改訂新版 世界大百科事典 「和気氏」の意味・わかりやすい解説
和気氏 (わけうじ)
吉備(岡山県)の東部,備前・美作を基盤とする地方豪族。古代日本において,5,6世紀ごろの吉備一帯を代表したのは吉備氏(きびうじ)で,備中を中心とし旭川,高梁(たかはし)川の流域に上道臣(かみつみちのおみ),下道臣(しもつみちのおみ)など5氏が分布していたが,その後,吉井川の流域に台頭したのが和気氏であると思われる。和気氏の祖先伝承は,吉備氏のように《古事記》《日本書紀》には記されず,《日本後紀》の和気清麻呂の没時の伝にはじめて登場する。それによると,和気氏の祖は垂仁天皇の皇子鐸石別(ぬでしわけ)の3世孫弟彦(おとひこ)である。弟彦は神功皇后の新羅遠征にしたがい,その帰途忍熊(おしくま)皇子の反乱を播磨・吉備の堺山で打ち破った功によって,藤野県(ふじののあがた)に封ぜられた。これが今の美作・備前両国にあたるという。《新撰姓氏録》はこれを吉備磐梨県(いわなすのあがた)に封ぜられたとしている。吉備氏が応神天皇の吉備行幸を在地豪族として迎え,同族・兄弟5人が膳夫(かしわで)として奉仕したので,それぞれが各地域に分封され5氏族の祖となったというのと異なり,皇族の出であることを強調している。つまり和気氏は吉備氏より新しく台頭し,吉備氏を抑制する役割をもつ氏族といえるだろう。和気氏のワケ(別)とは,人名に付する尊称からカバネに転化し,皇族から分出した伝承をもつ地方豪族の称として用いられ,やがて氏の名そのものとなった。和気氏も,もとは磐梨別=石生別(いわなすわけ),さらに藤野別=輔治能別(ふじのわけ)の氏姓を称していた。
8世紀に吉備より吉備真備が出たのにたいし,和気氏より和気清麻呂,その姉広虫,清麻呂の子広世,真綱,仲世らが出て,中央政界で活躍したが,同時に美作・備前両国国造(くにのみやつこ)として在地豪族の地位を保ち,同族は藤野郡大領でもあり,祖先以来の墳墓も本郷にあって,拱樹林をなしていたという。10世紀に,和気氏は医道を家学とした。清麻呂の曾孫時雨(しぐれ)が医博士より典薬頭になったのにはじまるが,《尊卑分脈》や《和気系図》によると時雨の母方の氏族宮勝利名(みやのすぐりとしな)に由来するものらしい。中世・近世を通じて京都の貴族半井(なからい)家として医道を保持した。
執筆者:平野 邦雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報