咸宜園(読み)カンギエン

デジタル大辞泉 「咸宜園」の意味・読み・例文・類語

かんぎ‐えん〔‐ヱン〕【咸宜園】

文化14年(1817)、広瀬淡窓ひろせたんそうが郷里である豊後ぶんご日田に開いた私塾大村益次郎高野長英らが学んだ。

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精選版 日本国語大辞典 「咸宜園」の意味・読み・例文・類語

かんぎ‐えん‥ヱン【咸宜園】

  1. 大分県日田市淡窓にあった私塾。文化一四年(一八一七広瀬淡窓設立士族庶民の別なく漢学教育を行ない門弟四六〇〇余人を育てた。明治二六年(一八九三)廃塾。大村益次郎、高野長英らも学んだ。

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百科事典マイペディア 「咸宜園」の意味・わかりやすい解説

咸宜園【かんぎえん】

広瀬淡窓(ひろせたんそう)の開いた私塾。1805年豊後(ぷんご)国日田(ひた)に私塾を開いた淡窓は,1817年塾舎を隣接する堀田(ほりた)村に移して咸宜園とした。淡窓は身分・年齢・職業などによる差別なく学問の機会を与えようとし,教授科目は四書五経のほか数学・天文学・蘭学・医学など多岐にわたった。塾生に対しては規律ある共同生活を営ませ,毎月考査を行い信賞必罰で臨む一方,毎夜団欒(だんらん)の場を設けて塾主と交わったという。淡窓の弟旭荘(きょくそう)が二代目塾主を務め,1897年まで計10人の塾主により継続された(一時中断)。村田蔵六(むらたぞうろく)(大村益次郎(おおむらますじろう)),高野長英(たかのちょうえい)らを輩出。塾生の出身国は66国に及び,総入門人数は4000人を超えた。
→関連項目私塾日田[市]

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「咸宜園」の意味・わかりやすい解説

咸宜園
かんぎえん

江戸後期の教育家広瀬淡窓(たんそう)が、1817年(文化14)にその郷里豊後(ぶんご)国日田(大分県日田市)に創設した学塾。前身を桂林荘(けいりんそう)、そのまた前身を成章舎といった。咸宜園の「咸宜」は『詩経』にある文字で、「コトゴトクヨロシ」「ミナヨロシ」と訓(よ)む。この「コトゴトクヨロシ」「ミナヨロシ」というところに淡窓の教育精神が端的に示されている。すなわち、第一に、それにはなんぴとの入門をも拒まないという精神が打ち出されており、士農工商の各階層に開放された。第二に、咸宜には個性尊重の精神が含意されている。咸宜園の学級制度は、無級から始まり、順次一級から九級まで昇級するようになっていたが、その各級がまた上下に分かれていたので、結局、全部で19級あった。入門者は学力、年齢、地位いかんを問わず、まず無級に入れられたが、これを三奪(さんだつ)法と称した。この三奪法に、淡窓の公平無私な教育精神がくみ取られよう。

 咸宜園は淡窓の没後弟子に引き継がれて、1893年(明治26)まで続く。最盛期には門人3000人を超え、高野長英(ちょうえい)、大村益次郎(ますじろう)、長三洲(ちょうさんしゅう)、大隈言通(おおくまことみち)、羽倉簡堂(はくらかんどう)らを輩出した。

古川哲史


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「咸宜園」の意味・わかりやすい解説

咸宜園
かんぎえん

文化14(1817)年,広瀬淡窓が豊後国(大分県)日田郡堀田村に開いた私塾。淡窓は最初,成章舎という漢学塾を開いていたが,同 4年これを日田浦町に移して桂林荘,さらに堀田村に移して咸宜園と改称した。武士,平民を問わず各層に広く開放され,教科も四書五経をはじめ,『十八史略』『日本外史』などが講じられ,一時は門人 4000を数えたといわれる。大村益次郎高野長英らもここで学んだ。1897年閉塾。咸宜園跡は国指定史跡となっている。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「咸宜園」の解説

咸宜園
かんぎえん

江戸後期の儒学者広瀬淡窓(たんそう)の開いた私塾。1805年(文化2)豊後国日田(現,大分県日田市)に成章舎として発足し,17年咸宜園と改称,97年(明治30)までほぼ90年間継続した。学歴・年齢・家格を問わないいわゆる三奪法で,万人に門戸を開いた。月旦評による実力主義の人材養成と,炊事・飲食・掃除などは塾生の自治とするユニークな塾風で知られる。来学者は全国からのべ総数4600人におよび,近世最大規模の私塾。

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旺文社日本史事典 三訂版 「咸宜園」の解説

咸宜園
かんぎえん

1817年,広瀬淡窓 (たんそう) が豊後国(大分県)日田に創設した私塾
漢学を主として10段階にわけた教育課程,整然とした進級の規定や細かな成績評価の方法は当時最も進んでいたとされている。知識の教授より訓育を重んじ,自治的な塾舎生活が行われた。高野長英・大村益次郎らを輩出した。明治30年(1897)代まで存続した。

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世界大百科事典(旧版)内の咸宜園の言及

【日田[市]】より

…近年はボーリングによる温泉(日田温泉)も湧出。このほか私塾咸宜(かんぎ)園跡や月隈(つきくま)城跡,日隈(ひのくま)城跡などの史跡にも恵まれ,耶馬日田英彦山(やばひたひこさん)国定公園の一部になっている。市北郊の小鹿田(おんた)(皿山)は柳宗悦が見いだした〈民陶の里〉として知られ,1705年(宝暦2)筑前国小石原(こいしばる)村から伝えられたとされる打刷毛模様や点線模様に特色をもつ小鹿田焼を産する。…

【広瀬淡窓】より

…豊後日田(ひた)の人。筑前福岡の亀井南冥(なんめい)・昭陽(しようよう)父子について儒学を学び,日田にもどって私塾咸宜園(かんぎえん)を開いた。篤実な人格と,今日のカリキュラムや成績表に相当する制度を取り入れた進歩的な教育方針とによって,咸宜園の名声はしだいに高くなり,塾生は全国から集まり,その数は延べ3000人をこえたという。…

※「咸宜園」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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