精選版 日本国語大辞典 「吐蕃」の意味・読み・例文・類語
とばん【吐蕃】
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
漢文史料でチベットをさしていう場合に用いられた名称。今日では唐と対立したチベット人の王朝をこの名称でさす場合が多い。吐蕃に対応する原語として「チベット」と共通の語源「拓跋(たくばつ)」をあてる説から、「吐」にlho(南)をあて、チベット支配階級の部族名Phyva、漢字で「不夜」などと写されるものが「蕃」に変えられたとする説まである。
吐蕃王朝の遠祖は、ネパール北西にあるカイラーサの北辺から4世紀なかばごろに東部チベットのカムに移り、5世紀後半に中央チベット南部のヤルルンに拠(よ)って、1世紀後に中央チベットを掌握し、やがてチベット全土を制覇した。
6世紀末にたったソンツェンガンポ王は、四川(しせん)のスムパ人を掌握することによってカム地方の離反を食い止め、隋(ずい)に討たれて青海南部に亡命していた吐谷渾と接近して、制度、文物を学び、620年代に官位12階を定めて諸氏族を統合支配し、王国を建てた。638年に唐と戦い、吐谷渾の一部を臣属させ、640年に唐から文成公主を迎えて和親した。この王の没後に完成した軍事国家組織を活用して、臣属させた吐谷渾の正統性とその権益の継承を主張し、659年から唐と戦い始め、戦線を南詔から中央アジアまで広げ、8世紀後半以後優位にたった。そのころから仏教を本格的に導入して、しだいに新しい知的エリート、僧の支配を受け、822年には唐と和平条約を結んだ。その後仏教による理想国建設の負担に押しつぶされて843年に支配階級が分裂し、滅んだ。
[山口瑞鳳]
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
7世紀から9世紀にチベットに栄えた古代王朝。中央チベットのヤルルン渓谷を根拠地として広がった。7世紀にソンツェンガムポ王がチベットを統一して,インド,中国両国の仏教文化を導入し国の基を築いた。ティソンデツェン王の代には軍事大国化し唐と抗争を繰り返したが,9世紀のティツクデツェン王代に至って,唐と吐蕃との間に和平が結ばれ,823年には唐蕃会盟碑が建立された。9世紀後半のダルマ王の2子の時代に王家は東西に分裂し,王朝は崩壊した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…鄯州(ぜんしゆう)ともいった。当時,オルドス南部より以西,黄河上流域にかけてチベット系の諸部族が散在し,宋ではこれらを吐蕃と総称した。宋,西夏,遼の対立抗争に刺激をうけた吐蕃では統一運動がおこり,青唐方面のチベット族(青堂羌(せいどうきよう)ともいった)の領袖らは,西部のおそらくマルユルと思われる地方から吐蕃王朝の末裔である唃厮囉(こくしら)を迎えて基礎固めを行った。…
…漢文史料で〈氐(てい)〉とか〈羌(きよう)〉と呼ばれていたものが古い時代のチベット系民族であるともされるが,確かではない。隋の時代にその存在が漢土に伝えられ,唐代に〈吐蕃(とばん)〉と呼ばれたのは,このチベット人が建てた最初の統一王国であった。
[吐蕃王国]
この国はソンツェン・ガンポと呼ばれる王によって七世紀前半に建てられ,隋・唐2代の圧力によって滅亡の危機にあった吐谷渾(とよくこん)を併合し,代わって7世紀後半から東西通商路の東端と南縁の支配に乗り出した。…
…玄宗治世の開元・天宝年間(713‐755)の敦煌は,最も華やかな時代を迎えたのであり,莫高窟にも盛唐様式の華麗な浄土窟が数多く造営された。 ところが,755年(天宝14)に安禄山の反乱が起こって唐の支配力が弱まると,河西の通廊地帯には南から吐蕃(とばん)すなわちチベット人が侵入してきた。沙州つまり敦煌は執拗な抵抗をつづけたが,国都の長安にさえ長駆して一時は占領するほどの力量をもった吐蕃の軍事力によって,781年(建中2)には沙州の一角の寿昌県が破られ,787年(貞元3)に至ってついに全面的に降伏した。…
※「吐蕃」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
大阪府中部,大阪市の中央部にある運河。東横堀川から中央区の南部を東西に流れて木津川にいたる。全長約 2.5km。慶長17(1612)年河内国久宝寺村の安井道頓が着工,道頓の死後は従弟の安井道卜(どうぼ...
9/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新