困民党(読み)こんみんとう

精選版 日本国語大辞典 「困民党」の意味・読み・例文・類語

こんみん‐とう ‥タウ【困民党】

明治中期、負債利子減免などを要求して運動を起こした農民組織。明治一四年(一八八一)、松方財政が強行した紙幣整理による不況下で、養蚕製糸製茶など農家副業的経営に急激な行詰りをみせた関東中部地方の農民が、負債利子減免、元金年賦償却などを要求して運動を起こした。明治一七年の群馬事件秩父事件にも、自由党員の指導を得て、これらの組織が蜂起している。借金党。負債党。

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デジタル大辞泉 「困民党」の意味・読み・例文・類語

こんみん‐とう〔‐タウ〕【困民党】

明治中期、負債の利子の減免などを要求して騒動を起こした農民組織。松方財政下の不況によって養蚕・製茶などの副業に打撃を受けた関東・中部地方の農民が組織し、秩父事件群馬事件などにも参加した。借金党。負債党。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「困民党」の意味・わかりやすい解説

困民党
こんみんとう

1883、84年(明治16、17)に、世界経済の不況、松方財政のデフレ政策により全国農漁村に発生した負債農民。当時、困民党、借金党、貧窮党などとよばれた。困民党という名称は、広くいえばこの負債農民集団をさすと考えてもよいが、農民が主体的に使ったものとすれば、現在では秩父(ちちぶ)困民党、武相(ぶそう)困民党に限定されることになる。83年から84年の初期にかけては、地租小作料・貸し金の軽減が水田地帯の農民の要求で、彼らは小作党とよばれたが、84年になると横浜貿易の不振、デフレのために生糸生産地帯の農民が生活の補助手段を奪われ、負債農民に転落し、生活防衛の自己運動を起こすに至った。これが困民党の運動であり、したがって群馬県で83年11月から数か所に起こった農民騒擾(そうじょう)も、現在からみれば困民党の示威運動と考えることができる。

 松方財政はデフレとともに地方税の増徴をもたらしたが、近代的金融制度が整っていないため、農民は消費金融を高利貸営業者、金貸し会社に求めることになり、需給関係から法外な利子率の引上げが行われ、身代(しんだい)限りとなる者が輩出した。このため、困民党は、債主に対して集団的に負債据置き、無利子の要求を突きつけるようになり、相州(神奈川県)南西部では高利貸殺害事件にまで発展した。彼らは数か村の連帯のうえに大衆動員を行い、運動は相州北部に波及。1884年8月10日御殿峠で数千名の大集会を開き、200人以上が八王子警察署に引致(いんち)された。このとき自由党員が債主と困民との仲裁に入った。9月には負債農民が八王子署に乱入する事件も発生。11月武相困民党を結成して85年まで各地で騒擾を繰り返した。

 これに対して秩父困民党の特徴は、その運動形態、要求について、全国の農民騒擾事件の要因を結晶させ、自由党の反権力姿勢を農民的に受け止め、極限の武装蜂起(ほうき)までもたらした点にある。秩父でも1883年11月から高利貸説諭の請願運動が各村の惣代(そうだい)の手で行われ、84年夏から困民党の組織運動が進むなかでも続けられた。党という以上、集団の組織性が求められるが、動員体制をつくる段階で村の約100人の活動分子が活動し、困民党盟約を起草し、11月1日蜂起に際しては総理、副総理、大隊長、小隊長などの隊編制をとったうえ、軍律まで定めた。農民の心を動かしたのは自由党盟約の読み替え、人民主権的な生存権や社会的平等主義であり、これが秩父のみでなく、群馬、長野にわたる数千の農民を動員し、10日間鎮台兵、憲兵、警官隊と戦った思想となった。

[井上幸治]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「困民党」の解説

困民党
こんみんとう

1883~84年(明治16~17)の全国的な不況のなか,関東・中部・東海・東北南部の各地方を中心に結成された負債農民の集団。各地で借金党・貧民党・困民党などとよばれた。大蔵卿松方正義のきびしいデフレーション政策によって全国的に物価低落や土地価格の下落がおき,高利貸から借金していた農民に打撃を与えた。農民は借金の据置・年賦返済・利子引下げ・質地請戻しを要求して立ちあがったが,官憲の弾圧により運動はしだいに終息した。著名な困民党として武相困民党・秩父困民党があるが,後者は従来自由民権運動とのかかわりでとらえられてきた。最近の研究では,近世の土地慣行に焦点をあて,民権運動とは別の自律性をもった民衆運動と考えられている。

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世界大百科事典 第2版 「困民党」の意味・わかりやすい解説

こんみんとう【困民党】

明治14年の政変(1881)で松方正義が大蔵卿に就任すると,国家財政確立のためデフレ政策をとり,国民経済は極度に収縮した。これに追打ちをかけたのは1883年にはじまる世界恐慌で,日本の貿易も大きな打撃を受けざるをえなかった。当時横浜の全輸出額の6~7割を占めた生糸は,84年になると3割減となり,そのうえこの年の養蚕は平年の6~7割の収穫であり,この結果,とくに中部,関東の養蚕・生糸生産地帯の農民経済は窮乏に追い込まれた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「困民党」の解説

困民党
こんみんとう

明治前期,貧農の組織
借金党・負債党とも呼ばれた。松方財政の影響により農村は深刻な不況に見舞われた。そのため1883〜84年,関東の西部,中部地方の南東部に,負債利子の減免,元金の年賦償却などを要求した農民一揆が組織的・持続的に展開する中で組織された。自由民権運動が激化する中で,'84年秩父事件をおこした。

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世界大百科事典内の困民党の言及

【秩父事件】より

…こういう状況下で1883年末から郡役所,警察署に対して,自由党員と村の惣代ら在地オルグ約30名によって,高利貸説諭の請願運動が行われ,それによって84年の初めから中小農民の自由党加盟者が増加した。これが秩父困民党結成の核である。 1884年8月,生糸の安値に絶望的になった負債農民の山林集会は主として秩父西部でしきりに繰り返され,そのつど警官に解散させられたが,この間に困民党の組織の輪は広がっていった。…

※「困民党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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