精選版 日本国語大辞典 「和泉式部」の意味・読み・例文・類語
いずみ‐しきぶ いづみ‥【和泉式部】
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生没年不詳。平安中期の女流歌人。大江雅致(まさむね)の女(むすめ)。母は平保衡(やすひら)の女であるとも。生年は円融(えんゆう)朝(970年代)とする説が有力。「雅致女式部」(拾遺集)、「江(ごう)式部」(御堂関白記(みどうかんぱくき))という女房名があることから、娘時代すでに出仕の経験があったと想像され、出仕先は大進(だいしん)であった父の縁で、冷泉(れいぜい)皇后昌子内親王のもとであったといわれる。やがて999年(長保1)までに橘道貞(たちばなのみちさだ)と結婚、和泉守(いずみのかみ)であった夫の官名から以後は「和泉式部」と一般によばれるようになった。2人の間にはまもなく娘の小式部内侍(こしきぶのないし)が生まれたが、弾正尹(だんじょうのかみ)為尊(ためたか)親王(冷泉第3皇子)、大宰帥(だざいのそち)敦道(あつみち)親王(冷泉第4皇子)との相次ぐ恋愛事件によって夫婦の生活は破綻(はたん)し、父雅致からも勘当を受ける身の上となった。このうち帥宮(そちのみや)との恋愛の経緯は『和泉式部日記』に詳しい。その宮とも1007年(寛弘4)には死別し、悲嘆に暮れる式部の心情は、「家集」中の120余首にも上る挽歌(ばんか)群として結晶している。1009年、召されて上東門院(藤原彰子(しょうし))のもとに仕え、それが機縁となって藤原道長(みちなが)の家司、藤原保昌(やすまさ)に再嫁、夫とともに任国の丹後(たんご)(京都府)に下ったこともあった。1025年(万寿2)冬、娘の小式部が20歳代の若さで没し、そのおりにも子を悼む母親の痛哭(つうこく)の歌を残している。以後、晩年の式部の消息はさだかでないが、1027年9月、皇大后藤原妍子(けんし)の七七日の法事に、保昌にかわって玉の飾りを献上し、詠歌を添えたという記事が生存を伝える最後の記録となっている(『栄花(えいが)物語』玉の飾り)。即興即詠の日常詠はもとより、定数歌や連作、題詠など制約のある詠作のなかにも、式部の鋭敏な感性と揺らめく情念はみごとに形象化されており、新鮮で自由な用語を駆使したその叙情歌の数々は、平安中期最高の歌人の名にふさわしい作品群として輝いている。作品の大部分をとどめる「家集」には、902首を収める『和泉式部正集』、647首の『和泉式部続集』などがある。
くらきよりくらき道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端(は)の月
[平田喜信]
平安中期女流歌人を主人公とした叙事伝説。実在の和泉式部とは無関係。生地も、北は岩手県から南は九州まで全国にわたって散在し、墓も数多い。もっとも多いのは和歌を中心とする伝承で、代表的なものはおよそ三つの型に分けられる。
(1)うるか問答 式部が書写山参詣(さんけい)の途次泊まった家の娘に綿を売るかと尋ねると、鮎(あゆ)のはらわたである「うるか」のことを歌で答える。その娘は、式部が五条で捨てた子であった。
(2)瘡(かさ)の歌 瘡を患った式部が参籠(さんろう)中に、薬師(やくし)の返歌で平癒する。薬師信仰に運ばれた伝承。
(3)式部と高僧との歌問答 有名なのは書写山性空(しょうくう)に贈った歌の話。御伽草子(おとぎぞうし)『和泉式部』にもとられ、わが子と知らず道命法師と恋をすることになっている。
これらの伝承を運んだのは、小町、紫式部、静御前(しずかごぜん)、虎(とら)御前などの女性伝承を伝えた一群の人々と同じで、泉や川辺に宗教行事を行いながら回国した女たちと考えられる。その寄留地として有力なのが京都誓願寺で、墓や式部手植えの梅のほかに、『誓願寺縁起絵巻』にも式部がみえる。多くの伝承から謡曲にも『誓願寺』をはじめ9曲ほどの式部物がある。
[渡邊昭五]
『吉田幸一編『和泉式部全集』本文篇(1959・古典文庫)』▽『寺田透著『日本詩人選8 和泉式部』(1971・筑摩書房)』
(山本登朗)
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生没年不詳。平安中期の歌人。「和泉式部集」「和泉式部日記」の作者。大江雅致(まさむね)の女。母は平保衡(やすひら)の女。和泉式部は女房名で,江(ごう)式部ともよばれた。20歳頃に橘(たちばな)道貞と結婚,小式部内侍(こしきぶのないし)をうむ。やがて冷泉天皇の皇子為尊(ためたか)親王,その死後は弟の敦道(あつみち)親王との恋におちた。その経緯は「和泉式部日記」に詳しいが,1007年(寛弘4)敦道親王にも先立たれ,09年一条天皇の中宮彰子(しょうし)のもとに出仕した。その後,藤原保昌(やすまさ)と再婚,27年(万寿4)までの生存が確認できる。平安中期を代表する歌人の1人で,新鮮で情熱的な叙情歌が多い。中古三十六歌仙の1人。「拾遺集」以下の勅撰集に248首入集。奔放な恋愛と和歌はのちさまざまの説話・伝説をうんだ。
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…生母超子(ちようし)(藤原兼家の娘)の美貌をうけて容姿端麗であったうえに,文才に恵まれ,和歌のほか漢詩をもよくした。和泉式部との恋愛事件が衆人の関心を呼んだことは,《栄華(花)物語》や《大鏡》に詳しい。《和泉式部日記》中の和泉との贈答歌によって,その歌才のほどがうかがえる。…
…成立は室町時代か。平安時代,一条天皇の世に,橘保昌とのあいだに1子をもうけた和泉式部は,その子を五条の橋のもとに捨てる。子は拾われ,やがて比叡山にのぼって道命阿闍梨(どうめいあじやり)という高僧になった。…
…歌集。和泉式部の家集。正集,続集,宸翰(しんかん)本,松井本,雑種本の5類があり,その総称。…
…作者不明。シテは和泉式部の霊。旅の僧(ワキ)が都に着き,東北院の梅を眺めていると,若い女(前ジテ)が現れ,この寺はもと中宮上東門院の御所で,そのころ仕えていた和泉式部が植えたのがこの梅だと教え,実は自分がこの花の主(あるじ)だといって姿を消す。…
…母は越中守平保衡の女。和泉式部は女房名で,江式部,式部などとも呼ばれた。すぐれた抒情歌人として知られ,《和泉式部集》正・続1500余首の歌を残し,《和泉式部日記》の作者として名高い。…
※「和泉式部」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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