吉野秀雄
よしのひでお
(1902―1967)
歌人。群馬県生まれ。慶応義塾大学経済学部を肺患のため中退。故郷にて療養中に正岡子規(しき)、伊藤左千夫(さちお)ら『アララギ』歌人の歌に影響され作歌を志す。1926年(昭和1)、栗林はつと結婚。1981年、療養のため鎌倉に転地、永住の地となる。のち秋艸道人(しゅうそうどうじん)(会津八一(あいづやいち))の歌集『南京新唱(なんきょうしんしょう)』に感動し、1933年より師事、終生の師とする。1946年12月刊の『創元』創刊号に「短歌百余章」を発表、妻の死に際しての性愛を歌いあげた絶唱によって、吉野秀雄の名を一躍世に知らしめた。戦後しばらく鎌倉アカデミア文学部の教師を務めるも、生涯を死と接して病躯(びょうく)を生きた秀雄は、万葉調を基調にして東洋的生命観を深めた醇乎(じゅんこ)たる独自の作風をつくりあげた。さらに1947年の『早梅集(そうばいしゅう)』『寒蝉集(かんせんしゅう)』刊行のころより、生命の究極を見つめた自在な境地を展開した。『吉野秀雄歌集』により読売文学賞受賞。歌集『含紅集(がんこうしゅう)』により芸術選奨受賞。
[日高堯子]
彼の世より呼び立つるにやこの世にて引き留(と)むるにや熊蝉(くまぜみ)の声
『『吉野秀雄全集』全9巻(1969~70・筑摩書房)』▽『山口瞳著『小説・吉野秀雄先生』(1969・文芸春秋)』▽『片山貞美著『吉野秀雄の秀歌』(1977・短歌新聞社)』▽『吉野登美子著『わが胸の底ひに』(1978・弥生書房)』
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吉野秀雄【よしのひでお】
歌人。群馬県生れ。慶応義塾大中退。会津八一に私淑。胸を病み療養生活を続けながら作歌,真率な自然・人事詠を残した。その歌境の高さは同時代に類を見ないといわれる。歌集《苔径集》《寒蝉集》《吉野秀雄歌集》等のほか,良寛研究でも知られ,《良寛歌集》《良寛和尚の人と歌》などの著がある。全集もある。
→関連項目山口瞳
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よしのひでお【吉野秀雄】
1902‐67(明治35‐昭和42)
歌人。群馬県高崎市の織物問屋の家に生まれ,慶応義塾理財科(経済学部の前身)に進んだが,肺患にかかって中退。病床で正岡子規の作品,歌論を読んで感激したことが契機となって作歌を始め,これ以後,宿痾との闘いをとおしてみずからも万葉調,写生説の実践をつづけていった。やがて会津八一の門人となり,この狷介孤高の師の影響下に学芸の素養を深め,私家版の歌集を出すことはあっても,あり余る才能を広く世に問うことをあえて自制していたが,第2次大戦後に歌集《寒蟬(かんせん)集》(1947)を刊行,歌壇にデビューしたときにはすでに大家の風を樹立し畢(おお)せていた。
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吉野秀雄 よしの-ひでお
1902-1967 昭和時代の歌人。
明治35年7月3日生まれ。肺結核をやみ慶大を中退。会津八一(あいづ-やいち)に師事。生涯病とたたかいながら作歌をつづけ,昭和34年「吉野秀雄歌集」で読売文学賞,42年迢空(ちょうくう)賞,43年「含紅集」で芸術選奨。良寛や「万葉集」の研究もある。昭和42年7月13日死去。65歳。群馬県出身。歌集はほかに「寒蝉(かんせん)集」など。
【格言など】病む妻の足頸(あしくび)にぎり昼寝する末の子をみれば死なしめがたし(「寒蝉集」)
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吉野秀雄
よしのひでお
[生]1902.7.3. 高崎
[没]1967.7.13. 鎌倉
歌人。 1924年慶應義塾大学経済学部を病気のため中退,独学で国文学を学んだ。短歌に関心を寄せ,会津八一に傾倒した。 36年頃,鎌倉短歌会を創立,52年以降歌誌『砂丘』の選を担当。心情の機微をうたった作が多く,歌集『苔径集』 (1936) ,『寒蝉集』 (49) ,『吉野秀雄歌集』 (58) などがある。
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