周布政之助(読み)すふまさのすけ

精選版 日本国語大辞典 「周布政之助」の意味・読み・例文・類語

すふ‐まさのすけ【周布政之助】

  1. 幕末長州藩士。名は兼翼。字(あざな)公輔。別名麻田公輔村田清風の指導を受けて藩政改革に当たり、尊攘論を主張。しかし文久三年(一八六三)八月一八日の政変で尊攘派が京都から追放され、翌年の禁門の変に敗れた長州藩が幕府の征長令を受けるに及んで自刃した。文政六~元治元年(一八二三‐六四

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朝日日本歴史人物事典 「周布政之助」の解説

周布政之助

没年:元治1.9.26(1864.10.26)
生年:文政6.3.23(1823.5.3)
幕末の長州(萩)藩の指導者。古くは「すう」とも読む。名は兼翼,字は公輔,号は観山など。麻田公輔と改名。長州藩大組(68石余)の兼正の子,母は村田氏。天保改革の指導者,村田清風の薫陶を受けた。村田の政敵,椋梨藤太の罷免後,嘉永6(1853)年藩の実務役人の重鎮,右筆に就き,軍制改革,財政整理を行ったが,安政2(1855)年椋梨派に追われた。しかし,通商条約について諸藩に諮問されるというなかで,藩の自律を唱え,椋梨派を俗論と排斥して,再度,藩政実権を執った。軍制改革・産物政策を重視する改革を開始し,安政5年の安政の大獄中,藩使として朝廷に密かに入り,開国の止むを得ないことを入説した。航海遠略策という開国策で幕府との協調策を進めたが,幕政改革に限界をみて,桂小五郎(木戸孝允)らと反対派に回り,処分される。文久2(1862)年島津久光の率兵上京の情勢に処分を解かれ,藩論を尊王攘夷に確定し,江戸藩邸の政府を廃止するなど藩制を集権化し,反対派を弾圧し,洋式軍制改革を開始した。攘夷の不可を知っていたが,対外的危機を思い切った改革の圧力に使うという考えであった。直言実行の性格から文久2年山内容堂に暴言を吐くという事件を起こし,麻田公輔と改名した。同3年の8月18日の政変で藩が京都を追われたのち,藩兵の上京に反対したが,ならず,禁門の変で藩は敗れ,第1次長州征討軍が到来。俗論派が興起するなかで,正義派の再起を待たずに自刃した。<参考文献>周布公平監修『周布政之助伝』

(井上勝生)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「周布政之助」の意味・わかりやすい解説

周布政之助
すふまさのすけ
(1823―1864)

幕末期長州藩の攘夷(じょうい)論推進者。大組(おおぐみ)(馬廻(うままわり)組、八組(はつくみ))士、禄高(ろくだか)六十八石の家に生まれ、名は兼翼(かねすけ)、別名麻田公輔(あさだこうすけ)という。幼時父を失い、母の手で育てられる。藩校明倫(めいりん)館で学び、やがて藩府に出仕し、累進して江戸方右筆(ゆうひつ)から用所役となる。1858年(安政5)朝廷から長州藩に対する密勅の降下をみると、藩府は政之助を学習院御用掛に任命して京都に派遣する。当時の京都は尊王攘夷論が高まり、政之助は諸国の志士と親交を結び活動する。しかし、政之助の考えは尊攘論ではあるが、挙藩一致の尊攘論であり、久坂玄瑞(くさかげんずい)らの急進的な意見との間に差があった。62年(文久2)朝廷から攘夷の命が出ると帰国し、藩府政務員として翌年イギリス商船、フランス軍艦を砲撃して下関(しものせき)戦争を始める。しかしこの後朝議が一変し、政之助は藩府内で孤立する。64年(元治1)長州藩は京都禁門の変(蛤御門(はまぐりごもん)の変)で敗れ、久坂らは戦死する。幕府は征長令を発するが、政之助はこれらの責任をとって自殺した。42歳であった。

[広田暢久]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「周布政之助」の意味・わかりやすい解説

周布政之助
すふまさのすけ

[生]文政6(1823).3. 萩
[没]元治1(1864).9.25. 山口
幕末の長州藩士。勤王家。周布吉右衛門兼正の5男。名は兼翼。麻田公輔と変名。弘化3 (1846) 年,嚶鳴社を結成して経書の研究に励み,家老村田清風の知遇を得た。ペリー来航の際は江戸藩邸の右筆添役として江戸と藩との連絡にあたり,藩政に重要な役割を果した。文久1 (61) 年家老長井雅楽 (うた) の公武合体論を藩の間に周旋したが,攘夷主義に転じ,諸藩との連絡,提携に努めた。同3年藩の番頭格に昇進,軍制の指導にあたった。禁門の変での壊走,四国連合艦隊来襲に伴う藩の窮地を打開する方策を見失った責めを負って藩地で自決した。

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改訂新版 世界大百科事典 「周布政之助」の意味・わかりやすい解説

周布政之助 (すふまさのすけ)
生没年:1823-64(文政6-元治1)

幕末期の長州藩の政治家。同藩八組,周布家の五男。名は兼翼,政之助は通称,のち麻田公輔と改名した。村田清風の路線を継承して安政期の藩政改革を指導した後,長井雅楽(うた)の親幕開国路線を批判して1862年(文久2)藩政の実権を握り,長州藩の尊王攘夷運動の重鎮となる。63年8月18日の政変,翌年の禁門の変の敗戦をへて,征長令発令の後,責を負い自刃した。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「周布政之助」の解説

周布政之助 すふ-まさのすけ

1823-1864 幕末の武士。
文政6年3月23日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。村田清風の後をうけ藩政改革を実施。尊王攘夷(じょうい)を推進したが,禁門の変,四国艦隊下関砲撃事件敗北の責任をとり元治(げんじ)元年9月26日自刃(じじん)。42歳。名は兼翼(かねすけ)。字(あざな)は公輔。号は観山,痩梅。後名は麻田公輔。

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防府市歴史用語集 「周布政之助」の解説

周布政之助

村田清風[むらたせいふう]の考えを受け継いで藩政の改革をすすめました。高杉晋作[たかすぎしんさく]や久坂玄瑞[くさかげんずい]ら志士たちの理解者で交流がありましたが、禁門の変[きんもんのへん]の発生や藩の実権が保守派に移った責任を感じて切腹しました。

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367日誕生日大事典 「周布政之助」の解説

周布政之助 (すふまさのすけ)

生年月日:1823年3月23日
江戸時代末期の長州(萩)藩の指導者
1864年没

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