四国八十八ヵ所(読み)しこくはちじゆうはつかしよ

日本歴史地名大系 「四国八十八ヵ所」の解説

四国八十八ヵ所
しこくはちじゆうはつかしよ

四国路には阿波(徳島県)の一番霊山りようぜん寺から始まり、土佐(高知県)・伊予(愛媛県)を回って讃岐(香川県)の八八番大窪おおくぼ寺に終わる弘法大師空海ゆかりの八八の寺々がある。四国霊場とも四国八十八ヵ所の札所ふだしよともいい、これを巡拝する巡礼者のことを遍路へんろと記すが、一般には遍土へんどまたはお遍土さんとよんでいる。

遍路たちは白衣に笈摺おいずる、「迷故三界城 悟故十方空 本来無東西 何処有南北」「同行二人」と生国氏名を書き付けた菅笠に金剛杖という扮装で、鈴をならし「南無大師遍照金剛」と口誦しつつ四国路を巡る。同行二人とは常にお大師さまとともにあるという意味である。遍路の群は三々五々、菜の花の咲く早春の頃から目立って多くなる。四国路の風物詩といえよう。

このような遍路の風習はいつ頃から始まったであろうか。一般に四国遍路の始まりは五一番札所石手いして寺の縁起に出てくる衛門三郎といわれている。伊予国浮穴うけな荏原えばらの郷に衛門三郎という強欲非道な長者があった。ある日きたない乞食僧が門前に立って食を乞うたが三郎はこれを追い返した。僧は懲りず、毎日のように門前に立ったので、激怒した三郎は手にした箒で僧の持つ鉢をしたたか打った。鉢は八つに割れて虚空に飛び散った。その夜から三郎の子が一人ずつ死んでいき、八日にして八児を失った。三郎は初めて乞食僧が弘法大師であったことを知り、自らの罪業に気づき、大師に一目会って謝罪したいと思い巡拝の旅に出た。八十八ヵ所を五回、一〇回と巡ったが会えず、二一回目に老いと病のため一二番焼山しようざん(阿波)で倒れた。そこに大師が現れ、修行によって罪業は消滅したと告げ、なにか来世に望みはないかと尋ねた。三郎は「来世は一国一城の主として生れたい」と答えたので、大師は小石を拾い「衛門三郎再来」と書いて左の手に握らせた。天長八年(八三一)のことという。のち道後湯築ゆづき城主河野息利の一子息方が生れたが左の手をかたく握って開かない。河野家では安養あんよう寺の僧を招いて祈祷をさせると初めて手を開き、衛門三郎と記した一寸八分の石が現れた。これにより石を宝殿に納め、安養寺石手寺と改めたというのである。天長八年という年がどうして記録されたのか、湯築城(現松山市)の築城は建武年間(一三三四―三八)のことであるが河野系図には息利・息方という人物はみえないので、この話はまず「石手寺縁起」としておきたい。

弘法大師が弘仁六年(八一五)に四国を巡歴して八十八ヵ所を開き、寺を建てたとする説が一般に信じられている。

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改訂新版 世界大百科事典 「四国八十八ヵ所」の意味・わかりやすい解説

四国八十八ヵ所 (しこくはちじゅうはっかしょ)

四国の島内に散在する,弘法大師(空海)ゆかりの霊場88ヵ所を,順を追って参詣する巡礼コースで,四国八十八ヵ所弘法大師霊場とも称する。一般にはこれを〈遍路〉〈お四国〉などと呼んで,観音霊場の巡礼と区別している。遍路が霊場に参詣すると,そのしるしに〈南無遍照金剛〉と弘法大師の宝号を記した札を納めることから,八十八ヵ所の寺々を札所(ふだしよ)ともいう。第1番の札所は阿波の霊山寺(現,徳島県鳴門市)で,ここから土佐(高知県),伊予(愛媛県),讃岐(香川県)とまわり,山深い大窪寺で終わる。このように四つの国にわかれる巡路は,仏教の思想にもとづいて,阿波を発心の道場,土佐を修行の道場,伊予を菩提の道場,讃岐を涅槃(ねはん)の道場として意義づけられている。全行程1400km以上,歩くと60日余りもかかるこの道をたどると,おのずから仏教の修行が果たされるという教えである。山岳,海岸,平野など,地理的変化に富んだ遍路の行程は,仏教修行の厳しさそのものである。

 四国八十八ヵ所霊場は,弘法大師が42歳の厄年に四国を一巡して,八十八ヵ所の霊場を定めたと伝えられる。これらの寺々を巡拝する遍路のならわしは,鎌倉時代に衛門三郎が始めたという伝説もある。しかし,これらの霊場が巡礼コースとして整えられたのは室町時代のことで,一般の人々が盛んに巡礼に出かけるようになってからであろう。それまでは,弘法大師の遺徳をしたう僧侶たちが,四国各地の山野を歩いて修行していた。それは,弘法大師の出身地が讃岐の善通寺であることと,大師が24歳のときに著した《三教指帰》に,大滝嶽や室戸崎などで求聞持法(ぐもんじほう)を修したと述懐していることによるものである。平安時代の末ごろには,すでに四国が仏教修行の道場とみなされ,《梁塵秘抄》や《今昔物語集》では四国の辺地といわれ,海岸沿いの細い道を巡遊する僧の一群があったことを伝えている。八十八ヵ所という弘法大師の霊場は,室町時代のころに彼らによって整えられたのである。八十八という数字にも,米の字を分解したという説や,男厄42歳,女厄33歳,子どもの厄13歳を加えた数という伝えもあるが,根拠は明らかでない。また,霊場の順番についても,江戸初期に出版された《四国遍礼霊場記》には,讃岐国善通寺を1番札所としている。これが今日のように霊山寺から始まる形をとるようになったのは,大阪方面から船で渡ってくるおおぜいの遍路の便を考えたからであろう。札所の寺では,正面の本堂に仏や菩薩が本尊として安置され,その脇の大師堂に弘法大師がまつられている。修行中の弘法大師が観音の霊像を感得し,奇跡をあらわして人々を救ったというような,本尊仏と弘法大師とのかかわりを示す霊験談が全体的に見られ,修行の旅を行く弘法大師に対する宗教的期待が,四国遍路の基調をなしている。

 四国を舞台とした遍路の歴史は,独特な巡礼習俗を生んだ。遍路のいで立ちは他の巡礼と同様であるが,金剛杖には〈南無遍照金剛〉と弘法大師の宝号を記し,笠には〈同行二人〉と住所氏名を書く。同行二人とは,弘法大師と自分のことであり,ともに修行の旅を行くという観念による。札所のまわり方にも,番号順にまわる〈順うち〉と88番から逆にたどる〈逆うち〉とがある。この〈うつ〉という言葉は,木製の納札を釘で打ちつけたことから生まれた。また,88ヵ所の札所を4度に分けてまわる一国参りや,主要なコースを部分的に遍路する七ヵ寺,十三ヵ寺,十七ヵ寺もうでなども行われている。四国霊場には,今も弘法大師が修行を続けているという信仰があり,大師に会うために難儀な逆うちをし,橋の上では寝ている大師の目を覚まさせないために,けっして金剛杖をつかないということも守られている。地方によっては,村の娘たちが嫁入前に遍路に出て,異郷の人情や風俗に触れるという,人生儀礼化した所もある。江戸時代には,一生に一度のお蔭参りとして,伊勢参宮かたがた,百観音(西国,坂東,秩父)とお四国をまわることも広く行われた。また,かつては病者,こじき,犯罪者などが多く,不幸を背負った人々が,観音や弘法大師の利生にそこばくの夢を託しながら,遍路の群に加わる場合が多かった。3月から5月ごろにかけて,米,餅,惣菜,草履など,食糧や身の回りの物を遍路に供養する,接待の風習も広く見られた。四国八十八ヵ所の弘法大師霊場を巡る遍路は,庶民の宗教的願望を弘法大師信仰によって包みこみながら,旅の信仰習俗として大きな役割を果たしてきたのである。(表参照)
巡礼 →遍路
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百科事典マイペディア 「四国八十八ヵ所」の意味・わかりやすい解説

四国八十八ヵ所【しこくはちじゅうはっかしょ】

四国霊場,八十八ヵ所大師とも。四国地方の弘法大師の遺跡といわれる88の寺院。この霊場を巡礼することを遍路(へんろ)という。遍路は鎌倉初期の衛門三郎が子女の急死を悲しみ,順逆21回の巡礼をしたのに始まると伝えるが,弘法大師信仰より生じて,それ以前にもあったとする説もある。江戸時代に急速に盛んとなった。順路は徳島県鳴門市の霊山(りょうぜん)寺から海岸沿いに右回りに高知・愛媛を通って,香川県さぬき市の大窪(おおくぼ)寺で終わる。
→関連項目足摺岬石手寺観音寺金剛頂寺金剛福寺西国三十三所志度寺巡礼白峰善通寺竹林寺徳島[県]最御崎寺室戸阿南海岸国定公園屋島

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「四国八十八ヵ所」の意味・わかりやすい解説

四国八十八ヵ所
しこくはちじゅうはっかしょ

四国霊場,四国礼場ともいう。四国にある弘法大師にゆかりのある 88ヵ所の寺をいい,これらの寺を巡礼することを遍路という。弘法大師信仰が盛んであった平安時代末期から始ったものといわれるが,鎌倉時代に衛門三郎が子女の急死により回心して,この霊場を順逆に 21回巡礼した話は有名。江戸時代に急速に盛んになった。また各地にこれらの寺を模したものが造られた。

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