平安中期,935年(承平5)ころ成立の作品。作者は紀貫之。934年12月21日,新任の国司島田公鑒に国司の館を明け渡して大津に移った前土佐守紀貫之は,27日大津を出帆し,鹿児崎(かこのさき),浦戸,大湊,奈半(なは),室津,津呂,野根,日和佐(ひわさ),答島(こたじま),土佐泊,多奈川,貝塚,難波,曲(わた),鳥飼,鵜殿,山崎と,船路の泊りを重ね,翌年2月16日ようやく京のわが家へ帰り着いた。その間の知人交友との離別の事情,各地の風光や船中のできごと,または港々でのエピソード,水夫たちの船唄などを克明に日記しておいたのであろう。それは当然,真名(まな)の漢文日記であったと思われるが,土佐在国中に醍醐天皇をはじめ右大臣藤原定方,権中納言藤原兼輔ら有力な後継者をすべて失った貫之としては,大家族を扶養してゆくためには,権力者太政大臣藤原忠平父子に接近して官職を得なければならなかった。その就職請願の〈申文(もうしぶみ)〉ともいうべきものが,このかな書き和文の《土佐日記》であった。素材を旅の体験に取り,様式を日次(ひなみ)の記としてはいるが,単純な意味での日記紀行ではない。それは事実をはなはだしく朧化した虚構を加えているからである。作者を女性に仮託してかな文を用いたのは,土佐で失った女児を追慕するみずからの悲しみを見つめた自己観照の文学とするためであり,軽快な諧謔をまじえて一般国司の腐敗堕落や交通業者の不正行為を痛烈に風刺し,みずからの廉直清貧を主張するのは,権力者への訴えを兼ねた社会批判の書とするためである。老若男女さまざまな性格の人物を登場させた戯曲的構成のもとに,貫之が生涯を通じて追求し続けた高度の歌論をかみ砕いて具体的にわかりやすく楽しく説き明かすのは,権力者の子弟たる初心入門の年少者の教科書とするためであったと思われる。押鮎と鯔(なよし)の頭との恋を空想する童話性,船と並行して山も進むかに見える錯視を取り上げた動画的描写,幼児の感覚で思考するこの老歌人の感受性の柔軟さ,しかも緩急自在な文章のリズムに読者をひきこんでゆく技巧の達者なことは驚嘆に値する。歌論,風刺,自照と三つの主題をあやなしてゆくなかに,先祖の船守や敬愛する兼輔への鎮魂の文章をすら気づかれぬようにそっと忍ばせておく根性のしたたかさ,この掌編からくみ取られる効果のおそるべき多様さは,この作品が以後の日本文学の歴史に,日記文学,私小説,歌論書等の出発点となったことを認めただけではもの足りぬほどである。
執筆者:萩谷 朴
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紀貫之(きのつらゆき)作。『土左日記』とも書く。土佐守(とさのかみ)の任満ちた貫之が、934年(承平4)12月21日に任地をたち、翌年2月16日に帰京するまでの55日間の海路の旅をもとにした日記体の紀行文。帰京後まもなくに成立か。「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり。」といい、筆者を女性に仮託して、全行程を1日も欠かさず、仮名文で書きつづる。仮名文による新しいジャンルを創始したものとして、画期的な意義をもつ作品である。女性に仮託したことについてはなお諸説あるが、公の立場を離れて私的な立場からの感懐を語るため、また、全編に57首もの歌を配するので、それを異和感なく繰り込むため、そして、虚実混交の記事内容を統一あるものにするため、などの理由が考えられる。それらはいずれも男性の漢文日記では不可能なことなので、仮名文による日次記(ひなみのき)を必要とした、という一点にかかわっていこう。ともかく、後の仮名文学全盛を促した意味でも『土左日記』の果たした先駆的役割は大きい。
内容は、旅の行程、天候、人々との離別、人情の厚薄、船中での人々の動静、自然景観、風波や海賊への恐れ、京へのあこがれ、ときに発する滑稽諧謔(こっけいかいぎゃく)、風刺などがあるが、なかでも印象的なのは彼地(かのち)で失った幼児への哀切な追懐である。また、歌とそれにかかわる歌論めいた言辞の多さにも目をひかれる。それらはかなりのフィクションを含んで、意図的に構成されてもいる。しかし、何がこの作品の中心的なテーマなのかは、かならずしも明らかではない。虚と実の、そのいずれでもない合間に、新しい世界をつくりだすこと自体がねらいであったといえよう。
諸本では、貫之自筆本を〔1〕藤原定家(ていか)が書写した前田家本、〔2〕定家の子為家(ためいえ)が書写したものの転写本である青谿書屋本(せいけいしょおくぼん)が有名である。〔1〕の末尾数行は貫之の手跡を模してある。〔2〕は原型本の再建を試みてほぼ成功した池田亀鑑(きかん)が多く用いた本である。なお、1984年(昭和59)になって発見されたものに〔3〕為家書写本がある。〔2〕の親本で、〔1〕よりさらに正確に原典の風姿を伝えているといわれる。
[菊地靖彦]
『鈴木知太郎校注『日本古典文学大系20 土左日記』(1957・岩波書店)』▽『萩谷朴著『土佐日記全注釈』(1967・角川書店)』
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平安中期の日記文学。紀貫之(つらゆき)作。土佐守の任期を終えて,934年(承平4)12月21日国府を出発し,翌年2月16日に帰京するまでを記す旅の日記で,貫之に従う女性に仮託し仮名文で記す。成立は935年頃。貫之は自己の内面を表現するために,当時は女性のものであった仮名文を選び,官人の立場を離れて自由に記すことが可能になった。とはいえ漢文的な表現が多く,内容も男性的。虚構の部分も多い。日本最初の日記文学として価値が高いが,成立年代が明らかで写本が貫之自筆本にたいへん近いという点で,国語学の資料としても貴重。「日本古典文学全集」「日本古典文学大系」所収。
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…国司として常識となっていた不正の蓄財をいっさい避けていた貫之としては,和歌の学識をもって権力者の知己を求めるよりほかに道はない。そこで創作したのが《土佐日記》である。和歌初学入門の年少者のためにはおもしろくてためになる手引きの歌論書,また当時の国司の腐敗堕落や交通業者の不正手段を諧謔を交えて痛烈に風刺する一方,貫之自身の精励さや清貧を印象づけ,ひそかに亡児を悲嘆し老境を嘆き父祖の栄光を偲ぶ日本最初の文学作品としての日記がこれであった。…
※「土佐日記」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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