年内閣制度実施で太政官制の廃止とともに廃官となる。
[佐々木克]
1古代の太政官において,大臣や大・中納言とともに天皇の諮問や国政事項を審議した令外官(りょうげのかん)。唐名は宰相。702年(大宝2)に5人の官人を朝政に参議させたのが初見で,731年(天平3)に封80戸が支給され制度として確立した。平安初期の平城朝に一時廃され観察使となるが,810年(弘仁元)の復活時にその定員8人を継承したため,以後八座とも称した。三位以上の者や要職の歴任者を任命の資格とし,三位以上で参議でない者を非参議といった。
2近代の太政官制において朝政に参議する官。1869年(明治2)7月の職員令では従三位,定員3人,廃藩置県後の太政官職制改定で正院内に設置され,大臣・納言を補佐して大政に参与。73年の改正で三職に位置づけられ,天皇輔弼(ほひつ)の任にあたった大臣に対し,参議は内閣の議官として庶政にあたった。参議に就任したのは,おおむね大久保利通・木戸孝允(たかよし)・西郷隆盛ら雄藩出身者で,国策決定に実質的影響力をもった。73年の明治6年の政変後,参議・省卿兼任制が敷かれた。一時両者は分離したが,81年の明治14年の政変後に再び兼任となり,85年内閣制度創設により廃止された。
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…他方で高度に組織された行政および政党官僚機構を背後に持つ内閣に対し議会の統制力が弱まったこと,また閣内では増大する閣議事項や所管省庁事務の膨張に追われがちな閣僚個々の事情に対応して,各種閣内委員会(閣僚会議)への決定権の分散が進められたりしたことなどから,合議決定体としての内閣の実質は,一方では首相および少数のインナー・キャビネットへ,他方では行政官僚制へと移る傾向が著しい。
[日本における沿革]
日本の法令に〈内閣〉が登場する早い例は1873年の太政官達にあり,〈内閣ハ天皇陛下参議ニ特任シテ諸立法ノ事及行政事務ノ当否ヲ議判セシメ凡百施政ノ機軸〉となるものとされた。この〈太政官内閣制〉では天皇の輔弼(ほひつ)に任ずる太政大臣,左右大臣等は公家・旧藩主に限られ,参議は直接の輔弼責任を負わない。…
※「参議」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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