日本大百科全書(ニッポニカ) 「喜劇映画」の意味・わかりやすい解説
喜劇映画
きげきえいが
映画の発明者リュミエール兄弟(兄オーギュスト、弟ルイ)のシネマトグラフ(映画撮影機と映写機を兼ねたものでスクリーンに映写する方式の映画)の一篇(ぺん)、ギャグに彩られた『水をかけられた水撒(みずまき)人』(1895)が証(あかし)ともなっているように、このジャンルは映画の発生とともに古い。しかしシネマトグラフがシネマ(映画)となり、映画が興行として発展するとともに、ことに喜劇映画では俳優(コメディアン)の比重が大きくなり、主役が同時に監督でもある場合が多くなって、この傾向は第二次世界大戦のころまで、このジャンルの特徴となったといってよい。
以後、喜劇映画は流れとして、スラプスティック・コメディとシチュエイション・コメディの2系列に大別できるが、前者はことにコメディアン主体で、追いかけなどドタバタの激しい動きと道化ぶりが笑いを誘い、後者は脚本や演出に重きが置かれ、比較して動きが少なく、状況のちぐはぐさ、不条理がおかしさを生み出すのを身上としている。
[渡辺 淳]
外国
喜劇映画の発展
本格的な喜劇映画は、まず20世紀初頭、舞台の喜劇役者出身のフランス人マックス・ランデールの軽妙なボードビル風のスラプスティック・コメディに始まった。ついでランデールの系譜は、彼の名マックスを芸名としたといわれるアメリカ人マック・セネットに引き継がれ、セネットが創設(1912)したキーストン撮影所が生み出したスラプスティック・コメディは、第一次世界大戦中まで、そのスピーディーな運びが受けて一世を風靡(ふうび)した。
しかし、第一次世界大戦直前の1914年に、このキーストン撮影所から今度はチャップリンがデビューし、あの独特な浮浪者スタイルのドタバタで人気をとり、『黄金狂時代』(1925)あたりから、そこへ人生のペーソス(哀感)とヒューマンな味わいを盛り込み、ドラマチックな、いわゆる劇映画をつくって気を吐いた。そしてチャップリンは1930年代に入って、トーキー時代になっても生き延び、第二次世界大戦後まで喜劇王の名をほしいままにした。
けれども、1920年代にチャップリンと並んでスラプスティック・コメディの黄金時代を築いたバスター・キートンと、「ロイド眼鏡」のハロルド・ロイドは、トーキー時代の到来とともに消え行く運命を余儀なくされた。だがキートンは、あの無表情な顔と対照的な激しいアクロバティックな動きで、サイレントだからこそ可能だったシュルレアリスティックで不条理な世界の表現に成功し、次にふれるマルクス兄弟とともに、1960年代以降再評価されたことに注目したい。マルクス兄弟(長男チコ、次男ハーポ、三男グルーチョ、五男ゼッポの4人、四男のガンモは戦争に召集されたため少年時代の短期間のみ活動)は1930年代~1940年代のアメリカにあって、当時の不況と戦争の予感を反映しつつ、『我輩(わがはい)はカモである』(1933)など、数々のアナーキーなナンセンス(ないしシュルレアリスム)・コメディでファンを得ていた。
他方、シチュエイション・コメディに関しては、まずアメリカで1923年にドイツから移ったエルンスト・ルビッチ監督が、『結婚哲学』(1924)など、都会風で機知に富んだソフィスティケイテッド・コメディで人気を得たことが特筆される。なお、この流れは、同じくドイツからアメリカに渡ったビリー・ワイルダーによって、第二次世界大戦後、継承発展させられ、『アパートの鍵(かぎ)貸します』(1960)など、艶笑(えんしょう)味に富んだ人情喜劇の名作があれこれと生み出された。さらにこの系譜は1970年代以降、ニール・サイモンの喜劇の映画化へとつながったとみられよう。
それから1930年代には、セネット門下の監督フランク・キャプラが脚本家のロバート・リスキンRobert Riskin(1897―1955)と組んでつくった『プラチナ・ブロンド』(1931)をはじめ、『或(あ)る夜の出来事』(1934)、『オペラ・ハット』(1936)など、一連のスクリューボール・コメディ(変人喜劇)が見落とせない。キャプラの仕事は第二次世界大戦後まで続いたが、その楽天的で理想主義的作風は確かに時代遅れとなり、キャプラ的趣向は、ニュアンスを違えて1940年代にはプレストン・スタージェス監督に、第二次世界大戦後には後にふれるウディ・アレン(脚本・監督・主演)に引き継がれたとみなせよう。
また1930年代には、フランスにおいてルネ・クレール監督が、ウジェーヌ・ラビッシュEugène Labiche(1815―1888)のボードビル(歌入り喜劇)の映画化『イタリア麦の帽子』(1927)や、『ル・ミリオン』『自由を我等(われら)に』(ともに1931)などを発表、ランデールの線上で、スラプスティックな要素を保ちながら、独特な詩的タッチの社会風刺喜劇を発表して全世界に影響を与えたことが忘れられない。コメディアンでは、歌手出身のフェルナンデルやミシェル・シモンMichel Simon(1895―1975)、それにミュージック・ホールの花形、モーリス・シュバリエの活躍が際だった。
[渡辺 淳]
第二次世界大戦以降
第二次世界大戦を挟んだ1940年代~1950年代にかけては、イギリスで、アレクサンダー・マッケンドリックAlexander Mackendrick(1912―1993)監督がブラック・コメディの先駆的傑作といわれる『マダムと泥棒』(1955)などで活躍し、そこで主演した俳優、アレック・ギネスらとともにシチュエイション・コメディの分野で気を吐いたことと、アメリカでは、豊富なタレントの競演によってミュージカル・コメディがますます盛んにつくられるようになったことを特記しなければなるまい。
それに、このころには、ローレル‐ハーディや、先述のマルクス兄弟の場合をはじめとして、何人ものコメディアンが組んで出演するトーキー以後の傾向にいよいよ拍車がかけられたことと、いろいろとシリーズものが盛んになったことに注意を促したい。いずれもアメリカ産だが、ボブ・ホープの「珍道中」シリーズや「腰抜け」シリーズ、バッド・アボットBud Abbott(1897―1974)とルー・コステロLou Costello(1906―1959)の凸凹(でこぼこ)コンビ、歌手ディーン・マーチンとボードビリアンのジェリー・ルイスJerry Lewis(1926―2017)の「底抜け」シリーズなどがそれである。フランスでは、ジャック・タチ(脚本・監督・主演)が『ぼくの伯父さん』(1958)など一連の「バカンス物」を発表、ユーモアいっぱい、ソフトなコミック・タッチで世相を皮肉ったのが評判をよんだ。
1960年代以降には、舞台と歩調をあわせるように、スクリーンでも喜劇は、一方でシリアスでブラックなユーモアの色合いを強める反面、パロディー風のドタバタ調復活の兆しが散見するようになる。アメリカでは、スタンダップ・コメディ(日本でいえば漫談)出身の、先にもふれたウディ・アレンや、もとボードビリアンのメル・ブルックスMel Brooks(1926― )といった監督らにそれがうかがえる。俳優では、ともに今は亡きジャック・レモンJack Lemmon(1925―2001)とウォルター・マッソーWalter Matthau(1920―2000)(ことにB・ワイルダー監督の1974年作品『フロント・ページ』における両人のコンビは絶妙だった)、ダドリー・ムーアDudley Moore(1935―2002)、「ピンク・パンサー」シリーズのピーター・セラーズPeter Sellers(1925―1980)、エディ・マーフィEddie Murphy(1961― )らコメディアンの仕事ぶりにもそれはうかがえよう。イギリスでは「モンティ・パイソン」シリーズのイアン・マクノートンIan McNaughton(1925―2002)、フランスではコメディアンのルイ・ド・フュネスLouis de Funès(1914―1983)、イタリアでは監督のディノ・リージDino Risi(1916―2008)やエットレ・スコーラEttore Scola(1931―2016)らの名があげられる。
[渡辺 淳]
日本
日本についてみると、第二次世界大戦前では、サイレント時代から引き続き、ナンセンス・コメディの斎藤寅次郎(とらじろう)や山本嘉次郎(かじろう)監督、榎本健一(えのもとけんいち)、古川緑波(ろっぱ)、エンタツ‐アチャコ・コンビ、柳家金語楼(やなぎやきんごろう)らコメディアンの活躍が目だった。
第二次世界大戦後になると、「サラリーマン喜劇」シリーズの森繁久弥(ひさや)や、クレージーキャッツの植木等(ひとし)(1926―2007)、それに伴淳三郎(ばんじゅんざぶろう)(1908―1981)、フランキー堺(1929―1996)、三木のり平(1924―1999)らがテレビと平行して映画でもいわゆるタレントとして庶民の人気を集めた。とりわけ注目されるのは、1969年(昭和44)に始まり、1996年の渥美清(あつみきよし)の死によって幕を降ろした記録的なロングラン・シリーズ、山田洋次監督と主演渥美コンビの寅(とら)さんもの『男はつらいよ』であろう。手を変え品を変えての失恋シリーズであったが、渥美のモダン落語風語り口の巧みさで庶民の心をとらえ、松竹のドル箱であったことは確かである。この路線は、かなりトーンはダウンしているが、1980年代末から始まった栗山富夫(くりやまとみお)(1941― )監督(2000年の第11作からは、1963年生まれの本木克英(もときかつひで)監督)、三國連太郎(みくにれんたろう)(1923―2013)、西田敏行(としゆき)(1947―2024)主演の『釣りバカ日誌』シリーズに継承されている。そして、さらにソフィスティケートされたものとしては、周防正行(すおまさゆき)(1956― )の『Shall we ダンス?』(1995)や、劇作家の三谷幸喜(みたにこうき)(1961― )が初めて手がけた『ラヂオの時間』(1997)などが、軽い風俗的タッチであるが、このジャンルに新風を送り込んでいることをいい添えておこう。
ところで、これは世界全体についていえることだが、現代では純粋悲劇が成り立ちにくいのと同様に、喜劇もかつてのような「お笑い」や「おふざけ」ではリアリティを失い、本当に人心を揺さぶることはできなくなっている。映画でも往年のチェーホフ的な悲・喜劇の現代版ともいえる、手ごたえの確かで斬新な、風俗ではなくて「人生喜劇」の出現が待望されている。
そして、この傾向は21世紀を迎えると、政治や社会情勢と科学・技術の急進展のなかで、いよいよグローバルに加速しており、このせいで今日的喜劇はますます創出しにくくなっているといっていいだろう。
が、そのなかから新旧の、ともあれ問題作家や作品をいくつか拾い出してみよう。アメリカでは、鋭鋒(えいほう)の冴(さ)えは多少とも鈍りはしているが、やはり第一には『人生万歳』(2009)などで、円熟した生きのよさをみせているウディ・アレンがあげられよう。そして、アレンの人気がとりわけ高く、伝統的に喜劇が愛され、喜ばれている国フランスでも特出した喜劇作家・作品は見あたらない。比較して出来のいい作品を世に問うている作家では、パトリス・ルコント(『僕の大切なともだち』2006年)やコリーヌ・セローColine Serreau(1947― )(『サン・ジャックへの道』2005年)らをはじめ『モリエール 恋こそ喜劇』(2007)のローラン・ティラールLaurent Tirard(1967―2024)やアニエス・ジャウイAgnès Jaoui(1964― )とジャン・ピエール・バクリJean-Pierre Bacri(1951―2021)のコンビ(『みんな誰(だれ)かのいとしい人』2004年)の仕事などが注目される。それに、ロシアのベテラン監督、アレクサンドル・ソクーロフが、イッセー尾形(1952― )を主役に昭和天皇をチャップリン風に描いて国際的評価を得た異色作『太陽』(2005)などがまた見落とせない。
日本についていうと、劇作家三谷幸喜が映画でも、たとえば大当たりした『ステキな金縛り』(2011)にみられるように、熟達ぶりを示して一般に人気が高い。しかし何かそこには笑わせようという意図が目だち、仕掛けが人生の隠れた真実を、喜劇だからこそ引き出し、しのばせるような気配が薄い。不器用でもさりげなくて実は鋭い喜劇映画の作家・作品ないしはコメディアンが期待されもする所以(ゆえん)である。それにつけても、伊丹十三(いたみじゅうぞう)(『お葬式』1984年など)と森田芳光(よしみつ)(1950―2011)(『家族ゲーム』1983年など)、二つの才能の喪失が惜しまれてならない。
[渡辺 淳]
『喜劇映画研究会編・刊『サイレント・コメディ全史』(1992)』▽『アイランズ編『喜劇映画名作案内 ビデオで愉しむ125本』(1995・晶文社)』▽『スティーグ・ビョークマン編著、大森さわこ訳『ウディ・オン・アレン――全自作を語る』(1995・キネマ旬報社)』▽『原健太郎・長滝孝仁著『日本喜劇映画史』(1995・NTT出版)』▽『ヘルムート・カラゼク著、瀬川裕司訳『ビリー・ワイルダー自作・自伝』(1996・文芸春秋)』▽『バスター・キートン著、藤原敏史訳『バスター・キートン自伝――わが素晴らしきドタバタ喜劇の世界』(1997・筑摩書房)』▽『ピエール・ビヤール著、清水馨・中井多津夫・樫山文男訳『ルネ・クレールの謎』(2000・ワイズ出版)』▽『渡辺淳著『喜劇とは何か――モリエールとチェーホフに因んで』(2011・未知谷)』