精選版 日本国語大辞典 「唐招提寺」の意味・読み・例文・類語
とうしょうだい‐じ タウセウダイ‥【唐招提寺】
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〈大和・紀伊寺院神社大事典〉
鑑真については「唐大和上東征伝」に詳しいが、天平五年(七三三)伝律授戒の高僧をわが国に招請すべく唐に遣わされた
唐律招提寺は唐招提寺の初めであるが、当初から堂舎が建てられたものではない。むしろ旧地主の屋舎がいくらか残っていて、戒院に使われていたことが考えられる。護国寺本「諸寺縁起集」は承和二年(八三五)に成立した「招提寺建立縁起」を収録しているが、それによると平安時代の初め頃には概略次の建物があった。
これによって当時の堂塔の有様を知りうるが、塔についての詳しい記載はない。また西塔跡と伝える遺跡はあるが、文献上は明らかでない。
諸堂の造営では、平城宮
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奈良市五条町にある律宗総本山。本尊は盧舎那仏(るしゃなぶつ)。756年(天平勝宝8)、聖武(しょうむ)・孝謙(こうけん)両上皇の勅願により来朝した唐僧過海(かかい)大師鑑真和上(がんじんわじょう)が新田部(にいたべ)親王の旧宅を譲り受けて建立した寺で、戒壇(かいだん)を設け律宗の根本道場とした。初めは唐律招提寺(とうりつしょうだいじ)、唐寺(とうじ)、律寺などと称され、延喜(えんぎ)式十五大寺、南都七大寺の一つに数えられた。759年(天平宝字3)「唐招提寺」の勅額が下賜されたが、その勅文には、「招提是諸寺本寺十方僧依所、日域七衆根本寺、故號唐招提寺」とあり、四方僧坊の義をとり、諸寺の根本とした。以後、天皇・皇后以下百官も皆ここで受戒し、帰依(きえ)も厚かった。『大般若経(だいはんにゃきょう)』『金光明(こんこうみょう)経』を読ませ、鎮護国家金光明建初律唐招提寺と号したこともあった。王朝とともに隆盛を極めていた唐招提寺はやがて勢力を失い、平安末期には興福寺(法相(ほっそう)宗)の末寺となった。その後、嘉禎(かてい)年間(1235~1238)覚盛上人(かくじょうしょうにん)が中興第1世となって戒律を復興し寺域を整えたが、ふたたび戦国の兵乱、地震による倒壊などで衰えた。江戸時代に徳川5代将軍綱吉(つなよし)、その生母桂昌院(けいしょういん)らの帰依により大規模な修理がなされた。1900年(明治33)独立して律宗総本山となる。
[里道徳雄]
金堂、講堂、経蔵・宝蔵は奈良時代、鼓楼(ころう)は鎌倉時代の建物で、おのおのたびたび修補を経ているが、創建当初の姿をよく伝え、国宝に指定されている。金堂は鑑真の弟子如宝(にょほう)(?―815)の建立と伝える。正面7間、側面4間の単層寄棟(よせむね)造で、前面の1間は吹流しの形式をとり、太いエンタシスの柱が屋根を支える。大棟(おおむね)東西端の鴟尾(しび)のうち西側のものは創建当初のもの。堂内には本尊盧舎那仏像をはじめ、薬師如来(にょらい)、千手観音(せんじゅかんのん)、梵天(ぼんてん)・帝釈天(たいしゃくてん)、四天王の立像(いずれも奈良時代、国宝)を安置している。講堂は平城京の東朝集殿(ひがしちょうしゅうでん)を移築したものといい、天平(てんぴょう)の宮殿建築の唯一の遺構。もと開山堂にあった鑑真和上坐像(ざぞう)(奈良時代、国宝)は、1964年(昭和39)移建された旧一乗院宸殿(しんでん)(国重要文化財)の御影堂(みえいどう)に安置されている。像は脱乾漆造で、法隆寺夢殿の行信僧都(ぎょうしんそうず)の像とともに日本の肖像彫刻中の最高傑作、最古の遺品として名高い。そのほか、木造大悲菩薩(だいひぼさつ)像(覚盛上人像)、紙本着色東征(とうせい)絵巻5巻、絹本着色大威徳明王(だいいとくみょうおう)像、絹本着色十六羅漢(らかん)像(以上、重文)、鑑真が唐より将来した舎利を納める舎利容器1具(国宝)、持国天、増長天、薬師如来など6体の木造立像(りゅうぞう)がまとめて1件の国宝とされるなど、多くの文化財を蔵している。また境内の西に石造3段の戒壇がある。もと覆堂があったが、嘉永(かえい)年間(1848~1854)に焼失、現在は戒壇上に1980年(昭和55)建造の宝塔が建つ。唐招提寺は1998年(平成10)、世界遺産の文化遺産として登録された(世界文化遺産。奈良の文化財は東大寺など8社寺等が一括登録されている)。
なお、5月19日に鼓楼で行われる「うちわまき」はよく知られている。
[里道徳雄]
『安藤更生著「唐招提寺」(『美術文化シリーズ 74』1963・中央公論美術出版)』▽『徳田明本著『唐招提寺』(1973・学生社)』▽『『古寺巡礼 奈良 9 唐招提寺』(1979・淡交社)』▽『浅井和春著「唐招提寺」(『名宝日本の美術 7』1980・小学館)』
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奈良市五条町にある律宗総本山。南都十五大寺の一つ。鑑真(がんじん)が朝廷より賜った平城右京5条2坊の新田部(にいたべ)親王旧宅地に759年(天平宝字3)寺院を建立し,唐律招提寺と名づけた。しだいに伽藍が整えられ,776年(宝亀7)と812年(弘仁3)には封50戸が施入された。その後荒廃したが,鎌倉時代に貞慶(じょうけい)らによって復興が図られ,1244年(寛元2)には覚盛(かくじょう)が入寺して中興し,近世にも徳川綱吉の母桂昌院(けいしょういん)らの庇護をうけた。境内は国史跡。
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…東大寺内も別院が多く,羂索院法華堂(三月堂)は双堂(ならびどう)形で建てられ,鎌倉中期に礼堂を再建して1棟とした西大寺は2棟の華麗な金堂をもち,多数の院ごとに仏堂と僧房を有した。唐から律を伝えた鑑真の唐招提寺は私寺ながら4町の寺地を有し,当時の金堂,講堂を存している。また聖徳太子をまつる法隆寺東院が発願され,中心に八角円堂の夢殿を置いて塔廟を表現した。…
…この時期に則天武后から玄宗の最初期ころに至る唐の新様式がもたらされたと思われる。(2)盛期 第8次で渡唐した玄昉,吉備真備らの留学生が帰朝する735年(天平7)より,鑑真が唐招提寺を創立する前年の758年(天平宝字2)まで。玄昉によって初めて,玄奘の新訳による経典を含む一切経が請来された。…
※「唐招提寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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