台湾(読み)タイワン

デジタル大辞泉 「台湾」の意味・読み・例文・類語

たいわん【台湾】

中国の福建省台湾海峡を隔てて南東にある島。台湾本島、澎湖ポンフー諸島その他の島々からなる。高山族が住むが明末清初から漢民族が来住、中国領となった。日清戦争後の1895年から日本領となり、1945年日本の敗戦に伴い中国の統治に復した。49年に中華民国蒋介石しょうかいせき政権がここに移り台北を臨時首都とした。面積約3万6000平方キロメートル。人口2302万(2010)。

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共同通信ニュース用語解説 「台湾」の解説

台湾

台湾たいわん 中国の南東沖にあり、九州ほどの面積の本島と周辺の島からなる。人口約2380万人。1949年、中国本土で共産とうとの戦いに敗れた国民党が、ここに政府せいふをうつした。「中華民国」を名乗るが、日本をふくむ多くの国と外交関係がない。最近は、新型しんがたコロナウイルスへの強力な対策たいさくが世界で評価ひょうかされた。

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精選版 日本国語大辞典 「台湾」の意味・読み・例文・類語

たいわん【台湾】

  1. 中国の南東方にある紡錘形の島。本島のほかに澎湖島などの付属島を含み、台湾海峡を隔てて中国の福建省・広東省に対する。島のやや東寄りに高峻な台湾山脈が南北に縦走し、西側に平野がひらける。ほぼ中央を北回帰線が通り、亜熱帯モンスーン気候を示す。先住民はマライ・インドネシア系とされる高山族であるが、人口の大部分は華南から移住した漢民族が占める。明末・清初から中国領。日清戦争後の一八九五年から日本領。一九四五年中国に返還され、省制がしかれたが、四九年中国国民党政府がここに移った。面積三万五九八一平方キロメートル。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「台湾」の意味・わかりやすい解説

台湾
たいわん / タイワン

中国南東部に位置する福建省の南東洋上約150キロメートルにある台湾島とその付属島嶼(とうしょ)からなる。面積約3万5981平方キロメートル(台湾島は3万5823平方キロメートル)、人口2278万5000(2006)。中華民国と称する。中国(中華人民共和国)は自国領土の一部であるとして台湾省とよぶ。別称フォルモサFormosa

 1945年8月15日、日本の第二次世界大戦敗戦で植民地統治が終了、台湾は中国国民党政権の支配下に入った。その後の国共内戦で共産党に敗れた国民党政権が1949年に大陸から台湾に撤退し、以来、台湾では国民党の一党独裁支配が続いた。だが1988年に李登輝(りとうき)が総統に就任して以降、民主化が加速。2000年3月の総統選挙では野党・民主進歩党の陳水扁(ちんすいへん)が当選し5月に総統に就任、国民党が台湾に政権を移して以来初めての政権交代が実現、半世紀以上にわたる国民党の長期政権に終止符が打たれた。

[劉 進 慶]

自然

福建省の南東150キロメートル、琉球(りゅうきゅう)諸島の南西200キロメートル、フィリピンの北350キロメートルに位置し、台湾島、澎湖(ほうこ)列島など79の島からなる。台湾島は南北約386キロメートル、東西は最広部で約144キロメートルあり、標高3000メートルを超す台湾山脈が南北に縦断して走り、ほぼ中央にある玉山(3997メートル)が最高峰である。山脈は本島の中央よりやや東に偏り、北端部は蘇澳(そおう)と花蓮(かれん)の間で大断崖(だんがい)をなして太平洋に臨み、付近には太魯閣(たろこ)峡谷など深い峡谷が発達する。西斜面には雪山(せつざん)山脈、阿里山(ありさん)山脈などの支脈が走り、東側に台東地溝帯を隔てて台東山脈が同じく南北に並走している。北部には高度1000メートル内外の大屯(だいとん)火山群があり、新北投(しんほくとう)、陽明山(ようめいさん)などの地に温泉の湧出(ゆうしゅつ)がみられる。また、北西部には桃園(とうえん)台地をはじめとする第三紀層、洪積層の台地が広がる。平地は西部に多く、北から南へ台北盆地、台中盆地、嘉南(かなん)平野、屏東(へいとう)平野などの沿海平野が開けているが、東部は山がちで平地は狭く、わずかに宜蘭(ぎらん)平野と狭長な台東地溝帯があるのみである。河川も地形の関係上、淡水(たんすい)河、濁水(だくすい)渓、高屏(こうへい)渓(下淡水渓)などの大河の多くは西部を流れ、台湾海峡に注ぐ。河川は概して短く幅が狭いため、流れが急で、水量が少なく、帯砂率が高いのが特徴である。西海岸は概して遠浅で砂丘の発達もみられるが、形状はいたって単調である。これに対し東海岸は山がすぐ海に臨み、変化が比較的多い。

 気候は温暖で、台湾島の中央に北回帰線が通り、熱帯と亜熱帯圏に属する。北部は夏乾冬雨、年平均気温22℃、冬は15℃以下に下がるが、中南部は夏雨冬乾、平均24℃、冬も18℃以下にはならず、常夏のいわれがある。平原から山頂との間に熱、温、寒、三つの気温帯があり、平地の夏は長く、冬は短い。年降水量は全島を通じて1700ミリメートル以上、中部山地は平均3000ミリメートル、澎湖列島は雨が少なく約1000ミリメートルである。夏から秋にかけて台風が多く、秋から冬の北東季節風はかなり強い。植物は、平地ではアコウに代表される亜熱帯植物が至る所に繁茂し、四季緑に覆われ、山地では標高差により熱帯林から温帯林まで種類がきわめて豊富で、全島では広葉樹林62%、針葉樹林22%、針広葉混合樹林9%、竹林7%の構成になっている。中部山岳地は多種のチョウと昆虫の生息地として世界的に知られる。

[劉 進 慶]

地誌

台湾の開発は、中国大陸の福建省からの移民により推し進められ、西海岸の南部からしだいに中部、北部へと広がる推移をたどった。農業の開発が中心で、農産物産地が地方に集散し、対外貿易を中継する海港に都市が形成され、商業の発達をみた。1930年代から工業化が進み、現在では北部と南部に二大工業地帯が形成されている。北部は首都台北やハイテク・コンピュータ産業の集積地である新竹(しんちく)科学工業園区、桃園などを中心とするハイテク・コンピュータ産業地帯であるのに対し、南部は高雄(たかお)を中心に、岡山(こうざん)、鳳山(ほうざん)地域を含む重化学工業地帯となっている。中部と南部は豊かな盆地と平野にはぐくまれた穀倉地帯であるが、農業のみでなく、近年は工業の進出が著しく、急速に変容している。東部は平野が狭く、地域開発が西部に比べて大幅に立ち後れている。そのほか山間地にはおもに少数民族が居住し、農牧業を営んでいる。

[劉 進 慶]

歴史

台湾は漢民族により発見され、7世紀初頭、隋(ずい)の時代に台湾の偵察征略が試みられている。元(げん)代末期の1360年、元王朝は澎湖島に巡検司を置き、福建省同安県に隷属させた。17世紀に入ると台湾はヨーロッパ列強の角逐の舞台となり、オランダが1622年に澎湖島、1624年に南部台湾を占領した。またスペインは1626年に北部のキールン、淡水を占拠したが、1642年にオランダ軍の攻撃を受けて台湾から撤退した。明(みん)王朝が滅びたのち、1661年に明の遺臣鄭成功(ていせいこう)がオランダ人を台湾から駆逐して、ここを抗清復明(こうしんふくみん)の根拠地とした。1683年、清(しん)王朝は施浪(しろう)を派遣して鄭軍を降(くだ)し、台湾を中国の版図(はんと)に収め、行政的には福建省に隷属させ、台南に台湾府を置いた。このあとしばらく大陸からの渡航を厳しく制限したが、18世紀後半から移住民の渡来が激増し、開拓が急速に進んだ。アヘン戦争後、1858年の天津(てんしん)条約により南北両端の台南と淡水港の門戸が開放され、1860年代以降、茶、砂糖、樟脳(しょうのう)など農産物の輸出が増加するに伴い、台湾はふたたびヨーロッパ列強の虎視(こし)するところとなった。日本は台湾南部琅(ろうきょう)に漂着した琉球人を住民が殺害したことを理由に、1874年台湾に出兵した。その後、1894~1895年の日清戦争の結果、台湾は日本に割譲され、以後51年間、日本の植民地統治下に置かれた。この間、島民の抵抗は激しく、台湾民主国建国運動、西来庵事件(1915)、台湾議会設置運動、霧社(むしゃ)事件(1930)など、たび重なる抗日運動がみられた。日本は台湾総督府を置き、近代的諸制度を導入し、日本の食糧供給地として米糖農業の開発を推し進めた。1930年代以降、日本軍国主義の対外膨張期に、言語、風習、信仰、意識、氏名の日本化を目ざす皇民化運動と南進軍需工業化政策が強行され、台湾社会は大きく変容させられた。

 1945年、日本敗戦の結果、台湾はふたたび中国の版図に復帰し、台湾省として再出発する。しかし中国の国共内戦が再燃し、1949年の本土における中華人民共和国の成立と蒋介石(しょうかいせき)政権の台湾への撤退により、台湾はふたたび中国本土と分断した。この間、150万ないし200万ともいわれる官吏、軍人、商工業者とそれらの家族が大陸から台湾に流入し、それ以前とは異なる新たな政治経済社会を形成することとなった。

[劉 進 慶]

政治

国民党政権は、台湾で中華民国政府の形態を維持し、青天白日旗の国旗と国民党の党歌を国歌として使用してきた。このため中華民国としての台湾は、近年まで反共と大陸復帰を国是とし、大陸本土の中華人民共和国と厳しく対立してきた。国家体制は、1947年大陸で制定された中華民国憲法を変則的に適用している。同憲法による本来の中華民国は、三民主義(民族独立、民権伸長、民生安定)に基づく民主共和国であり、国家機構は国民大会、総統、五院、中央政府と地方政府などにより構成される。国民大会は各地域、団体ごとに選出された国民代表により構成され、憲法を審議し、総統を選出するが、立法機関ではない。総統は元首として国家を代表し、国家の重要事項を決定し、その下に行政、立法、司法、考試、監察の五院を置く。行政院は内閣、院長は首相にあたり、その下に各部局(省庁)を置いて中央政府を構成する。立法院は議会にあたり、委員は各地域、団体から選出し、院長(議長)は委員の互選による。地方政府は省(市)と県の二級に分かれ、各レベルに省(市)議会、県議会があり、原則的には地方自治制度をとっている。しかしながら、国共内戦と冷戦下で非常時体制がとられたため、憲法機能は実質的に停止状態にあり、前述の政治制度は変則的にしか存在しない。

 実際には、台湾にはほぼ同一地域に中央レベルとしての中華民国政府と地方自治体レベルとしての台湾省政府の二重の政府が存在してきた。中華民国政府は大陸を含めた中国全体を統治し、台湾省政府は台湾島および周辺諸島を統治するという「建前」のためである。この過程で台北と高雄が中央政府の直轄市に改められ、省政府の下に大陸島嶼(とうしょ)の金門、馬祖を含めた18の県、台中、台南など五つの省轄市がある。

 1975年、蒋介石が死去、権力は長男の蒋経国(しょうけいこく)に引き継がれた。この蒋一族と国民党一党独裁に対する民衆の不満は、1947年に起きた二・二八民衆蜂起(ほうき)事件の大量殺戮(さつりく)に対する怨念(おんねん)と相まってかなり根深い。したがって党外反政府勢力や独立運動の動きが根強く、1986年、最初の野党民主進歩党が禁令を冒(おか)して結成された。1987年、冷戦の溶解を受けて38年間続いた戒厳令が解除され、大陸への親族訪問や新聞、結党の規制が矢つぎばやに解禁され、民主化の走りとなる。そして1988年、蒋経国の死去を受けて李登輝(りとうき)政権が誕生し、民主化の動きが加速された。1990年代初頭、憲法臨時条項が廃棄され、40余年続いた非常時体制が終結、国会議員の全面改選と省、直轄市の首長民選も行われた。1996年3月には初の総統直接選挙が実施され、李登輝総統が初の民選総統に選出された。1997年7月に憲法改正案が採択され、台湾省政府の権限と組織の簡素化(実質的な廃止)、総統権限の拡大など、台湾の政治的実態に即した国家体制の再編が推し進められることになった。そして1998年12月、台湾省長と台湾省議会議員の任期が終了、新たに中央政府が任命した省主席、省政府委員らによる新しい省政府が発足した。また、1999年7月には李登輝総統が、中国と台湾の関係を「特殊な国と国との関係である」と発言、このいわゆる「二国論」発言に、中国は激しく反発した。さらに2000年3月の総統選挙では、中国から「独立派」と目されていた民主進歩党の陳水扁が当選(2004年再選)、半世紀以上にわたる国民党の長期単独政権時代に幕が下りた。なお、国民党を離脱し無所属で総統選挙に出馬した宋楚瑜(そうそゆ)が、選挙直後に新党・親民党(しんみんとう)を発足させたことで国民党は分裂、台湾政界は主要3党体制に移行しつつある。

 この一連の動きに対し、中国大陸は一国両制方式による平和統一を呼びかけると同時に、台湾独立に対し武力行使による阻止をも辞さない姿勢を示している。大陸との統合を拒む台湾は、満20歳の男子に義務兵役制(兵役期限1年8か月)を採用し、総兵力約29万を擁し、空軍に力点を置き、アメリカからの武器供与を支えとして、中国本土からの攻略に備えることを国防の基本政策としている。1971年国連から脱退し、2006年末現在、国交をもつ国が24にすぎず、孤立感を深めているが、民間レベルで実務関係を維持している国は日本を含めて100か国以上ある。

[劉 進 慶]

産業・経済

台湾は、歴史的に中国の辺境社会として開発の潜在力をもち、清末から輸出指向的農業の発展がみられた。日本統治時代においてもサトウキビと米を中心とする農業の急速な発展が続き、1930年代には軍需的工業化を経験した。第二次世界大戦直後は一時期、経済が混乱したが、1950年代からアメリカの援助と砂糖と米の輸出に支えられて輸入代替工業が発展し、1960年代以降、外資導入による輸出指向工業化を推進し、持続的な高度成長を遂げてきた。

 農業は、豊富な雨量、温暖な気候と整備された水利灌漑(かんがい)のもとで、多毛作による土地の高度利用が行われている。米、サトウキビ、サツマイモ、豆類のほか、バナナ、パイナップルなど多くの園芸作物やエビ、ウナギ、ブタの養殖が盛んである。食糧は、米を自給できるが、人口増加と消費の多様化により、小麦と大豆を大量に輸入し、全体としては食糧輸入国になっている。耕地面積は約90万ヘクタールで、総面積の24%を占め、農業人口は総人口の17%に当たる。森林面積は全島の約50%を占め、かつては良材を多く産出したが、森林資源保存のため生産が激減している。水産は、従来近海漁業が中心であったが、近年遠洋と養殖漁業の発展により安定した成長を遂げている。しかしながら農林水産業の生産は、工業の相対的発展により、国内総生産(GDP)に占める割合が3%まで下がり、国民経済における地位が著しく低下している。

 工業は1960年代以降、輸出向工業化が急速に進み、工業生産高と就業人口がともに増大している。この間、主として紡績、家電、電子、プラスチック製品、雑貨などの労働集約的輸出加工業が成長をリードしたが、1970年代から鉄鋼、石油化学、造船などの重化学工業化が推進され、近年は機械、電子・情報機器産業が成長、コンピュータや半導体などが主力輸出品となっている。産業構造は官営が基幹産業を握り、外資を含む民営が消費財や輸出産業を担うという二重構造をなしている。1990年代、官営企業の民営化が進み、産業全体が大きな転換期を迎えている。

 対外貿易は年間3500億ドルを上回り、国民総生産(GNP)に近い規模になっている。主要な輸出品は電子・電気製品、通信機器、紡績などであるのに対し、輸入品は電子・電気製品、機械設備、化学品などである。貿易相手国は日本とアメリカおよび香港(ホンコン)を中継とする中国大陸が中心で、対日赤字と対アメリカ・香港黒字が構造的に形成されているが、貿易全体では黒字基調である。1980年代後半から海外投資が急増し、資本輸出国に転身している。外貨準備高は2006年現在約2500億ドルに達し、為替(かわせ)レートもきわめて安定している。

 財政における歳出規模は国民総生産の4分の1を占める。このうち中央政府が全体の約3分の2、地方政府が約3分の1の割合になっており、中央歳出の3分の2が行政・国防費で占められて、近年まで軍事財政の色が強かった。金融機関は中央銀行を頂点に34の都市銀行、8の中小企業銀行、73の信用組合、285の農協信用部、54の信託投資会社および各地の郵便貯蓄局からなるピラミッド構造ができている。このほか貿易と国際金融を促進するため59の外国銀行を誘致しているのが特徴である。通貨は新台幣で単位は元、物価は比較的安定している。

 産業の発展に伴い、交通の整備が進み、陸運では道路の充実に力点が置かれ、南北を貫通する高速道路が完成している。海運は既存のキールン、高雄、花蓮の3港のほかに、新たに台中港と東部の蘇澳(そおう)港が開港された。空港は中正(桃園)、高雄の二つの国際空港が世界各地と結び、ほかに大小15のローカル空港がある。1999年3月には台北と高雄を約90分で結ぶ高速鉄道が着工され、2007年に開業している。通信事業も発達しており、郵便サービスの能率が高く、電話の使用が普及している。観光業では、島内に数多くの観光地があり、北部では台北近郊の故宮(こきゅう)博物院、陽明山(ようめいざん)温泉、新北投(しんほくとう)温泉、烏来(うらい)、石門ダム、中部は山中の湖水を誇る日月潭(じつげつたん)、阿里山(ありさん)、南部は台南の史跡、台湾最南端の墾丁(こんてい)(熱帯植物)公園などが有名で、観光施設も整備されている。

 台湾は農林資源が豊かであるが、その他の資源に乏しく、エネルギーの大部分を輸入石油に依存しており、近年、原子力発電の開発に力を入れている。しかし工業化による環境汚染が進んだことで、保護対策が課題となっており、環境意識も高まりをみせている。また、近い将来香港と並ぶ国際海運・貿易・金融センターの形成を目ざしている。

[劉 進 慶]

社会・文化

台湾の住民は98%の漢族と2%の山地同胞とよばれる先住の少数民族で構成されている。漢族のうち、戦前から住み着いた本省人が85%、戦後に渡来した外省人が15%である。外省人は大陸の各省からきているが、本省人は福建省からきた福佬(ふくろう)系が本省人全体の85%、広東(カントン)省からきた客家(ハッカ)系が15%を占める。他の民族はタイヤル、ブヌン、ツォウ、アミなど9種族に分けられるが、主としてマレー族、ポリネシア族である。歴史的には移民の過程で先住の民族と漢族との闘争、福佬系と客家系の対立があった。また第二次世界大戦後は政治的に本省人と外省人の対立感情が根深く存在してきたが、これらの対立は時とともに緩和される方向にある。

 公用語は北京(ペキン)官話が国語として使用され、かなり普及している。それと並行して閩南(みんなん)語(台湾語)が主要な通用語をなし、客家語は北部の新竹、苗栗(びょうりつ)と南部の一部地域で通用し、先住の民族の言語は多種多様で部族内にしか使われていない。

 台湾の人口は2278万5000(2006)に達し、人口密度は1平方キロメートル当り633人で、厳しい人口稠密(ちゅうみつ)問題を抱えている。しかし経済発展により雇用が増加し、女性の就業比率も高く、完全雇用を達成して失業者は少ない。1人当り国民所得は約1万5000ドル(2005)で、ほとんどの家庭にテレビ、洗濯機、冷蔵庫やビデオ、電話が普及しており、乗用車の保有台数も増えている。食生活を重視する国柄と相まって、国民生活の質的向上と富裕化が進んでいる。かつて労働力は低賃金、不熟練、女子若年労働が支配的であったが、近年、賃金上昇と労働力不足に直面し、かなりの外国人労働者を導入している。労働組合運動の制限やストの禁止は、戒厳令の解除と政治の民主化によって事情が一変している。人口が稠密なうえ、都市化が進み地価が高く、住宅事情はかなり厳しい。

 台湾は学歴重視、教育熱心の社会で、戦前から基礎教育が普及し、戦後は教育の量的・質的発展が著しい。教育制度は六・三・三制をとり、9月を学年開始期とし、1969年から義務教育の年限を中学まで延ばして9年とした。1996年の時点で小学校と中学校の進学率は100%に近く、短大以上の大学は国公私立あわせて137校に上り、大学進学率は同年齢層の50%を超えている。大学は国公立優位の傾向が強く、国公私立の統一入試制度がとられ、受験競争はきわめて厳しい。孫文思想と反共教育を重視し、軍事訓練や兵役義務が教育課程に取り入れられている。1960年代以降、大量の大学卒業者が海外に留学し、とくに理工系の学生でアメリカに留学する者が多く、頭脳流出が問題とされたが、近年は人材の還流が増えている。信仰は自由で、もっとも多いのが道教、次に仏教、天主教、キリスト教の順となっており、宗廟(そうびょう)、寺院、教会が随所にみられる。基本的には多神教が圧倒的で、異なる宗教に対しては寛大な社会であり、宗教間の対立矛盾はほとんどない。

 台湾の文化は基本的には中国文化圏の流れをくんでいるが、近代史の過程で外国との接触が多い関係上、日本やヨーロッパ文化の摂取も比較的進んでいる。第二次世界大戦後は中国本土の社会主義化に対抗して、意図的に伝統的儒教文化の継承発揚が強調され、文字でも繁体漢字の使用に固執している。社会生活では儒教倫理と伝統的家族主義を基本に、家庭では孝行の徳目を重視し、社会では血縁的宗族主義が根強く、宗教の戒律による生活規範は緩い。民衆は労働意欲が高く勤勉で、余暇を利用した行楽、旅行、スポーツは最近ようやく盛んになっている。文化施設は台北にある故宮博物院が有名で、大陸から移してきた国宝級の宝物、書画美術品62万点が収蔵され、国際的に定評がある。文学活動はかつて非常時体制下の言論・思想統制により反共文学的色彩に覆われていたが、1970年代以降、台湾の現実社会を題材とした郷土文学作品が続出して注目を浴びた。大衆娯楽の映画、音楽やテレビは日本とアメリカの影響が強く、書画は大陸から流入した人たちの影響で一定の水準が維持されている。新聞、雑誌の種類は多いが、1988年まで出版物規制法により言論、マスコミに厳しい検閲制がとられていた。民主化、自由化により、夕刊、英字を含めた新聞が22紙、総発行部数は480万部(1996)に達し、民間系テレビ局も増えている。日本とは歴史的、地理的、文化的に関係が深く、古い年配の世代には日本語のわかる人が多く、老若を問わず日本に対する国民感情はきわめて良好で、本省人は概して親日的である。

[劉 進 慶]

『許新枝著『台湾省の地方自治組織』(1988・東豊書店)』『李登輝著、陳鵬仁訳『台湾がめざす未来――中華民国総統から世界へのメッセージ』(1996・柏書房)』『酒井亨著『台湾入門』(2001・日中出版)』『伊原吉之助編著『台湾の政治改革年表・覚書2001年』(2004・交流協会)』


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改訂新版 世界大百科事典 「台湾」の意味・わかりやすい解説

台湾 (たいわん)
Tái wān

中国東南部の福建省の対岸に幅150~200kmの台湾海峡を東にへだてて,位置する島。総称としての台湾は,台湾本島と21の付属島嶼(とうしよ)および澎湖諸島の64の島々を合計した86の島からなる。付属島嶼を含めて面積3万6008km2。これは,福建省の約3分の1の面積で,海南省(海南島)と並ぶ。総人口は2322万(2011),人口密度約600人/km2。政治,経済,文化の中心は台北市。台北市と高雄(たかお)市は院(行政院)直轄市,基隆(キールン),台中,台南,新竹,嘉義の5市は省直轄市,その他は18の県に分割され,下部行政体としては,県直轄市,鎮,郷がある。鎮は日本の町,郷は村にあたっている。

ほぼ中央を北回帰線が通り,亜熱帯気候で,平地では冬にも降霜をみない。北部の台北では平均気温2月14.9℃,7月28.2℃,年平均21.7℃,南部の台南では2月17.1℃,7月27.8℃,年平均23.2℃である。降水量は夏に多いが,北部では北東季節風の影響で冬季にも比較的雨が多い。年降水量は台北で2116mm,台南で1797mmである。南北方向に中央山脈が走り,玉山(旧称新高山(にいたかやま)3997m),雪山(旧称次高山(つぎたかやま)3884m)など3000mを超える山々がつらなっている。北部には1000m内外の高度をもつ大屯火山群がそびえ,温泉を湧出させている。西部には平野がひらけ,淡水河,濁水渓,高屛渓(下淡水渓)などの河川が流れる。東部では山地が直接太平洋にのぞみ,宜蘭,台東の狭い平野がみられるだけである。海岸線は単調で,良港湾には恵まれない。

少数の外国人を除くと先住民の高山族と大陸から移住してきた漢族を中心とする大陸系住民の二大部分からなる。高山族はインドネシア系統あるいは原(プロト)マレー系統の種族であるといわれている。高山族が台湾に渡来してきた経路は明らかでない。南方の島づたいに来たとも,中国南部から台湾海峡を渡って来たともいわれている。いずれにせよ,彼らは早い時期に渡来し,定住するようになった。しかも,台湾への漢族の渡来はこれより遅れるので,高山族は長くその種族としての特質を保持することができた。狩猟,焼畑農業が彼らの生業であった。人口は約37万(1995)で,アタヤルAtayal,ツォウTsou,ルカイRukai,パイワンPaiwan,プユマPuyuma,アミAmi,ブヌンBunun,サイシャットSaisiyat,ヤミYamiなどの諸族に分かれている。高山族に対しては現在近代化政策がとられているので,かつての生活様式は大きく変わり,焼畑も姿を消しつつある。大陸系住民はまた先移住の本省人と後移住の外省人に分けられる。本省人とは,第2次大戦終結前までに開拓を主な目的として,対岸の福建・広東両省から入台した漢族とその末裔を指す。本省人はまた使用言(母)語別に福佬(ふくりよう)人と客家(ハツカ)人の2系統に分かれる。前者は閩南(びんなん)(福建省南部の泉州と漳州が中心)と福佬語に近い潮州語をあやつる広東省潮州府出身者を含む。後者は広東省梅県を祖籍とする人々が中心だが,客家語を母語とする福建省の汀州,永定などの出身者もその出身省と関係なく客家人に分類できる。福佬系移民が先に定住したため,西部沿海の沃野を占めてきた。出おくれた客家系移民は,高山族の住む高山部と福佬人の占める平野部との中間地帯の山麓部に多くが居住する。なお,日本の敗戦で中国に復帰後,農地改革,工業化,輸出保税加工区設置などの高度成長経済政策で,台湾の社会経済構造は急速な変貌をみせている。そのため客家人の都市部進出,工業団地の創設などで住民の言語別地域分布にも変動が起こっている。本省人の人口は約1800万,86%を福佬系が,14%弱を客家系が占め,一般に台湾人という場合は多数者グループの福佬人だけを指す。したがって台湾語もまた福佬語すなわち閩南語だけをいう。高山族人口が約37万といわれているゆえ,残りの約300万がいわば外省人人口となろう。外省人と概称される後移住大陸系住民は,台湾の祖国復帰と中国革命の余波であらたに大陸から移住した人々をいう。出身地は東南沿海地域とくに浙江・江蘇両省が中心である。しかし彼らの多くが国民党の軍・政関係者であるため,出身地の分布は全大陸に広がる。少数だが漢族以外の少数民族の出身者もいる。

漢籍に載る台湾最古の記録を,一部の学者は戦国時代(前403-前221)の地理書〈禹貢〉(《書経》の一篇)にまでさかのぼり,同書の〈島夷〉を台湾と見たてる。だが3世紀半ばの《臨海水土志》に〈夷州〉と見えるのを台湾史最古の現存記録とみるのが通説である。のちの史料には〈流求〉〈留仇〉〈流虬〉等の呼称であらわれ,大陸・台湾間の往来は三国時代以降,断続的にあったとされる。地方行政機構の巡検司が台湾に設置されたのは元代になってからである。明代になると,〈小琉球〉の呼称で台湾は呼ばれる。これはこの時代,沖縄の中山国王が明朝に入貢し,〈琉球〉と称したのに対し,中国側はこれを区別して沖縄を〈大琉球〉,台湾を〈小琉球〉としたためである。

 明代嘉靖年間(1522-66)以降,大陸と台湾との往来は発展していくが,これより先,鄭和の南海遠征軍の台南寄港,倭寇と通じていた林道乾らの台湾開拓があったと史書にはある。同じころ東漸してきたポルトガル人は海上から台湾を眺望して,Ilha Formosa美麗島(うるわしのしま)とよんだ。ヨーロッパ文献で台湾を称してフォルモーサと記すゆえんである。1624年(天啓4),オランダ東インド会社は中国,日本との通商基地として台南一帯を占領し,安平にゼーランジア城,台南にプロビンチア城を築いた。26年にはスペインがオランダに対抗して北部台湾の淡水にサン・ドミンゴ城,基隆にサン・サルバドル城を築いた。42年,オランダは台湾の独占をくわだてスペイン勢力を一掃し積極的に植民地経営に乗り出した。しかしオランダの台湾支配も長く続かなかった。それは,61年(順治18)滅亡した明朝の回復をはかろうとした鄭成功が2万5000の兵をひきいて台湾に上陸,翌年,ゼーランジア城を攻めてオランダ人を追放し,南台湾を中心に〈反清復明〉の基地経営を試みたからだった。

 鄭成功は対岸の福建省から移民を誘致するとともに,営盤田制をしいて開拓の進展を図った。営盤田制とは,農民を平時には農業に従事させ,有事には兵として参戦させる制度である。鄭氏の台湾支配は3代22年で終わり,83年(康煕22)には清の版図に入った。84年,清は台湾府を設置し福建省に隷属させた。〈台湾〉の呼称は,本来,台湾南部に居住した高山族の平埔人部落を指していったが,台湾府の設置により,全島の呼称となった。なお江戸時代の日本では台湾を〈高砂(たかさご)国〉と称していた。

 清朝治下になると福建省,広東省からの移民が増加し,開拓は北へ向けて進められた。なお17世紀末には中部地方が開拓されて彰化,台中,新竹などの都市が発達した。18世紀の初めからは北部の開拓が進み,淡水河の下流に台北の旧市街艋舺(もうこう)ができた。また18世紀末からは北東部の宜蘭平野に開拓の手がのびた。しかし,交通の不便な東部の台東平野は19世紀になっても未開拓であった。開拓は墾戸(または大租戸)開拓という形をとって行われた。これは,墾戸とよばれる開拓事業主が官の許可をうけたのち,佃戸(でんこ)とよばれる農民を引きつれて開墾する方法で,墾戸は官に対して租税をおさめるが,他方佃戸からは年貢を徴収する。佃戸は墾戸の支配を受けたが,その身分的隷属関係は比較的稀薄であり,また彼らは草分け農家的性格をもっていたから,新移住者が増加してくると自己の耕作地を他の小作農(現耕佃人)に転貸し,しだいに地主化していった。このため,年貢を分けて,佃戸が墾戸に納めるものを大租,現耕佃人が佃戸に納めるものを小租というようになり,台湾の農村社会は墾戸(大租戸),佃戸(小租戸),現耕佃人の3階層に分化し,このうち佃戸の地位がしだいに向上していった。

 行政組織についていうと,台湾は初め福建省に隷属する台湾府として取りあつかわれ,台南にその官衙があった。また1875年(光緒1)には台湾府とは別に台北府が設けられ,さらに85年,福建省から分離独立させて台湾省を設け,劉銘伝を巡撫に任命した。劉銘伝は開明的な官僚で,省城を台北に定めたのち,在任7年の間に基隆・新竹間の鉄道の敷設,郵便制度の改革,土地清賦事業などを遂行した。このうち土地清賦事業は彼が最も力を注いだもので,測量による隠田の整理,大租戸権の否定による官と小租戸(地主)という関係での租税体系の確立がそれであった。

 日清戦争の結果,95年台湾は清国から日本に〈割譲〉され,日本の植民地支配が始まる。日本が台湾に対してとった方法は直接統治策であった。枢要な機関はすべて日本人によっておさえられ,その頂点に立つ者が総督である。郡守(郡長),市長も日本人が任命され,下級官吏もほとんど日本人であったし,台湾銀行のような重要な金融機関の行員も大部分が日本人だった。こうした直接統治策をとった日本の台湾支配は,初めの3年,漢族系官・民の激しい武力抵抗にあい,帝国議会では台湾売却論さえ出る始末だった。98年以降約10年間,民政長官後藤新平は第4代総督児玉源太郎のもとで,あめとむちを併用した辣腕政治を行った。〈匪徒刑罰令〉を行使して抗日ゲリラを問答無用で刑死に追い込む一方,地主士紳層には〈饗老典〉(耆老を集め酒宴や菓銭を供与),〈揚文会〉(漢詩を士紳儒者らと吟じる会)を開催し,紳章(一種の勲章)の佩帯をすすめるなどのあめをしゃぶらせて懐柔を試みた。治安の確立と並行しながら,後藤は新渡戸稲造(にとべいなぞう)を殖産局長に迎え,糖業を振興する。植民地開発の進展に伴い,砂糖,ショウノウ,茶は外貨の面で,台湾米は米騒動後の緊急事態に対し,そして木材などの資源は日本資本主義を大いに潤した。〈満州事変〉に始まる15年戦争期には,台湾の〈人的資源〉を侵略体制に組みこみ,皇民化運動を強化しながら,台湾島民を漢族,高山族の別なく戦争に駆りたてた。

 なお漢族系武装抗日運動は,ジェノサイド的大弾圧で結着をつけられた西来庵事件(1915)をもって一応は終息した。だが,文化的・社会的そして地下運動の形態をとった中国復帰運動,植民地解放運動は1945年8月15日まで間断なく続いた。日本の台湾支配もまた基本的には分割支配であった。台湾総督府は戸口規則を制定(1905)し,種族欄を設け,〈父ノ種族ニ依リ内地人(日本人),本島人(福建人,広東人,其ノ他ノ漢人,熟蕃人,生蕃人),支那人(中国国籍を保持する漢人)ノ区別ヲ記スベシ……〉(最初と最後の( )内は引用者注)と定め,被支配民族の各個撃破と抗争対立を利用して分割統治を強化遂行した。その典型的で悲劇的な事例は,霧社事件における,警察官が仕組んだ〈味方蕃〉(日本側に懐柔された高山族)の〈敵蕃〉(蜂起した高山族)遺族に対する闇打ち事件(第2次霧社事件)である。台湾は中国の辺境である南海の孤島を全中国から切り離される形で植民地化された特殊性と,すでに成立していた寄生地主制が台湾総督府の土地調査事業による再編で中小地主層が中産階級の核として成長しつつあったことなどが台湾における抵抗運動のユニークさをつくりあげた。第1に〈曲線救台〉,すなわち中国大陸での反帝・反封建革命に参与し,それを成就させて後,台湾解放を目ざす発想と行動様式を生み出した。第2に,中小地主層の存在と中国大陸と陸続きでないことが,台湾の左翼運動の展開をいちじるしく阻んだ。

経済についても日本中心の政策がとられた。日本が台湾に求めたものは米,砂糖,茶,バナナ,ショウノウ,塩などの食料,工業原料であった。とくに米,砂糖の増産には大きな努力がはらわれ,その一環として灌漑施設が整備された。このうち桃園大圳(たいしゆう)は台北盆地の西にひろがる桃園台地に設けられた水路で,これは台北市の南西52km,北流する淡水河が桃園台地によって行く手をさえぎられ,東へ流路を変える石門にダムをつくり,これを台地上に導いて溜池に給水するものである。嘉南大圳は台湾南部を西流する官佃渓上流の烏山頭に高さ55m,長さ1.3kmのダムをつくり,山をへだてた曾文渓の水をトンネルで取り入れるもので,1920年に着工し,30年に完成した。ダム湖は谷にそって樹枝状に広がるので珊瑚潭ともよばれ,現在観光地にもなっている。灌漑施設のほか,品種改良や農法の改善にも努力がはらわれた。米については,日本人の嗜好に適する蓬萊米(ほうらいまい)という新品種が育成された。これは鹿児島県の気候に近い台北市北方の大屯山頂上付近(標高1000m)に最初の種苗田をつくって日本米を育成したのち,これを順次山腹下方の種苗田に移植して台湾の気候になれさせたものである。砂糖でも,原料サトウキビについてはハワイ種とジャワ種とを交配させて優良種をつくったうえ,栽培方法については米,サツマイモ,サトウキビを組み合わせた3年輪作が奨励された。これには輪作によって地力の消耗を防ぐということのほか,米とサトウキビの灌漑必要期の違いに着目して,嘉南大圳の灌漑用水を効果的に利用しようというねらいもあった。すなわち,耕地は150haを標準単位とする給水区に分けられ,これがさらに50ha単位の3小区に細分されたのち,各小区ごとに米,サツマイモ,サトウキビを輪作するのである。

日本の敗戦で台湾は中国に復帰した。1947年2月28日,戦後期特有の混乱と当局の失政で二・二八峰起が起こり,当局関係者の報復的弾圧で,本省人を中心とした知識分子と指導者層のかなりの部分が非業の死を遂げた。49年10月1日,中国共産党政権の成立と並行して国民党政府の中央政府は台湾に移り,今なお台湾海峡をはさんで対峙している。国共両政権の対峙とアメリカの台湾海峡情勢に対する軍事介入で,二・二八事件関係の島外〈亡命者〉グループは中華人民共和国への参与派と台湾独立派の両極に分解した。台湾独立派は56年1月に日本で亡命政府を作り,自由主義陣営と社会主義陣営の対立ならびにアメリカを中心とした〈中国封じ込め政策〉の間隙を縫って台湾独立運動を試みる。おもな担い手は福佬系台湾土着ブルジョアジーとその子弟である。彼らはいろいろな台湾民族論,台湾非中国人論を提唱するが,論理自体に無理があり説得力にも欠けていたので運動は遅々として進まなかった。60年代半ば以降,台湾経済が高度成長段階に移り,台湾土着ブルジョアジーの体制内再編成が進展する過程で,第一世代の台湾独立派の指導層のかなりの部分が国府の融和策で帰順するかもしくは運動から離脱した。とくに〈ピンポン外交〉に始まった米中接近,日中国交樹立等で形成された新国際環境への適応にとまどった形跡が濃厚である。他方で〈保釣運動〉(釣魚島すなわち尖閣列島防衛運動)から発展した中国統一運動がアメリカ・カナダの留学生・知識人界を風靡し,台湾独立運動を凌駕せんばかりの勢いを70年代半ばに見せたが,四人組体制の崩壊,文化大革命批判の公然化で挫折し,以後は低潮期にある。

 なお台湾の内部では中国共産党の対米・日接近とベトナム戦争の終結に伴って,アメリカによる台湾切り捨てはもはや時間の問題とみる危機意識が資産階級を中心にはびこり,中上層の資金・人間双方の北米向け流出は急を告げるありさまだった。米中の国交樹立(1979末)に伴って,島内民主化運動は一段と激しさをみせ始め,それに呼応するように,60年代以来アメリカに定住し始めてきた台湾独立派の第二世代が,70年代半ば以来,急速に北米に流入定住した台湾人新移民層を基盤に,外省人をも巻き込んだ形で1800万台湾人(台湾に生活・運命共同体としてのアイデンティティを認める台湾在住のあらゆる人々を指していう)の自決をスローガンに掲げるようになる。島内民主化運動陣営内においても,台湾自決派(台湾独立派への指向が濃厚)と大陸との和平統一派の両極分解のきざしがみえはじめた。中国共産党側の重なる和平統一攻勢と島内外の民主化運動ならびに台湾独立運動の突きあげに,国民党政府は中国共産党に対して和平会談を拒絶する代り,三民主義による中国統一のスローガンを掲げ,島内反体制運動には懐柔と弾圧の双方を巧みに展開させながら窮境からの出口を模索していた。

 80年代以降,経済発展により中産階級は肥大化し,北米滞在者を中心とする民主化支援運動もまた盛んとなる。島内の矛盾は激化し,当局と反体制側の抗争もまた様相を新たにする。反体制陣営は長年のタブーに挑戦して野党=民主進歩党(民進党)を結成(1986年9月28日)したが,当局はこれを黙認したばかりか,翌年7月15日の零時を期して世界一長い戒厳令を解除した。同年11月1日には中国大陸への親族訪問を解禁し,88年1月1日には〈報禁〉(新聞の創刊と増ページの制限令)を解除した。結社と言論の自由化と中・台間の往来を徐々に緩和していくことで体制側からの〈ガス抜き〉がタイムリーに進められたと言ってよい。上からの民主化を試みた蔣経国総統は88年1月13日に死去したため,憲法の規定にもとづいて副総統李登輝が台湾人として史上最初の総統と国民党の党主席代行にそれぞれ就任した。李は国民代表大会の間接選挙を経て90年5月20日に総統職の続投をする。李総統は96年3月には自ら立候補して総統の直接選挙を戦い,再選された。

 李登輝国民党内の異分子が飛び出して新党を結成し(93年8月),次いで民進党の〈台湾独立建国〉を原理主義的に主張するグループが台湾独立系の業者と組んで新たに〈建国党〉を結党(96年10月)した。

 2000年の総統選挙では野党,民進党の陳水扁が国民党の候補を破って当選し,04年再選された。08年3月の総統選挙では国民党の馬英九が当選し,8年ぶりに国民党が政権に復帰した。12年1月,馬英九は再選を果たした。

最後に台湾の戦後復興をいちべつしておこう。復帰後の台湾では,農地改革が行われ,工業化が進んでいる。農地改革としては〈三七五減租〉〈公地放領〉が行われた。〈三七五減租〉とは小作料を1000分の375(37.5%)におさえることであり,〈公地放領〉とは台湾総督府,日本企業,日本人の所有していた土地を接収して公地とし,これを土地を所有しない農民に払い下げることをいう。その結果,小作農は36%から10%に減少し,自作農は38%から78%に増加した。農産物にも変化が起こった。砂糖生産は国際市場でフィリピンや中南米の追い上げをうけて減少したが,ジャガイモ,タマネギ,アスパラガス,豆類などの蔬菜類生産は日本を市場とする商品作物として発展した。ウーロン茶,バナナ,パイナップルなど日本領時代に発展した作物の生産も多い。工業の発達はとくに顕著である。現在,台湾の経済は農業中心から工業中心に移り重化学工業よりも台湾の特性を生かしたハイテク産業への傾斜がいちじるしい。輸出貿易においても工業製品の占める割合が90%に達している。

 幹線交通機関としては,基隆市から高雄市にいたる縦貫鉄道と高速道路のほか,中央山脈を横断して台中市と花蓮市を結ぶ東西横貫公路がある。航空路は台北空港を中心に島内各地との間に開かれている。台北市郊外にある桃園空港は国際空港である。

 台湾経済は最近21年間(1975-96)に平均8.15%の高度成長を遂げた。台湾のGNPは2636億ドル,世界210の経済体で第19位,アジアでは同じく第5位を占める。なお国民1人当りGNPは1万2439ドルで世界第26位を占めた(1995)。とくに世界の注目をうけているのは半導体産業の躍進と中・台経済関係の展開である。大陸訪問を87年に自由化して以来96年度までに台湾地区から大陸地区に赴いた者は累計で,のべ1000万人を超える。なお香港経由の中・台間移出入貿易の総額は178億ドル(1995)を超え,うち台湾からの移出が131億ドルを占める。台湾から大陸への投資も活発で91-96年の許可件数が1万1637件,金額にして68億7000万ドル(台湾側発表)に及ぶ。
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更新世において,台湾は大陸の華南地方とは,幾度かにわたって連続したと考えられる。その間に華南の動物群の台湾への遷移があった。人類の移動の証跡もあるはずであるが,ウルム氷期終末期におさえられているにすぎない。台東県長浜郷八仙洞の発掘調査によって明らかにされたチョッパーと剝片石器群がそれで,これを長浜文化とよぶ。炭素14法によると1万5000年前から5000年前に及ぶ時期としておさえられている。形質人類学の資料としては,台南県左鎮郷菜寮渓河床から3万~2万年前に属する人類の頭蓋骨片が発見されている。更新世が終わって,台湾が孤島化した後,出現した最早の文化は縄文陶文化である。縄文陶は粗縄文陶と細縄文陶がある。前者が古層に属している。それらは発達した磨製石器を伴う。長浜文化との関連は考えられない。この古層の文化は大坌坑(だいふんこう)文化とよばれている。大坌坑文化以後に,北部において登場するのは,有肩石斧,有段石(せきほん)を含む多様の石器技術を伴う円山文化である。この文化には磨製石庖丁を伴わない。その石器の組成から見るなら,福建省西辺から広東省沿海地域にかけての石器技術に近似している。この円山文化は前期の円山期,印文軟陶を伴う後期の植物園期に分けられる。その後,台湾西海岸中・南部には紅陶文化が登場,ひきつづき黒陶と灰陶を伴う文化が展開する。この西海岸中・南部に登場展開する文化を張光直は竜山形成期文化とよび,紅陶文化には,青蓮崗文化(青蓮崗遺跡)に類似するところがあり,中部の灰陶・黒陶文化は良渚(りようしよ)文化(良渚鎮遺跡)に比較されうるものがあると述べている。また南部の灰陶・黒陶文化は閩江(びんこう)の曇石山文化と一源的文化であると説いている。近年台北盆地に発見された芝山巌文化には少量の黒陶も伴出するほかに,曇石山出土彩陶に近似した黒彩の彩陶を伴っている。竜山形成期文化は大陸から幾波かの波として台湾に登場したと思われる。この文化には磨製の石庖丁が発達,まれには石鎌を伴う例もある。この文化は稲と粟の穀作をもったことが考えられる。

 台湾西海岸各地には紀元前後から鉄器が導入される。土器としては幾何形印文をもつ黒色陶,櫛目文あるいは圏点文をもつ灰陶を伴う。一般に火度は高くなる。その幾何形印文陶は華南沿海地方の幾何形印文陶と酷似している(印文土器)。台湾南部の恒春半島から東海岸にかけて,巨石を用いる2系の文化がある。恒春半島から台東平野にかけて,板岩の組合せ石棺,板岩の石柱,石杵等を伴う遺跡が分布,海岸山脈の東縁に岩棺,石像,石製円盤等を伴う遺跡が分布する。前者はアミ族の文化に関連をもつと見られる。台湾東岸南部の沖に位置する蘭嶼(らんしよ)の住民とその文化はバシー海峡のバタン島,イトバヤット島等から渡来したことがわかっている。西海岸北部の印文陶の末流はケタガラン族の文化に伝えられている。西海岸南部の先史時代末期は赤褐色素面含砂陶の時代で,この文化は漢族入植の時期まで持続する。
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高山族と漢民族の音楽に二大別できる。高山族の音楽は多彩で,声楽は和音,カノン,平行,変奏曲,ドローン,ファルセット,対位法,応答などの基本唱法の原始形態を有している。しかしすべての種族がこれを所有しているのではなく,種族によってはかなり簡単な構造による音階の歌もある。器楽の方は独奏が多く楽器は口琴,弓琴,ノーズ・フルート等でおもに若い男女の求愛用として使われる。この他縦笛,杵(しよ),鈴類がある。かつては彼らの生活に密着していたが,近年に至ってはテレビ,ラジオ,音響設備等の普及によって音楽遺産も急激に失われつつあり,流行歌やエレキギターがこれにとって替わった。

 漢民族の伝統音楽は,台湾では国楽といい,民謡,劇楽,器楽,宗教音楽など多彩である。民謡は〈福佬系〉と〈客家系〉とがあり,後者の方が数も多く変化に富んでいる。両者ともに七言一句,合計4句の歌詞をもつ構造の歌が多い。劇楽は大陸より移入した京劇のほか,台湾の劇としては北管戯と歌仔戯とがある。北管戯は清朝時代に大陸より導入されたもので,歌詞は北京官話調なので北方系の言葉を解しない台湾の人達には理解されにくくしだいに民衆から遠ざかった。一方,平易な台湾語を使い,演目も一般民衆の趣向に迎合した芝居である歌仔戯が生まれ,今日の地方戯を支配するにいたった。そのほか牛犂陣(ぎゆうりじん),車鼓陣,鑼鼓陣等の道教の祭りの行列のときに数人で演ずる雑伎が南部の農村に行われている。器楽には南管という弦楽器を主体とした優雅な合奏と北管といわれシャーナイ(スルナイ)や胡弓を主楽器とする豪放な合奏が代表的である(両者共に純粋器楽合奏曲と歌唱入りの器楽曲とがある)。その他おもに慶弔時に使われる八音や娯楽用として演奏される十音,十三音がある。宗教音楽には仏教,儒教,道教の音楽がある。仏教の音楽は梵唄といわれ,うたい方は旋律的である。儒教の音楽は孔子廟の祭りの音楽で編鐘,編磬(へんけい),(しゆく),(ぎよ),篪(ち)等の中国古代の楽器で奏される。道教の音楽はおもに道士または師公とよばれる司祭者によって行われ,おもに建醮(けんしよう)とよばれる祭儀や葬儀等に使われる。台湾の伝統音楽の最も大きい特色は,民謡がやや例外であるほかは,ほとんどの音楽が道教を中心に動き,結びついていることである。

 これらの音楽は従来農村や漁村等の人達によって支えられ,知識階級から分離していた。しかし近年郷土文学,郷土芸術等とともに伝統音楽の復興が叫ばれ,知識人や若者の共鳴を得,かなり関心をもたれるようになってきた。また近年各大学の学生や若者を中心に挍園民歌と称するフォークソングが流行しブームを引き起こしている。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「台湾」の意味・わかりやすい解説

台湾【たいわん】

中国大陸南東方,台湾海峡を隔てて福建省に対する島。澎湖(ほうこ)島蘭嶼(らんしょ)などの属島を含む。長く国民党政府の統治下にあったが,2000年,野党が政権を握り,2008年ふたたび国民党政権となる。中華人民共和国では〈台湾省〉と位置づけている。古名は流求,瑠求。日本では高山(こうざん)国,高砂(たかさご)国と称した。英語名Formosaはポルトガル語の〈美しい島〉に由来する。主都は台北。3万6193km2。2337万人(2013)。〔自然・産業〕 先住民は高山族。人口の90%は漢族系。地形は狭長で,東に高く西に低い。台湾山脈が脊梁(せきりょう)山脈をなし,南北に走る。主峰は玉山。東岸は絶壁をなし良港に乏しく,西部には沖積層平野が広がる。北半は亜熱帯性,南半は熱帯性気候で,雨量が多く,米・サトウキビ・茶・バナナ・パイナップルなどの農産のほか,木材・樟脳(しょうのう)の林産,製塩・漁業の水産がある。電子部品・電気製品・機械・化学などの近代工業も盛んで,アジアNIEs(新興工業経済群)の一つとして,目ざましい経済成長をとげた。〔歴史〕 7世紀初め,隋の煬帝(ようだい)が征伐した流求が台湾と考えられ,中国との交渉は17世紀に海寇(かいこう)が接触をもつようになってから生じた。同じころ,スペイン人,オランダ人が西海岸の要地を占領したが,のちオランダ人が独占して,オランダ東インド会社の拠点とした。1661年鄭成功(ていせいこう)がオランダ人を下して支配したが,1683年以後朝の版図に入った。中国からは福建・広東省の住民が多く移住し,先住民を山地に圧迫して経済権を確立し,1885年台湾省を設置した。日清戦争後の下関条約(1895年)によって日本に割譲され,日本は台湾を植民地として交通・産業を開発し,南方の大拠点とした。1945年8月に日本がアジア太平洋戦争に敗れると,10月に中国国民党政府軍が進駐,中国に復帰した。日本統治時代にも1895年から5年間にわたる台湾独立運動があり,1930年には霧社(むしゃ)事件が起こった。1947年2月には国民党政府の失政により台湾住民による抗議運動と国民党軍によるその徹底弾圧事件(二・二八事件)が発生した。国共内戦後,国民党政府は本土を失って1949年12月台北に移転し,全島を統治,米国の東南アジア政策の一環として重要な基地となった。1975年蒋介石総統の死により厳家淦副総統が昇格したが,1978年蒋介石の長男蒋経国が総統に就任,経済立国を目ざして経済建設計画を進めた。〔政治・経済・外交〕 1988年蒋経国の死後,副総統の李登輝があとを継いだ。1996年李総統は初の総統直接選挙で3選された。この間1986年には台湾ナショナリズムを掲げる民主進歩党(民進党)が結成され,最大の野党として動向が注目されていたが,2000年の総統選挙では同党の陳水扁が国民党候補を破って総統の座につき,2004年再選された。2008年の総統選挙では,国民党の馬英九が当選し政権奪還を果たした。馬英九政権は,中国市場を意識した経済政策重視の路線を進め,〈両岸対等,共同協議,市場拡大〉を掲げて,中国との間で〈三通〉(〈通商〉〈通航〉〈通郵〉)を実現させ,経済成長を維持し,2012年1月の総統選挙で民進党の蔡英文らに勝利して再選を果たした。2012年夏,日本の民主党・野田政権が尖閣諸島の国有化を発表したことに端を発する,領土問題では,尖閣を自国領土とする台湾は,中国とともに日本政府に強く抗議したが,中国の行動とは一線を画し,この機会を懸案の同島周辺海域をめぐる日台漁業権交渉を有利に導くものとした。2013年4月,日本政府(自公連立・第二次安倍内閣)は,台湾側の主張に沿った共同管理水域の設置など大幅な譲歩を示す日台漁業協定に合意を発表,〈東シナ海における海洋秩序の維持が図られる〉と歓迎の声明を出したが,台湾・馬英九政権には,この海域を〈国家核心利益〉と位置づけ軍事的プレゼンスの拡大を続ける中国を牽制する意図があるとされている。2014年3月,政権が,中国と台湾が互いにサービス産業に参入を認める中台サービス貿易協定締結を強引に進めていることに反対する運動が台湾全土に広がり,学生たちが立法院を占拠,抗議活動を続けた。学生たちは中台の交渉を行政当局の外部から監督する条例を制定し,協定を審議し直すよう馬政権に迫った。王金平・立法院長は学生が要求した中台交渉を監督する条例の制定を認め,制定まで審議を行わないと表明。学生らは所期の目的を達したとして〈撤退〉を決め,4月占拠を撤収した。馬政権が目指した同協定の早期承認は難しくなった。2014年11月の統一地方選では,国民党は台北や台中など6直轄市のうち,5市長選で敗北。全体で22ある県市長ポストでは15を握っていたが,当選は6県にとどまった。現有6だった民進党は13ポストに躍進。全体の得票数は国民党得票率40.70%に対して,民進党が47.55%で次期総統選に向けて大きな弾みとなっている。2002年1月世界貿易機関(WTO)に加盟。一方,国民党政権が行った1987年秋からの台湾住民の大陸訪問の解禁以来,海峡両岸の経済・貿易関係(両岸関係)は急速に発展しており,中国も〈三通〉を奨励しているが,台湾独立派を牽制するために2005年3月〈反国家分裂法〉を制定した。なお,中華人民共和国が国連の代表権を得たため1971年国連から脱退,1972年日本と,次いで1979年米国とも断交し,2014年時点,台湾が外交関係をもつ国は22,アジアでの承認国はない。日本は実質的な大使館機能を果たす財団法人公益協会を通じて,全般的で緊密な交流関係を保持している。
→関連項目安藤百福華南中華人民共和国中華民国中国国民政府

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「台湾」の解説

台湾(たいわん)
Taiwan[中],Formosa[ポルトガル,英]

台湾本島,周辺島嶼および澎湖(ほうこ)諸島などを含む地域の呼称。台湾本島は中国語文献のなかで古代からさまざまに呼ばれたが一定せず,元代に瑠求(りゅうきゅう),明代には小琉球や東番(とうばん)などと呼ばれた。16世紀にポルトガル人はフォルモサ(Formosa)と命名,欧米で普及した。日本では高砂(たかさご)国,高山(こうざん)国と呼ばれた。台湾という呼称は先住民言語が起源で,清代に定着した。台湾には5万年前から人類が住み始め,16世紀までにオーストロネシア語族の先住民が各地に居住するようなった。17世紀前半,オランダ東インド会社が南部を植民地支配し,その後,鄭氏(ていし)がオランダを駆逐して,反清闘争の根拠地とした。1683年清朝が鄭氏を降伏させて領有,以後移民が急増し米糖(米穀生産とサトウキビを原料とする製糖業)中心の農業開発が本格化した。開発初期,反乱や分類械闘(出身地別に集団を形成した移民たちが,武器を持って闘うこと)が頻発したが,しだいに宗族(そうぞく)組織や宗教組織が形成され,地域社会が成立した。1895年下関条約で日本に割譲。日本は台湾住民の抵抗を武力制圧したうえで,土地調査,鉄道建設などを実施し,植民地経営を行った。1945年,日本の敗戦で中華民国に編入,49年内戦に敗れた国民政府が移転,60年代以降輸出指向的工業化政策を展開。中産階級の成長に伴い民主化要求が高まり,90年代,総統直接選挙などの政治改革が行われた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「台湾」の解説

台湾
たいわん
Taiwan

中国福建省と海峡を隔てている島
先住民は高山族だが,明以後,福建・広東から漢民族の移住が始まった。1624年オランダが南部にゼーランディア城を構築,26年にはスペインも北部に拠点を構築するが,その後オランダがスペインを放逐して全島を占領。1661年,反清運動を続ける鄭成功が進出してオランダ人を追放,彼の死後も鄭氏台湾として反清復明運動の拠点となった。1683年清による鄭氏平定で直轄地とされ,福建省所轄下の台湾府が置かれた。1895年下関条約で日本に割譲され,台湾総督府が置かれた。日本の敗戦とともに1945年台湾省として中国に編入される。1949年,中国本土の内戦に敗れた蔣介石国民党政府が台湾に移り,その独裁下で正統政府(中華民国)を主張した。しかし,1971年に国連代表権を失い,72年の日中国交樹立で日本と断交,79年の米中国交樹立でアメリカとも断交した。1975年蔣介石が死去し,78年息子の蔣経国が総統に選出された。外交的孤立を余儀なくされるいっぽう,経済面では工業化が進められ新興工業経済地域(NIES)の1つになった。こうした経済面の力を背景に,1986年「台湾の自決」を掲げる民主進歩党(民進党)の結成が認められ,87年,38年ぶりに戒厳令が解除された。1988年の蔣経国の死後,台湾本省人として初めて李登輝が総統に就任。中国との経済・人の交流が急速に進むいっぽうで,「台湾独立」を求める動きも活発化した。1996年の初の直接民選による総統選挙が実施され,李登輝総統が当選。1997年,中国からの自立傾向を一歩進めた改憲案が国民大会で採択され,中国の警戒感が高まっている。2000年の総統選挙で,自立傾向の強い民進党の陳水扁 (ちんすいへん) が当選した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「台湾」の解説

台湾
たいわん

タイワン。中国福建省の対岸に位置する島。台湾本島・澎湖(ポンフー)諸島などからなる。台湾国民政府統治下にある国で,中華民国の別称でもある。漢民族が98%,少数民族の高砂(たかさご)(高山(こうざん))族がおり,江戸時代の日本では高砂国とよんだ。1624年からオランダ人が全島の経略を進めていたが,61年鄭成功(ていせいこう)がこれを駆逐,鄭氏が3代22年間支配したが,83年清に降った。清ははじめ福建省に所属させ,1885年に独立の一省とした。日清戦争後,95年(明治28)の下関条約で日本に割譲され,98年児玉源太郎台湾総督下,後藤新平が民政長官となり民政へ移管。米・砂糖・樟脳(しょうのう)・塩などの食料や工業原料の増産につとめた。1945年(昭和20)日本の敗戦で中国に返還されたが,49年末,中国共産党との戦いに敗れた蒋介石が国民政府軍200万とともに台湾に本拠を移した。そのため先移住の本省人と復帰後移住の外省人,台湾独立派と大陸との和平統一派の対立など困難な問題をかかえている。1987年の戒厳令解除後,民主化が進められ,経済の発展も著しく,アジアにおける経済大国の一つとされる。首都台北(タイペイ)。

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旺文社日本史事典 三訂版 「台湾」の解説

台湾
たいわん

中国福建省の東方海上にある島
16世紀以後歴史的に注目されはじめ,豊臣秀吉は高山 (こうざん) 国あてに書を送り入貢を強要した。17世紀初めオランダ人が占領,ついで鄭成功 (ていせいこう) がオランダを追い出し,この地を支配した。1683年鄭氏降伏後,清朝の領土となり,1874年日本の台湾出兵(征台の役)を経て,'95年下関条約で日本領となる。第二次世界大戦後,中国に返還,台湾省となったが,1949年以後国共内戦により大陸を追われた蔣介石の国民政府が統治。今日に至る。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「台湾」の意味・わかりやすい解説

台湾
たいわん

「タイワン(台湾)」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内の台湾の言及

【中華民国】より

…版図は,外モンゴルが独立したことにより清朝滅亡時より縮小している。32年に東北地方が日本の傀儡(かいらい)国家=満州国として分離させられるなどのこともあったが,日本の敗戦とともに,東北のみならず下関条約で割譲された台湾等への支配をも回復した。49年以降,大陸を追われた中国国民党の政権が台湾に拠って今に至っている。…

【琉球】より

…日本語,日本文化の一環に属しながらも強い個性的な性格を有する。〈琉球〉は中国人による命名で,〈小琉球(台湾)〉と区別するために〈大琉球〉と呼ばれたこともある。
[流求と南島]
 中国の史書《隋書》(636)東夷伝の中に〈流求〉と称する国の記事が出てくる。…

※「台湾」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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