吉田藩(読み)よしだはん

改訂新版 世界大百科事典 「吉田藩」の意味・わかりやすい解説

吉田藩 (よしだはん)

三河国(愛知県)吉田に藩庁を置いた譜代中小藩。1869年(明治2)版籍奉還の際,豊橋藩改称。1601年(慶長6)松平(竹谷)家清,12年松平(深溝)忠利,32年(寛永9)水野忠清,42年水野忠善,45年(正保2)小笠原忠知,97年(元禄10)久世重之,1705年(宝永2)牧野成春,12年(正徳2)松平(大河内)信祝(のぶとき),29年(享保14)松平(本庄)資訓,49年(寛延2)松平(大河内)信復(のぶなお)と,近世中期まで大名の交替が相次ぎ,歴代には小笠原長重,久世重之,松平信祝,信明(のぶあきら),信順(のぶより),信古(のぶひさ)と幕府の要職についたものが多い。石高は初期は3万~5万石,1712年以降は7万石。藩政は寛永期に領内検地,宗門改めが着手され,小笠原氏4代の間に城下の町並み整備,新田開発,豊川の大橋の架橋など基礎が確立した。久世重之の時代には新居関が吉田藩の管轄下に移され,町人請負新田が増加した。1707年の大地震などで藩政は一時混乱したが,藩主牧野氏は復興に努め,城下の下水道を整備するなど藩政の安定に努めた。松平信祝の時代は凶作が相次ぎ,藩財政窮乏も表面化し,米札贋造や郡奉行の閉門など藩政の動揺が目だったが,御用金の賦課や定免(じようめん)制が実施された。凶作がたびたび起こる中で1748年領民の直訴事件も発生した。52年(宝暦2)松平信復が藩校時習館を創設し,その孫信明も大田錦城を招いて学問を奨励し,天明の飢饉で荒廃しつつあった農村の復興に努力した。その子信順は藩営の富久縞(ふくしま)新田を開発し,幕府から資金の援助を受けたが,財政の窮乏は続き,信璋(のぶあき)のとき1848年(嘉永1)の改革仕法も失敗した。時習館の運営をめぐる騒動や,長期の借知に苦しむ家中が結束して執政に反対するなど藩政は動揺し,67年(慶応3)城下吉田宿の助郷をめぐり役人の不正を訴えて打毀(うちこわし)が起こるなど混乱の中で明治を迎え,当主信古は大河内に復姓した。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「吉田藩」の意味・わかりやすい解説

吉田藩(三河国)
よしだはん

三河国渥美(あつみ)郡吉田(愛知県豊橋(とよはし)市)に藩庁を置いた譜代(ふだい)藩。関ヶ原役後、吉田城主池田輝政(てるまさ)が姫路に移ると、1601年(慶長6)松平(竹谷(たけのや))家清(いえきよ)が入封し3万石を領して当藩が成立する。1612年子忠清(ただきよ)は嗣子(しし)なく絶家となる。以後は松平(深溝(ふこうず))忠利(ただとし)・忠房(ただふさ)(~1632。3万石)、水野忠清(~1642。4万石~4万5000石)、水野忠善(ただよし)(~1645。4万5000石)、小笠原忠知(おがさわらただとも)・長矩(ながのり)・長祐(ながすけ)・長重(ながしげ)(~1697。4万5000石~4万石)、久世重之(くぜしげゆき)(~1705。5万石)、牧野成春(なりはる)・成央(なりなか)(~1712。8万石)、松平(長沢・大河内(おおこうち))信祝(のぶとき)(~1729。7万石)、本庄資訓(ほんじょうすけのり)(~1749。7万石)を経て、1749年(寛延2)松平(長沢・大河内)氏の信復(のぶなお)が再度封ぜられるに及んで藩主家は定着する。以来、信礼(のぶうや)、信明(のぶあきら)(老中首座)、信順(のぶより)(老中)、信宝(のぶたか)、信璋(のぶあき)、信古(のぶひさ)(大坂城代)と7代約120年にわたって在封した。信復の家系は「知恵伊豆」松平信綱に連なるものである。後期松平(長沢・大河内)の石高(こくだか)は表高7万石であったが、実高は9万石に達するともいわれた。

 吉田は三河・遠江国境の城であり、また東海道や姫街道の分岐・合流点近くにあったから、その政治的地位は高く、また新居(あらい)関は吉田藩のもっぱら管するところでもあった。1868年(慶応4)駿府(すんぷ)藩の成立により、遠江国2郡内の領地は上総(かずさ)国に移された。69年(明治2)豊橋藩と改称、71年廃藩となり、豊橋県、額田(ぬかた)県を経て愛知県に編入された。

[若林淳之]

『『豊橋市史』全8巻(1972~86・豊橋市)』


吉田藩(伊予国)
よしだはん

伊予国(愛媛県)宇和郡に置かれた宇和島藩の支藩。外様(とざま)。1657年(明暦3)伊達秀宗(だてひでむね)が五男宗純(むねずみ)に3万石を分知し、吉田に陣屋町を建設して成立した。1686年(貞享3)山田騒動を契機として、以後宗藩の干渉を受けた。享保(きょうほう)の飢饉(ききん)後財政が窮乏し、1793年(寛政5)には有名な武左衛門一揆(ぶざえもんいっき)が起こった。国産には木蝋(もくろう)、和紙、干鰯(ほしか)がある。藩学は1794年時観堂(じかんどう)として成立した。

[三好昌文]

『『吉田町誌 上巻』(1976・吉田町教育委員会)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

藩名・旧国名がわかる事典 「吉田藩」の解説

よしだはん【吉田藩】

江戸時代三河(みかわ)国渥美(あつみ)郡吉田(現、愛知県 豊橋市)に藩庁をおいた譜代(ふだい)藩。藩校は時習館。1601年(慶長(けいちょう)6)、徳川氏譜代の重臣松平(竹谷(たけのや))家清(いえきよ)が3万石で入封(にゅうほう)して立藩。子の忠清(ただきよ)に嗣子(しし)がなく改易(かいえき)となって以後は、幕府の要職を占める譜代大名が交代で藩主となった。松平(深溝(ふこうず))忠利(ただとし)以下2代、水野忠清(ただきよ)、水野忠善(ただよし)、小笠原忠知(ただとも)以下4代、久世重之(くぜしげゆき)、牧野成春(なりはる)以下2代、松平(大河内(おおこうち))信祝(のぶとき)、松平(本庄(ほんじょう))資訓(すけのり)と、3万石~8万石で転入封が続いた。1749年(寛延(かんえん)2)に松平(大河内)氏が再度封ぜられ、信復(のぶなお)が7万石で藩主となって以後は定着、明治維新まで7代続いた。1869年(明治2)に豊橋藩と改称したが、71年の廃藩置県で豊橋県となり、その後、額田(ぬかた)県を経て翌年愛知県に編入された。

出典 講談社藩名・旧国名がわかる事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「吉田藩」の意味・わかりやすい解説

吉田藩
よしだはん

(1) 江戸時代,三河国 (愛知県) 豊橋地方を領有した藩。池田氏 15万 2000石に始り,慶長6 (1601) 年以降松平 (竹谷) 氏3万石,松平 (深溝) 氏3万石,水野氏4万石 (のち4万 5000石) ,小笠原氏4万 5000石 (分知ののち4万石) ,久世氏5万石,牧野氏8万石,松平 (大河内) 氏7万石,松平 (本庄) 氏7万石を経て,寛延2 (1749) 年より松平 (大河内) 氏が7万石で在封。明治2 (1869) 年豊橋藩と改称,廃藩置県にいたった。松平 (大河内) 氏は譜代,江戸城溜間詰。 (2) 江戸時代,伊予国 (愛媛県) 宇和郡の一部を領有した藩。明暦3 (1657) 年同国宇和島藩第2代藩主伊達宗利が弟宗純に3万石を分与したのに始る。以後継続して廃藩置県にいたった。外様,江戸城柳間詰。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル大辞泉プラス 「吉田藩」の解説

吉田藩

三河国、吉田(現:愛知県豊橋市)を本拠地とした譜代藩。歴代藩主は松平氏、水野氏など。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

世界大百科事典(旧版)内の吉田藩の言及

【伊予国】より

…とくに四国山脈ぞいの山地に多い。藩別では宇和島藩44件,松山藩件,大洲藩19件,吉田藩15件である。1741年(寛保1)松山藩の久万山(くまやま)騒動,50年(寛延3)大洲藩の内ノ子騒動,93年(寛政5)吉田藩の武左衛門一揆,1870年(明治3)宇和島藩の野村騒動などが有名である。…

【百姓網】より

…浦方百姓=漁民による網漁の経営形態で,単なる漁網の種類ではない。近世の漁村では農村同様,百姓身分の構成に変りはないが,宇和島藩,吉田藩にみられる百姓網は漁業年貢,諸役を負担し,村の地先漁場を占有利用する浦方百姓のうち,網を世襲的に持っている村役人を除く他の漁民に,臨時的に許可された網漁経営である。それは,漁村にあって漁場占有利用権の弱い小漁民が行う小網漁で,旅網(たびあみ)にも開放された村地先の一部入会漁場で,特権的網漁の間隙に共同網,村網として操業された。…

【武左衛門一揆】より

…伊予国吉田藩3万石で発生した惣百姓型の一揆。1793年(寛政5)2月,前年の藩の紙専売制施行に反対して山奥地方8村の農民が蜂起し,全藩領を巻きこんで宮野下村に出,さらに宗藩の宇和島藩に訴えるため,同城下に近い八幡河原に屯集した。…

【吉田[町]】より

…法花津湾北岸の法花津には,戦国期,西園寺氏の麾下(きか)にあって一帯を支配し,〈法花津殿〉と称された清原氏の本城があった。宇和島湾奥,立間(たちま)川の三角州上にある中心集落の吉田は,1657年(明暦3)伊達宗純が宇和島藩から3万石を分知されてのち,吉田藩陣屋町として発展したところ。東小路,西小路,魚棚などの地名や町並みに陣屋町のおもかげを残す。…

※「吉田藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

南海トラフ臨時情報

東海沖から九州沖の海底に延びる溝状の地形(トラフ)沿いで、巨大地震発生の可能性が相対的に高まった場合に気象庁が発表する。2019年に運用が始まった。想定震源域でマグニチュード(M)6・8以上の地震が...

南海トラフ臨時情報の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android