出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
東京都新宿区南東部の地名。麴町から続く甲州道中(国道20号線)沿いに発達した地域。地名は街道の両側に四つの谷があるからとも,四谷見附付近は家が4軒しかなかったため四つ家といったともいう。1636年(寛永13)江戸築城の総仕上げの一環として,今もよくその遺構を残す赤坂~喰違(くいちがい)~四谷~市谷~牛込間の外堀,土居,外郭門を建設する際に外郭門を改めて四谷門と呼び,門外から大木戸(四谷4丁目)までを四谷と呼んだ。この時,現在の堀の部分にあった麴町11~13丁目は分断され,郭外の町屋になり昭和初期まで四谷区麴町11~13丁目があった。この外郭工事の翌年に勃発した島原の乱終了後,輸送の元締めを勤めた大伝馬町・塩町(ともに現在の中央区)は,論功によって四谷門外に町地を支給された。これも戦前まであった四谷伝馬町・塩町の起源であり,江戸西郊に対する実質的な玄関口を形成した。いわば現在の新宿副都心成立の遠因とみることもできる。以後,永らく四谷は山手随一の商業地として知られるようになった。
甲州道中の両側には町屋が続き,北側には旗本と御家人の組屋敷が置かれ,とくに御鉄炮玉薬奉行・御鉄炮簞笥(たんす)奉行支配のものが有名である。南側は伊賀組同心組屋敷をはじめ種々の組屋敷があり,さらにその南には郭内から移された25ヵ寺が寺町を形成した。1654年(承応3)に大木戸まで玉川上水が通じ,以東は暗渠の水道となり四谷門をサイフォンで越えて城内に給水した。導水管は石造で,これを作る石工が集住した石切横丁の名も今に残る。このように四谷には江戸から東京への都市的発達を物語る地名が多い。1878年,東京府に15区制施行とともに四谷区となり,1947年淀橋区,牛込区と合体し新宿区となった。
現在の行政上の四谷は,JR四ッ谷駅から西へ伸びる甲州街道(新宿通り)沿いの細長い範囲で,1~4丁目からなる。商店の多いところであるが,最近は都心と副都心間を結ぶ業務地区化が進行し,交通の便を利して会社のビルが急増している。かつての武家屋敷地帯も住宅街と業務地区混合が著しく,寺町も新しくよそおいを変えつつある。
執筆者:鈴木 理生+正井 泰夫
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東京都新宿区南東部、JR四ツ谷駅西方の地区。旧区名でもあり、1947年(昭和22)淀橋(よどばし)、牛込(うしごめ)の各区と合併して新宿区となった。甲州街道(国道20号)が通り、かつて4軒の茶屋があったこと(四屋が四谷へ)、また、近くに四つの侵食谷があることが地名の由来という。JR四ツ谷駅付近は江戸城外郭の四谷見附(みつけ)が置かれ、当時の石垣が残っている(駅、見附跡とも千代田区に属する)。街道筋(すじ)は拡幅工事が進み近代的商店街へと変容した。新宿御苑(ぎょえん)に接する四谷4丁目は1616年(元和2)大木戸が設けられた所。四ツ谷駅の南は迎賓館(旧、赤坂離宮)の入口にあたる。東京地下鉄丸ノ内線・南北線が通じる。
[沢田 清]
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