精選版 日本国語大辞典 「周期律」の意味・読み・例文・類語
しゅうき‐りつ シウキ‥【周期律】
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元素を原子番号の順に並べたとき、その性質が周期的に変化するという法則。元素の周期律ともいう。この法則に従って作成されたのが周期表である。
[中原勝儼]
近世の化学が確立され、元素の概念がはっきりし始めたころ、フランスのラボアジエは1789年すでに約30種の元素の存在を認め、非金属元素や土類元素、金属元素などという分類を行っている。そしてイギリスのH・デービーやスウェーデンのベルツェリウスがさらに元素の概念を明らかにしたことに伴い、元素の特徴による分類に目が向けられていった。それと同時に定量的な測定、とくに原子量の測定がベルギーのスタスによって精密に行われ、原子量と元素の系列との関係が1817年ドイツのデーベライナーによって初めて指摘された。
彼は、化学的性質によって元素を分類すると、よく似た性質の元素が三つずつ組になっていることが多く、しかもその原子量は算術級数的であるか、きわめて近い値をもつということに気がついた。たとえば、よく似た性質をもつカルシウムCa、ストロンチウムSr、バリウムBaの原子量はそれぞれ40、88、137で、(40+137)/2=88.5であるし、鉄Fe、コバルトCo、ニッケルNiはそれぞれ56、59、59である。このことは、1826年フランスのA・J・バラールが臭素を発見したとき、デーベライナーが前記の規則に従って、塩素とヨウ素の原子量の平均から臭素の原子量を81と予言したのが、実際に80であることが確かめられてから、大きく注目されることになった。さらに1829年デーベライナーはこのような三つ1組の元素を多くみいだし、三つ組元素triadと名づけた。これらは、たとえば
の①のようなものであるが、これらの間には原子量で前記のような関係があるばかりでなく、化学的性質や物理的性質にも原子量の順序に従って差異があることが指摘された。たとえばAgCl, AgBr, AgIの色や溶解度、CaSO4, SrSO4, BaSO4の溶解度などがその例である。このような考え方は、すべての元素に適用することはできなかったが、元素の分類から周期律の発見に至る第一歩で、重要な発見であった。この原子量による三つ組元素の概念は、その後も多くの人によってみいだされ、種々な関係が明らかにされた。たとえばフランスのデュマは1852年に次のような考えを発表した。彼は、三つ組元素で真ん中にくる元素は両端の元素の原子量の平均に近いが、やはり違っていて、その違いは明らかに実験誤差の範囲を超えており、原子量は、アルカン(メタン系炭化水素)の分子量(CnH2n+2=16+(n-1)×14)と同じようにいくつかの成分の和と考えた。たとえば
の②のようになる。またイギリスのオドリングは、1857年三つ組元素を主体として元素を13のグループに分類したが、1864年にはさらに、元素を原子量の順に並べると、類似元素がしばしば48の差で現れるということをいっている。また16、40、44という間隔もしばしば出てくることから、4という単位が共通の差ではないかと考えているのである(これは現代的にいえば、ヘリウムの原子量4の倍数であるということである)。このような状況のもとに出現したのが「地(ち)のねじ」である。[中原勝儼]
1862年フランスの地質学者ベギエ・ド・シャンクールトアは次のような発表をした。1回転を16に分割した円柱上で、原子量に相当する位置に各元素を順次並べると、
のように似た元素が円柱上の同じ線上にくる(16は酸素の原子量にちなんだもの)。たとえばLi・Na・Kや、O・SあるいはF・Clなどがそうである。これをド・シャンクールトアは地質学者らしく「地のねじ」vis telluriqueと名づけた(このときのグラフが水素から始まってテルルまでプロットされたので、テルルのねじ(地のねじ)と命名されたといわれる。テルルはもともと地球を意味するラテン語tellusからつけられた元素名である)。この考え方はまさに周期律の発見であったが、ド・シャンクールトアが地質学者であったことや、地質学的な表現が多かったことから、一般の化学者の注意をひくことなく、後年に至るまで認められなかった。[中原勝儼]
そのころイギリスではニューランズが次のような考えを提出した。彼は1863年、元素を原子量の順に番号をつけて配列すると、よく似た性質のものが8番目ごとに繰り返して出てくるので、これによって元素を分類することができると考えた。この関係はちょうど音楽における8度の音階に似ていることから、彼はこれを音階律law of octaves(オクターブの法則)とよんだ。この考えは、元素に番号をつけたということでは原子番号ということになり、「地のねじ」と並んでまさに周期律の発見であった。しかし当時のイギリスの学界は、これを受け入れるだけの背景がなく、荒唐無稽(こうとうむけい)であるとして否定してしまった。とくに学会の講演でニューランズが発表したとき、会員の一教授が「原子量の順序のかわりに、元素名の頭文字の順序に並べて調べたら」と皮肉な質問をするほどであった。当時はこのように否定されたものの、のちにイギリス王立協会は、メンデレーエフの周期律発見に対して1882年デービー・メダルを贈ってから5年後の1887年に至って、ニューランズを認め、同じくデービー・メダルを贈っている。
[中原勝儼]
ド・シャンクールトアやニューランズの考えに続いて、ドイツではJ・L・マイヤーが原子容から周期律の発表をしている。彼は1864年に著書で不完全な形ではあるが周期律を説明し、さらにその後の考察を加え、1869年に詳細な結果を発表した。彼の考えの特徴は原子容の周期性を示す図である。
原子容というのは元素単体の1グラム原子が固体で占める体積を立方センチメートルで表した値で、原子容を原子量の順に並べると
のようになる。この曲線をみると、アルカリ金属を頂点とし、アルカリ土類金属は山の下りの斜面に、ハロゲンは上りの斜面にあり、類似の位置にくる元素は化学的にも物理的にも類似の性質をもっている。また谷底には非金属がくるし、そのほか種々の性質で繰り返しがみられる。マイヤーは、この繰り返しが原子量の差をはじめとし、それぞれの元素単位の物理的、化学的性質の示す周期性であること、すなわち周期律をみいだしたのである。[中原勝儼]
周期律の発見者がだれであるかの議論は種々あるが、元素の性質がその原子量の周期関数として変化するという考えは、ド・シャンクールトア、ニューランズ、マイヤーの時代の背景にあったということができよう。しかし、周期律の適切な表現が現代のわれわれにもっとも大きな影響を与えたと考えるならば、周期律を周期表として示したロシアのメンデレーエフが周期律を確立したということができよう。彼は1869年「元素の性質と原子量との関係」という研究を発表した。元素をその原子量の大きさの順序に並べると、元素の性質が周期的に変わるというのがこの論文の主要な点で、これを周期律といい、これに基づき、当時知られていた63元素を分類して表にした。これが周期表である。
この表の元素の位置は、疑問符のついているものを除き、配列はほとんど正しいが、ウランの位置や、水銀と金の位置が逆になっているなどの誤りもあり、いくつかの不合理な点もある。しかし、もっともたいせつなことは、彼の優れた洞察力が、周期律が元素にとって本質的なものであることを見抜いたことにあり、この周期表上の不合理な点を周期律に従って是正していることにある。すなわち、原子量の順序に厳密には従わず、逆転させたり、飛躍のあるところは空欄にして未知元素があるとしている。彼は最初の周期表に手を加え、さらに整理して、1871年第二の周期表を発表した。その周期表が信頼できるもので、周期律の存在が疑いもないものであることを認識させたのは、未知元素の予言である。その後の研究により1875年ガリウム(エカアルミニウム)、1879年スカンジウム(エカホウ素)、1886年ゲルマニウム(エカケイ素)として発見され、しかも原子量、原子価、単体の比重、色、融点、化合物などが予言と一致していた。これは驚嘆すべきことで、周期律の信頼性が確かめられ、元素を統一的にまとめるものとして広く認められるようになった。
このようにして周期律の正しいことが認められたが、それでもまだいくつかの欠点があった。そのうちもっとも大きなものは元素の位置の転倒で、Xe-I、Co-Ni、Au-Ptなどがその例である。これらはさらに精密な原子量測定によってメンデレーエフの考えが正しいことが証明されたものもあるが、そうでないものもあった。しかしそれも、1913年モーズリーの実験により原子番号の意味が明らかにされ、解決された。また、次に困難な事実であったランタノイド元素を周期表上一つの枡(ます)に入れなければならないという事実も、近代的な量子力学の登場によって解決された。すなわち、近代的な原子構造論では、元素のもつ性質のよってきたる原因が原子の電子構造にあることが明らかにされ、このことから、周期律としてもっとも重要なことは、各元素原子の原子核荷電の数ということになる。したがって原子量の順序に並べることよりも、核外電子の数である原子番号の順序に並べることが合理的であるといえる。このように周期律の正しいことが認められ、現代化学の重要な基礎の一つとなっている。
[中原勝儼]
元素の周期律が発見された当時は、それは一つの経験的法則であったし、またそれによって完全なものとされてきたが、現在では量子力学による原子構造理論によって、この法則が正しいことが明らかにされている。原子は原子核とその周りに存在する核外電子から成り立ち、それらの電子は、それぞれの原子軌道関数に従って電子配置を形成している。原子軌道関数はすべて三つの量子数、すなわち主量子数n、方位量子数l、磁気量子数mによって特徴づけられており、またそれらの一つ一つの原子軌道関数に電子が属するときは、さらにスピン量子数sが+1/2か-1/2かのいずれかをとる。このように原子に所属する電子は、これらの四つの量子数によって規定される。同一原子内に入る電子は、この四つの量子数によって規定されるが、同一原子内に入る電子は、この四つの量子数がすべて同じになることはない(これをパウリの原理といっている)。またこれら量子数のとり方には一定の規則があるが、量子数の違う原子軌道関数を区別するのに、l=0, 1, 2, 3,……などに対応してs、p、d、f、……の記号を用い、主量子数と組み合わせて、2s(n=2, l=0), 3p(n=3, l=1), 4d(n=4, l=2)などと表している。これらの原則を用い、核外電子数が1の水素から、電子数103のローレンシウムまでの各原子の基底状態(エネルギー最低、すなわちもっとも安定な状態)にあるときの電子配置を
に示す。ただし、Cr, Cu, Auなどは多少違っているところがある。この電子配置図からわかるようにs軌道に1個の電子が入るアルカリ金属、2個入るアルカリ土類金属、あるいはp軌道すべてが満たされる希ガス元素など、周期表での分類による元素群が原子番号に従って周期的に出現することがよくわかる。[中原勝儼]
『中原勝儼著『電子構造と周期律』(1976・培風館)』▽『井口洋夫著『元素と周期律』改訂版(1978・裳華房)』▽『木田茂夫著『無機化学』改訂版(1993・裳華房)』▽『斎藤太郎著、梅沢喜夫・大野公一・竹内敬人編『無機化学』(1996・岩波書店)』▽『梶雅範著『メンデレーエフの周期律発見』(1997・北海道大学図書刊行会)』▽『長田好弘著『近代科学を築いた人々 中巻――周期律/光/電磁気の先駆者』(2003・新日本出版社)』▽『井口洋夫・井口眞著『新・元素と周期律』(2013・裳華房)』
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全元素を原子番号の増加する順に並べたとき,物理・化学的性質が周期的に変化する規則性をいう.1869年にD.I. Mendeleev(メンデレーエフ),J.L. Meyer(マイヤー)らによって独立に発見された.当時,元素は原子量の順に並べられたが,元素を特徴づけるものは原子量ではなく,原子番号であることがわかってから,上記のように改められた.別な表現をすれば,「元素の性質はその原子番号の周期的関数である」ということもできる.元素の周期律は,電子配置の規則性にもとづいて説明される.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
…原子を原子番号の順に並べると,化学的に類似した性質をもつ原子がある周期で現れる。これを周期律と呼ぶ。周期表で同族の原子は外殻の構造が似ており,そのために類似した化学的性質を示すのである。…
※「周期律」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
少子化とは、出生率の低下に伴って、将来の人口が長期的に減少する現象をさす。日本の出生率は、第二次世界大戦後、継続的に低下し、すでに先進国のうちでも低い水準となっている。出生率の低下は、直接には人々の意...
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