人形浄瑠璃のうち,義太夫節以前に成立した古流派に属する浄瑠璃の総称。御曹司牛若丸と矢矧(やはぎ)宿の長者の娘浄瑠璃御前との恋物語の語り物は,室町中期ころより語られていたが,この語り物はその娘の名をとって浄瑠璃と呼ばれた(《浄瑠璃物語》)。江戸時代の初頭には三味線,人形操りと提携し,またさまざまな物語を同様な曲節で語るようになり,浄瑠璃という語は広く語り物の種類をあらわす名称となった。それ以後,浄瑠璃は人形芝居の語り物として多くの作品を生み出すことになる。初期の浄瑠璃は,ふつう六段形式で,筋の展開の仕方も舞台で演出できるように工夫され,詞章も七五調をまじえた平易な文体であった。承応(1652-55)ころまでの作品には,《阿弥陀胸割》《牛王姫(ごおうのひめ)》など中世的な色彩の強いもの,《親鸞記》などの高僧の霊験談,《高館(たかだち)》《八島》《小袖曾我》などの義経物や曾我物,《はなや》《むらまつ》《安口(あぐち)の判官》などの没落豪族の哀話や御家騒動物などがあるが,作者は不明である。この時期の語り手には,京都の若狭守(前名山城左内太夫),江戸の薩摩浄雲,杉山丹後掾などがいて活躍した。明暦~寛文(1655-73)には題材が一変し,坂田金時の子の金平(きんぴら)という豪傑が奇想天外な活躍をする武勇物が語られるようになり,全国的に流行した。この種の浄瑠璃を金平浄瑠璃と称し,江戸の和泉太夫,京都の上総少掾(かずさしようじよう)などが語った。他に,大坂では明暦の初めころ,井上播磨掾が出て評判を得,延宝・天和期(1673-84)には京都では宇治加賀掾が優美な語り口で王朝趣味の作品を上演し,山本土佐掾は哀調のある節を語った。播磨掾の系統から出たのが竹本義太夫で,その劇的な語り口は一世を風靡し,これまでの浄瑠璃を一変させることになる。
執筆者:山本 吉左右
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三味線伴奏による日本の語物音楽の分類名。17世紀初頭から人形芝居に用いられた浄瑠璃のうち、竹本義太夫(ぎだゆう)によって1684年(貞享1)義太夫節が成立する以前の各流の総称として用いられる。金平節(きんぴらぶし)、外記(げき)節、土佐節、角太夫(かくたゆう)節、永閑(えいかん)節、文弥(ぶんや)節、嘉太夫(かだゆう)節などがこれに含まれるが、義太夫節が人形劇音楽の王座を占めるに及び、18世紀に入ると衰微し、やがて吸収され消滅していった。
[林喜代弘]
竹本義太夫の語った近松門左衛門作「出世景清(しゅっせかげきよ)」(1685初演)以降の当流浄瑠璃に対して,それまでの古流の浄瑠璃をいう。おおむね,義太夫節成立以前とみてよいが,近松の最初の確実作「世継曾我(よつぎそが)」(1684初演)をもって,古流・当流の境とすべきとする異見もある。また江戸浄瑠璃の場合は,義太夫節が浸透してくる享保頃までの作を広く含める。寛永期前後から正本(しょうほん)の刊行をみるが,17世紀半ばには都鄙を問わず人気を集めていた語り物である。地方的語り物から出発して浄瑠璃化をとげた曲目や,その曲節に中世物語の詞藻をのせて語られる場合が一般的であったが,金平(きんぴら)浄瑠璃以降創作時代を迎え,延宝期の宇治加賀掾(かがのじょう)・山本角太夫(かくだゆう)時代をへて当流浄瑠璃につながる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…近松門左衛門の活躍時代において文学性が最も高くなり,その後人形舞台の発達につれて舞台本位の演劇性を高度にもつにいたる。
[古浄瑠璃]
1474年(文明6)ころから《浄瑠璃物語》は語られた(《実隆公記》紙背)という。その後の展開のうち,義太夫節成立までを〈古浄瑠璃〉と呼ぶ。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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