和風の菓子,日本の伝統的な菓子といった意味であるが,おおむね江戸時代までに中国やヨーロッパから製法を伝えられ,それを日本化したものが多い。米・麦その他の穀粉,葛(くず)粉・ワラビ粉などのデンプン,アズキ・大豆などの豆類,および砂糖を主材料とする甘味のものが多く,鳥獣肉,乳製品はまったく使わず,油脂も水溶きした穀粉を焼くときに少量の植物油をひく程度にしか用いず,香辛料の使用も少ない。食味の面からすると,茶の湯を中心として普及してきた緑茶の飲用にふさわしいものとして形成されており,色彩・形態の美しさとともに,草木の葉などを利用して豊かな季節感をもっているのが特徴である。
もともと日本では木の実,草の実を総称して〈くだもの〉と呼び,漢字が導入されるとそれに菓子の字をあてた。すなわち菓子とは果実のことで,フルーツとナッツを包括したことばであった。それらは主食である穀類などの不足を補うものであったが,同時に甘味をもつものが多いため,嗜好(しこう)品としての役割をも果たしていた。そうした状況の中で,穀物を主材料として加工する嗜好食品の製法が中国から伝えられた。唐菓子(とうがし)/(からくだもの)と呼ばれたのがそれで,採集・摘採されるだけで食用可能な果実類とはちがって人為的につくられるものではあったが,嗜好品である点が同じだったためであろう,〈菓子(くだもの)〉の類とされたのである。令制(りようせい)では宮内省大膳職(だいぜんしき)に主菓餅(くだもののつかさ)という官が置かれ,菓餅所(かへいしよ)という施設があった。主菓餅は〈菓子(くだもの)のこと,雑餅(くさぐさのもちい)等を造らむ事〉をつかさどる職とされ,宮廷用として諸国から貢進される果実類の保管,出納などとともに,〈雑餅等〉をつくることにあたり,菓餅所はその作業所だったようである。
《正倉院文書》によると,奈良時代には大豆餅,小豆(あずき)餅,煎餅(せんべい)(伊理毛知比(いりもちい)),浮餾(ふる)餅(布留(ふる)),呉床(あぐら)餅(阿久良形(あぐらかた)),胡麻狛餅,麦形(むぎかた)などの餅があった。上記のうち麦形だけは小麦粉を用いたが,他はいずれももち米,うるち米を材料とした。大豆餅,小豆餅はそれぞれダイズ,アズキを加えただけのものだったが,浮餾餅はあめ,呉床餅と麦形は油を用い,煎餅と胡麻狛餅はあめと油の両方を使っている。〈雑餅等〉とはこうしたものを指したと思われるが,大豆餅や小豆餅は雑餅で,あめや油を使うもの,とくに油で焼いたり揚げたりしたものが唐菓子で,それが〈雑餅等〉の〈等〉に含まれていたかとも考えられる。とにかく,こうした米以外に副材料を用いたものが現在の和菓子の原初形態であり,時代ははるかに下るが,江戸後期に尾崎積興はその著《江家次第秘抄》の中で,こうしたものに〈作菓子(つくりがし)〉というまことに適切な表現を与えている。そして,その後作菓子がレパートリーを拡大して嗜好品としての重要度を増すに及んで,果実類は作菓子に対して木菓子(きがし)と呼ばれるようになり,さらに菓子の呼称をまったく明け渡して,近世には水菓子と称されるようになった。
平安時代の作菓子は一,二の例外を除いて,すべて唐菓子であった。例外というのは《源氏物語》などに見られる〈椿餅(つばいもちい)/(つばきもち)〉と,《枕草子》に見られる〈あおざし〉で,これらはかならずしも中国の影響下に発生したとは考えにくいが,一般的には唐菓子の類とされる。椿餅は日本最古の餅菓子で,《河海抄》(1367)によると,餅の粉を甘葛(あまずら)でこねてツバキの葉で包んだものとされており,この甘葛を砂糖にかえただけのものが現在でもつくられている。〈あおざし〉は,未熟な青麦をいって粉にし,糸のようによったものだとされる。麦焦しを練ったようなもので,江戸時代までつくられていた。唐菓子には多くの種類があった。《和名抄》などが〈八種唐菓子〉と呼ぶ梅枝(梅子)(ばいし),桃枝(桃子)(とうし),餲餬(かつこ),桂心(けいしん),黏臍(てんせい),饆饠(ひら)/(ひちら),子(ずいし),団喜(だんき)(歓喜団(かんぎだん)とも)のほか,餅腅(へいだん),粉熟(ふずく),索餅(さくべい)(麦縄(むぎなわ)),捻頭(ねんとう),結果(加久縄)(かくなわ)/(かくのあわ),糫餅(曲)(まがり),餛飩(こんとん),餺飥(はくたく),餢飳(伏兎)(ぶと),粔籹(興米)(おこしごめ),煎餅などがあったという。八種唐菓子のうち,《和名抄》に製法の記載があるのは餲餬と黏臍で,いずれも小麦粉をこね,前者は蝎虫(かつちゆう)(サソリとも,キクイムシともいう),後者は臍(へそ)形にして油で揚げたものとなっている。ただし,鎌倉末期の成立とされる《厨事類記》には団喜以外の7種は米の粉を水で練ってゆで,それをいろいろの形にして油で揚げるとされ,団喜は丸くつくってゆでて甘葛を塗るとしている。餲餬,桂心,黏臍,饆饠,団喜は宮中の元日宴会などに用いられており,梅枝は奈良春日大社の神饌(しんせん)の一つとして今もつくられている。しかし,これらは鎌倉末期にはおおむねその実体は忘れ去られており,後醍醐天皇は《建武年中行事》の中で,黏臍,饆饠,餲餬,桂心などは名ばかり残っていて形などは不明であり,内膳司に尋ねてもわからないと記している。
餅腅は,清少納言が藤原行成から贈られた話を《枕草子》に書いており,《和名抄》はガチョウやカモの卵を雑菜と煮て餅で包み,方形に切るとしており,中国のギョーザ(餃子)のようなものだったかもしれない。粉熟は稲,麦,大豆,アズキ,ゴマの5種を粉にしてこね合わせ,ゆでて甘葛をかけて練り,竹筒に詰めて押し固めたものを突き出して切ると《原中最秘抄》(南北朝までに成立)に書かれており,奈良時代の胡麻狛餅と似たものだった。索餅は小麦粉と米粉をこねて縄のようにより合わせ,ゆでて食べたものらしく,《延喜式》では塩,ひしお,みそ,酢,ときにはあめも材料に使われている。捻頭は前記の麦形の別称で,端をひねったための名,結果はひものように結んだ形にしたものだったらしい。糫餅は呉床餅と同じもののようで,《斉民要術》は小麦粉をみつと水でこねて油で揚げるとし,《和名抄》はフジづるのような形にするとしている。餛飩は索餅とともに後醍醐天皇時代もつくられていたようで,現在のうどんの語はこれからの変化とされる。餺飥は〈ほうとう(餺飥)〉などの名で今も各地でつくられており,餢飳は油で揚げた米粉や小麦粉の餅で,神饌として諸社でつくられている。また,粔籹と煎餅はそれぞれ〈おこし〉と〈せんべい〉のもととなった。以上のうち,粉熟と索餅は宮中の供宴などで盛んに使われ,さらに索餅は平安京の東西の市にこれを売る店があった。同じく東西両市に〈菓子〉の店があったが,これは果物屋だったと思われ,西の市にあったあめ店とともに,この索餅店は日本最初の菓子屋だったといえそうである。ところで,唐菓子の多くは油で揚げるものだったから,唐菓子によって日本人は初めて本格的に油脂を用いる食物を知った。脂肪分の少ない当時の食生活にあって,おそらくそれはおおいに歓迎されたのではないかと思われるのだが,前に述べたように唐菓子は鎌倉時代にはすたれており,菓子はもとより料理においても油脂の使用は普及しなかった。獣脂は忌避し,植物油は生産が少なかったことが,その最大の理由だったと考えられる。
鎌倉時代になって禅が伝えられると,それに伴って喫茶や点心(てんじん)の風習が広まった。点心は定時の食事のほかに喫する間食のことで,室町初期の《庭訓往来》以下の往来物には水繊(すいせん),温糟(うんぞう),糟鶏(そうけい)といったもののほか,鼈羹(べつかん),猪羹(ちよかん),羊羹(ようかん)といった羹の類,饂飩(うどん),索麵(そうめん)などの麵類,および饅頭(まんじゆう)や餅の名が点心の品目として列挙されている。水繊は水溶きした葛粉を加熱し固めて細切りにするもので,現在の葛切(くずきり)にあたり,温糟は酒かすを入れてみそ仕立てにした粥,糟鶏はこんにゃくを薄いみそ汁で煮たものとされているが,とにかくそうしたものや麵類とともにようかんやまんじゅうが点心として用いられた。このようかんは現在のものに近い蒸しようかんであり,まんじゅうは甘酒を用いて小麦粉の皮を発酵させた酒(さか)まんじゅうの類であったが,この両者はその後和菓子を代表するものになっていく。いずれも中国では肉類を用いたが,禅林の茶礼の中で育成されたものだけに,動物性の素材を転換して植物性のものに改造し,それが肉食忌避傾向の強かった日本人に歓迎されたようである。こうしてアズキその他の豆類やヤマノイモなどを使うあんが考案され,それが和菓子の基礎を固めることになった。ようかん,まんじゅうともに砂糖を使ったものと使わぬものとがつくられていたが,砂糖はまだ貴重な輸入品であったから,砂糖入りのものはとくに砂糖ようかん,砂糖まんじゅうと,砂糖を冠した名で呼ばれていた。
→餡 →饅頭 →羊羹
室町末期からポルトガル人などのヨーロッパ人との接触が始まり,彼らによってヨーロッパの菓子が伝えられた。南蛮菓子と呼ばれるのがそれで,カステラ,ボーロ,金平糖(こんぺいとう),有平糖(あるへいとう),カルメラなどがおもなものである。当時はまだほとんど食用とされなかった鶏卵や貴重な砂糖を多用したもので,キリシタンの宣教師たちが盛んに布教に利用したため急速に普及したらしく,江戸時代初期の京都には冷泉通(れいぜいどおり)(現,中京区夷川通)に南蛮菓子をあきなう店があった。また料理書には,《料理物語》(1643)に鶏卵素麵(けいらんそうめん),《料理塩梅集》(1668)にカステラ,《合類日用料理抄》(1689)に有平糖その他といったものの製法が記載され,井原西鶴は《日本永代蔵》(1682)で金平糖の興味深い製法を紹介している。こうして南蛮菓子は日本の菓子となって定着するが,カステラやボーロをつくる際の天火式の焼き方は和菓子の世界に新しい領域を開くものになった。
現在の和菓子は茶の湯によって育てられ,洗練された面が大きい。しかし,千利休が茶会に用いた菓子を調べてみると,麩焼(ふのやき)が最も多く,栗,シイタケ,いりガヤ,昆布などがそれにつぐ。麩焼は小麦粉を水で溶いて焼き,みそを塗って巻くというもので,これは作菓子であるが,その他は《異制庭訓往来》などが茶子(ちやのこ)と呼んで点心と区別している類のものであった。村田珠光は餅を煮て,みそ,あるいはきな粉をかけたものを好んで用いたというが,とにかく利休のころまではこうした素朴なものを手作りにして茶席に用いることが多かった。
江戸時代に入って元禄(1688-1704)ころまでに,菓子はめざましい発展をみせたようである。大田南畝はその著《一話一言》に天和3年(1683)12月19日の日付をもつ江戸日本橋本町の京菓子司桔梗屋河内大掾の菓子目録を収載しているが,それにはまんじゅう,ようかんをはじめとして総計172種の名が挙げられている。この急激な多様化の原因として考えられるのは,まず室町時代には見られなかった落雁(らくがん)類やぎゅうひ,それに南蛮菓子といった新しいレパートリーが加わったことが挙げられる。そして,それは道明寺粉(どうみようじこ)や寒ざらし粉(白玉粉)などの新しい米粉が創製されたことによって可能になったものであった。もう一つの理由としては菓子屋の規模が大きくなったことである。材料そのものも大半は自家製造であったから,粒度の異なる粉をつくるだけでも,新しい技術とより多くの労力を必要としたはずであり,室町中期ころから寺社門前や盛場,あるいは主要街道筋で名物の餅やだんごを売った茶店,京都でいえば北野の粟餅(あわもち),賀茂の御手洗(みたらし)だんご,清水坂の炙餅(やきもち)その他,東海道では遠江日坂(につさか)の葛餅や駿河宇津谷(うつのや)峠の十(とお)だんごなど《毛吹草》に見えるようなものとは,技術も設備も次元を異にする本格的な菓子屋が三都などの大都市には成立したのである。江戸ではそうした店はほぼ例外なしに京菓子司を称し,桔梗屋河内,丸屋播磨,鈴木越後,金沢丹後,鳥飼伊勢などと受領名(ずりようめい)を名乗り,禁裏,幕府,諸大藩,大寺社などの御用をうたうようになった。ちなみに京菓子は京風の上菓子,つまり高級な菓子の意であり,各店は食味はもとより,姿や彩りの美しさや文学的なみやびな菓銘を競うようになった。
菓子製法の専門書が刊行されるようになったのは江戸時代半ばからのことになる。すでに《料理物語》以下の料理書や《本朝食鑑》(1697)などの本草書,あるいは《雍州府志》(1684)や《和漢三才図会》(1712)などがそれぞれその一部で菓子についての記述を行っていたが,専門書としては1718年(享保3)刊の《諸国名物御前菓子秘伝抄》をもって嚆矢(こうし)とする。以下,《古今名物御前菓子図式》(1761),《古今新製菓子大全》(1840),《菓子話船橋(かしわふなばし)》(1841),《鼎左秘録(ていさひろく)》(1852),《古今新製名菓秘録》(1862)などが刊行され,和菓子の歴史を知るうえで重要な史料となっている。ただし,しばしば江戸時代の代表的菓子書とされる《古今新製菓子大全》は京都の版元天王寺屋市郎兵衛が,自家で既刊した《古今名物御前菓子秘伝抄》と《古今名物御前菓子図式》とを上・下巻としてそのまま合本しただけのものであり,京都の越後屋治兵衛ほかの刊行になる《古今新製名菓秘録》に至っては上記のすべてを順不同に入れかえて配列し,目次だけで本文のない項目があるかと思えば,随所に写しちがいや彫りちがいがあるというしろものである。ほかに十返舎一九が版下まで自分で書いたらしい《餅菓子即席手製集》(1805)といったものもあるが,これも出所不明のものを寄せ集めただけのものにすぎない。以上のうち出色なのは,練りようかんで知られた江戸深川佐賀町の船橋屋織江が書いた《菓子話船橋》で,総計80条の項目は材料,用具の進歩改良を除いてはほぼ現在のものと同じつくり方が記載されている。当時すでに国内の砂糖生産は急増しており,その利用が技術の進歩とあいまって,和菓子を完成の域に到達させたのである。
→砂糖
和菓子は,材料,製法などが複雑に組み合わされているため明快な分類は不可能に近い。そこで,ここでも現在の和菓子をいちおう製法に重点をおきながら便宜的な分類を行い,それぞれのおもな品目を紹介する。(1)餅菓子 餅,および餅を材料に使うものであるが,現在ではもち米だけでつくるふつうの餅を材料とするものは少なく,多くは糝粉(しんこ),白玉粉,小麦粉,道明寺粉などを主材料とする。ふつうの餅でつくるのは大福餅や萩の餅(ぼた餅)くらいであるが,江戸時代には鶉餅(うずらもち),大仏餅などこの種類のものが多かった。糝粉餅を使うものには鶴の子餅,すあま(州浜),草餅,柏餅,切山椒(きりざんしよう)などがあり,だんご類も多くはこれに属する。鶴の子餅(鳥の子餅)は,砂糖を加えた糝粉餅を紅白の卵形にしたもので,祝儀用にされる。切山椒は粉サンショウなどを加えて細切りにするもので,東京では新春の菓子とされた。白玉粉を使うものには鶯餅(うぐいすもち)がある。ぎゅうひ様の薄い餅皮であんを包み,上にきな粉をかける。小麦粉を使うものには桜餅があり,江戸後期から名物として知られた東京向島長命寺の桜餅については《兎園小説》の中で屋代弘賢がおもしろい報告を行っている。道明寺(乾飯(ほしいい))を使うのは平安時代から名の見える椿餅で,どういう理由があるのか,蹴鞠(けまり)の催しのつきものとされていた。あんを入れるものと入れないものがあり,それを2枚のツバキの葉ではさむ美しい菓子である。そのほか,静岡の安倍川餅,伊勢の赤福餅,近江草津の姥(うば)が餅,あるいは各地名物の力餅の類も餅菓子に属する。(2)蒸菓子 酒まんじゅう,薯蕷(しよよ)まんじゅうなどのまんじゅう類や蒸しようかん(ようかん)など点心として発達してきた菓子はほとんどこの類に属する。まんじゅう類はあんを包んで成形したものを蒸し,蒸しようかん,外郎(ういろう),かるかんなどは材料をまぜ合わせた種を枠型に入れて蒸し,それを拍子木形に切り分けるものが多い。そのため練りようかんなどをも含めて,これらを棹物(さおもの)とも呼ぶ。また,葛粉などのデンプンを用いる葛餅,葛まんじゅうなどもこうした製法によることが多い。(3)流し物 寒天を溶解して他の材料と練り合わせた種を槽(ふね)に流し入れて固めるもので,練りようかんや水ようかんのほかに,あんを入れない錦玉(きんぎよく)かんなどがある。練りようかんは18世紀末の寛政ころからつくられるようになってたちまち人気を集め,ようかんといえばまず練りようかんを指すほどになった。その結果,練りようかん以外の流し物類をも〈かん(羹)〉と呼ぶようになったようである。(4)焼物 平なべ,オーブンなどを用いて焼くもので,南蛮菓子系統のカステラやボーロのほか,きんつば,どら焼き,桃山(ももやま),茶通(ちやつう),唐(とう)まんじゅう,栗まんじゅう,調布(ちようふ)などがある。どら焼きは小麦粉に鶏卵,砂糖などを合わせてカステラ様の円形の厚い皮を焼き,その皮を2枚使ってあんをはさんだもので,三笠山と呼ぶこともある。桃山は白あんに卵黄,みじん粉(乾飯をいって粉末にしたもの)などを加えて練り,木型で成形してオーブンで表面を焼く。茶通は小麦粉に挽茶(ひきちや)などを加えた皮であんを包んで焼き,唐まんじゅうは小麦粉に鶏卵,砂糖を加えた薄い皮であんを包み,ふつう方形にして焼く。栗まんじゅうは栗を入れたあんを小麦粉の皮で包んで焼くもので,表面に卵黄を塗っててりをつける。調布は唐まんじゅう様の皮でぎゅうひを巻き,表面に焼印を押す。(5)生菓子(なまがし) 水分が多く変質しやすい生物(なまもの)の菓子の意で,干菓子に対する語。種類はさまざまで,前記の餅菓子以下の大半はこれに属するが,それ以外に練切(ねりきり)物,ぎゅうひ物,鹿の子(かのこ),時雨(しぐれ)などがある。鹿の子はぎゅうひまたはようかんをあんで包み,そのあんの上にみつ煮のアズキをつけたもので,アズキのかわりに栗を用いたのが栗鹿の子である。餅の表面にみつ煮のアズキをつけた鹿の子餅から変化したもので,宝暦・明和(1751-72)ころの江戸では当時道化役者として知られた嵐音八が日本橋人形町の家でこの鹿の子餅を売り,からくり人形に竹の皮包みにしたものを店先の客の前まで運ばせるなどして評判であった。時雨はあん玉をしんにして,その周りにみじん粉などを加えてそぼろにしたこしあんをつけて蒸したもの,黄身(きみ)時雨は着色した白あんにみじん粉や卵黄を加えたものであん玉を包み,蒸したものである。(6)半生菓子 生菓子と干菓子の中間にあるもので,適度の軟らかさと日もちのよさを合わせもっている。州浜,錦玉糖,寒氷(かんごおり),石衣(いしごろも)などのほか,最中(もなか)もこの類に属する。錦玉糖は棹物の錦玉かんを小型にして乾燥させたもので,寒天,砂糖,水あめを主材料とする。寒氷の材料もほぼ同じだが,砂糖に水を加えて煮詰めたみつに水あめを加え,それをすりこ木ですって〈すりみつ〉と呼ぶ白い不透明なみつをつくり,これに寒天液を加えて凝固させ,型抜きしてつくる。石衣は,あんを繭や松露(しようろ)の形に押し固めて,すりみつの衣をかけ,乾燥させたものである。(7)干菓子 熬種(いりだね)と焼種(やきだね)の2種類の材料が使われる。熬種はもち米,うるち米などの乾飯をいって粉にしたもので,落雁,塩釜など打物(うちもの),押物(おしもの)と呼ばれるものや,おこし,五家宝(ごかぼう)などに使われる。五家宝はおこし種を砂糖と水あめでつくったみつでこねて丸い棒状に固め,きな粉をまぶしたものである。焼種は小麦粉,米粉などを用いて焼くものでせんべいの類がこれである。(8)あめ菓子 原料のあめにはデンプンを麦芽や酸によって糖化させたものと,砂糖を材料とするものがある。さらしあめ,千歳(ちとせ)あめ,水あめなどは前者に属し,有平糖は後者に属する。各地でつくられている翁あめや熊本名物の朝鮮あめは,水あめの含量を多くしたぎゅうひあめで,軟らかな口あたりをもつ。(9)掛物(かけもの)菓子 豆類,乾飯などを加熱して,砂糖などの衣をかけたもので,金平糖,雛あられ,五色豆,かりん糖などの類である。京都名物の一つである五色豆はエンドウの1粒ずつに5色の糖衣をかけたもの,かりん糖は小麦粉に砂糖,塩などを加えて水で練り,小さく切って油で揚げ,黒砂糖のみつをからめたもので,唐菓子の風を伝えるとされる。珍しいものには甲府の月の雫(しずく)や京都の真盛豆(しんせいまめ)がある。月の雫は生のブドウに糖衣をかけた着想が新鮮である。真盛豆は江戸時代初期すでに京名物の一つに数えられていたもので,北野の真盛庵という尼寺の尼僧たちがつくって檀家などへの贈物にしていたという。大根の葉を陰干しにして青い粉にし,いった黒豆にかけたものだったが,やがて菓子屋がこれをまねて黒豆を砂糖みつにひたし,きな粉やアオノリを衣にかけるようになったと《蒹葭堂雑録(けんかどうざつろく)》に見えている。五色豆はこれにならったものかと思われるが,真盛豆そのものも現に市販されている。(10)その他 ザボンの皮を材料とする鹿児島の文旦(ぶんたん)漬,秋田のフキの砂糖漬をはじめとして,ユズ,ナシ,れんこん,ナス,ショウガその他各種の果物や野菜の砂糖漬があり,甘納豆も砂糖漬の一種である。博多名物の鶏卵そうめんは南蛮菓子の一種で,煮立てた砂糖みつの中に糸のように細く卵黄を流し入れて固めるもので,《料理物語》に見られるものを近代化した製法で現在もつくられている。
執筆者:鈴木 晋一
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日本特有の菓子あるいは日本風の菓子のことで、まんじゅう、羊かん、落雁(らくがん)、求肥(ぎゅうひ)、煎餅(せんべい)、飴(あめ)など生(なま)菓子、干菓子をくるめて日本的な風味を形成してきたものをいう。和菓子は洋菓子に対して生まれたことばであり、バターやミルクを材料に用いた菓子と、肉食禁忌の環境で育てられた穀類、果実、山草本位の菓子を区別して、明治以降に和菓子と称するようになった。季節感を豊かに盛り込んでいるのも和菓子の特徴である。
[沢 史生]
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