精選版 日本国語大辞典 「喪服」の意味・読み・例文・類語
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死者を弔い、哀悼を表すために着る礼服。凶服ともいう。古くは一定の期間、喪に服するときにつけた衣服をいった。藤衣(ふじごろも)(藤、葛(かずら)の繊維で織った質素な衣服)、いろ(喪服の鈍色(にびいろ)のこと)、墨染めの衣(ねずみ色の喪服)、素服(そふく)(麻(あさ)の御衣(みそ))などという表現もある。今日では親族、友人、知人の葬式、告別式、通夜(つや)、埋葬、年忌の法事などに着る服をいう。
[岡野和子]
男子の和装は吉服と同じで、黒羽二重(はぶたえ)、染抜き五つ紋付、羽織に袴(はかま)をつける。女子の和装は黒羽二重、縮緬(ちりめん)の五つ紋付とし、夏は平絽(ひらろ)を着る。本来は白の下着を重ねるが、近年はこれを略すことが多い。帯は黒羽二重、繻子(しゅす)、紋織、夏は平絽、絽綴(つづれ)とし、柄物(がらもの)の場合は吉祥(きちじょう)文様などを避ける。また金、銀泥(でい)や、白抜きで、「夢」の字や経文を表したものなどが用いられる。長襦袢(じゅばん)は白羽二重、綸子(りんず)で、夏用には白平絽か麻を用い、白塩瀬、羽二重の半衿(はんえり)をかける。帯締は黒羽二重の丸裄(ぐけ)、帯揚は黒羽二重、綸子が正式で、白足袋(たび)を履く。草履(ぞうり)、バッグは黒布製とし、革製を用いるときは、光沢のないものを選ぶ。
通夜、年忌などの際の準礼装には、寒色系の色無地一つ紋または三つ紋を用い、その他は正装と同様にする。
喪服の制度は奈良時代『養老律令(ようろうりつりょう)』からみられ、『和名抄(わみょうしょう)』には「不知古路毛(ふじごろも) 喪服也」とある。平安時代には、黒平絹の袍(ほう)と鈍色平絹の表袴(うえのはかま)が用いられたが、近親者は濃い黒を、遠縁の場合は薄墨を着る。のちに武家はこれに準じ、江戸時代には男は麻裃(かみしも)、女は白無垢(むく)を用いた。明治以後、天皇の喪服は黒椽闕腋(つるばみけってき)の袍(ほう)と定められた。男は明治の末まで、近親者の喪服は白の長着に水色の裃をつけた。また地方によっては、紋服の上に白地の肩衣(かたぎぬ)をつけたり、千早(ちはや)を用いることもあった。女は明治から昭和の初めまで、喪主や近親者は白羽二重の無垢に、白か水色の羽二重、繻子、紋織の帯を締め、白の長襦袢に白半衿、白丸裄の帯締、白帯揚の白装束であった。
[岡野和子]
喪中の人または弔問者が死者を哀悼して着る黒い衣服、モーニング・ドレスmourning dressともいう。
かつて喪服は、近親者が喪中に着た衣服をさし、ディープ・モーニング(本喪服)、ハーフ・モーニング(半喪服)などとよばれた。喪の期間は、ときに3年以上という長いものもあったが、通常死後6か月から1年までである。近年はこの習慣が廃れて、喪服といえば、葬儀や告別式、法要や通夜などに着る儀式用の礼服をさすようになった。
喪の色は、時代、民族、宗教によって異なるが、黒、灰色、白、モーブ(藤色)、濃紺などがある。「白喪の女王」の名が示すように、白はかつての王侯の喪の色であった。黒ビロードのローブを着て白いベールをかぶったイギリスのメアリー・スチュアートの肖像も残されている。また白はフランスのプロバンス地方やイタリアでも喪の色であった。
かつての典型的なモーニング・ドレスは、通常光らない黒い布地でつくられ、ときにネックラインに白いクレープを用いる以外は、靴、靴下、手袋、ベールなどアクセサリーも黒っぽい色をつけていた。モーニング・ベールは服喪中に顔を覆う薄地の黒いベールで、正式には黒の紗(しゃ)の縁どりのある黒地のニノン(張りのあるオーガンジーのような絹)を、黒や灰色のモーニング・ピンで頭に留めていた。縁どりの幅は近親者ほど太く、遠いほど細くなる。これは17世紀以後に始まった習慣であるが、略式になると、目の細かいチュールで髪の部分だけを覆う小さめのベール(ベール・ハット)が用いられていた。フランスでは19世紀末期から、白い縁どりのついた小さな丸いボンネットに長いベールをつけた「未亡人の帽子(ボネ)」とよばれるものをかぶり、略式には灰色やモーブのベールがあった。第一次世界大戦時には、喪服がモードにさえなった。一部の女性が、休暇で帰還している兵士を愛人とするため、あるいは夫をみつけるために、後家のような服装をしたのである。しかし大戦後、経済的な理由からこの習慣はしだいに廃れていき、簡単なモーニング・バンドや喪章が考案された。現在、女性は、光らない黒の素材のワンピースかスーツ、あるいはアンサンブル、男性は、黒のスーツに黒のネクタイが代表的な喪の装いになっている。
[平野裕子]
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…子孫は父母,祖父母に対して絶対に服従すべきことを求めるのが唐律の精神であり,単にその利益を侵害するのを許さないばかりでなく,形式的な孝行の義務を尽くすことをも命じる。父母が死亡したときは3年間喪に服し,謹慎して生活せねばならず,もしその間に喪服(そうふく)を去って吉事に従い,または音楽を楽しむようなことがあれば徒三年の刑に処せられる。もし喪服のままで吉事に参預しただけでも杖一百である。…
…このような穢れの思想と伴って,死者を悼み,悲しみ,哀惜のために喪に服することが行われた。
[日本]
本来,喪服は喪にある期間中着用するものであったが,近年はわずかに葬送の日などに着用されるにすぎない。喪服のことを中国,朝鮮などで凶服というが,これは人生の凶事に際して着用されるからであり,これを素服(そふく)というのは,麻などの加工しない生地のままか白地の布で作ったからである。…
…
【中国】
中国では,広義には服装全般にわたる規定をいうが,ひと口に服装といっても,腰から上の着物である〈衣〉,腰から下の〈裳(しよう)〉(男女共用のスカート状のもの,したばかま)のみならず,〈冕(べん)〉(かんむり),帯,履物,装飾品など,要するに身につけるいっさいのものにおよぶ。狭義には喪服(もふく)および服喪に関する規定をいう。いずれにせよ,中国において服装は〈礼〉体系のなかに組み込まれ,その一翼をになうものであって,実用性にとどまらずシンボリックな意味を付与されていた。…
…木綿の伝わる中世末期までは植物性繊維として,アサ(麻)についで栲(たえ)などとともに庶民の間には広く行われていたと思われる。藤衣(ふじごろも)というのが公家(くげ)の服飾の中で喪服として用いられたが,これはもともと粗末なものを用いることをたてまえとする喪服が,庶民の衣服材料である麻布や藤布で作られたため,このように称したのであろう。近代には藤布はござの縁布として織られた。…
… 喪中の禁忌(タブー)には死者の出た地縁的共同体(集落)全体にかかわるものもあるが,一般的には死者の配偶者およびごく近い血縁者がより厳格な禁忌を遵守する義務を負うものとされている。喪の慣習のなかで最も頻繁にみられることは,こうした強い禁忌を守る者を喪服や喪章などによってしるしづけ,彼らを社会の他の者から隔離することである。たとえば,西ボルネオに住むイバン族のあいだでは,人の死後ほぼ1ヵ月間集落の全員が歌舞音曲をつつしみ,装飾品を身に付けることをやめるが,この禁忌が解除されたあとも,死者の配偶者(男女とも)は身を美しく装ってはならず,また異性と親しく話してはならない。…
※「喪服」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
冬期3カ月の平均気温が平年と比べて高い時が暖冬、低い時が寒冬。暖冬時には、日本付近は南海上の亜熱帯高気圧に覆われて、シベリア高気圧の張り出しが弱い。上層では偏西風が東西流型となり、寒気の南下が阻止され...
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