デジタル大辞泉 「地主」の意味・読み・例文・類語
じ‐しゅ〔ヂ‐〕【地主】
2 その土地の守り神。地主の神。
〈じしゅ〉とも読み,広い意味では土地の所有者を指す。地主はこうした意味では階級社会の発生とともに存在したが,農業による生産を主とする時代になって,農地の所有は大きな意味をもち,自己の所有する農地を他人(小作人)に貸与・耕作させ,その代償として地代(小作料)を取り,自己のおもな生活収入とする階層が生じ,これを一般に〈地主〉と呼んだ。また自己の所有する土地を耕作する自作農と区別して,寄生地主ともいう。地主は私的土地所有を進めて大土地所有者となり,経済的,社会的に強力な権力を持つ地主階級を形成した。他方,小作農は地主に対して身分的にも隷属的な立場におかれ,前近代的な経済的・身分的解放を求めて,小作争議などで闘うようになる。もっとも,地主および地主制をどう見るかについてはさまざまな見解があり,その実態は地域や時代によりさまざまである。
土地を占取用益し,そこから一定の得分を取得する権利を持つ者を地主と称した。〈本地主〉と表現される場合があり,また同一人が〈地主〉とも〈本領主〉とも称された事例もあって,元来その土地を最初に占取・領有した者を指したと見られるが,とくにそこを開発した場合に地主の権利は強く永続的なものとなった。819年(弘仁10)11月5日,京中の空閑地の耕種を命じた太政官符に,土地を授けた人が2年以内に開かなければ改めて他人に賜ることとし,〈遂に開熟之人を以て永く彼の地主と為せ〉(原漢文)と命じたことが見えるのはそのことを物語る。この場合,開発を命じた目的は地利(土地からの収益)の上納を確保することにあったから,地主はその土地を永く占取耕営することを認められるとともに,地利上納の義務を負うこととなった。地主の有するこのような内容の権利義務を指して地主職という。こうして,いわゆる開発領主がしばしば地主と称されたのである。1098年(承徳2)播磨大掾秦為辰が同国赤穂郡久富保公文職ならびに重次名地主職を子息為包に譲与した際の譲状(案)に,〈件所帯名田畠桑原等者開発之私領也〉と記しているのはまさにそれである(東寺百合文書)。
地主職は,この例にも見られるようにその土地は相伝・譲与され,また開発領主あるいはその所領の相伝者が,地主としての立場において所領を貴族・大社寺など有勢のものに寄進する場合もあった。1184年(元暦1)5月の後白河院庁下文(案)によれば,越前国河和田荘はもと藤原周子の先祖相伝の私領であったが,待賢門院のはからいで法金剛院に寄進し,その際〈地頭預所職〉は周子が留保して子孫相伝することになったという由来が述べられている。いわゆる寄進地系荘園成立の一例であるが,文中に〈当御庄者,是当預所帯本公験,代々相伝之地主也〉と記され,領家への荘園寄進によってその預所となった本来の領主が,その後も依然として地主と呼ばれていたことが判明する(仁和寺文書)。また1105年(長治2)2月10日の橘経遠寄進状にも,〈地主〉経遠が右衛門督藤原宗通に寄進した相伝所領田畠30町歩について,〈経遠之子孫を地主とせしめ給うべき也〉(原漢文)との文言が見られ,これまた類似の例である(九条家文書)。こうして,預所が当該荘園の地主であるという事例が認められるが,かといってつねに地主=預所とは限らない。1310年(延慶3)9月の大和国平野殿荘預所平光清重陳状案に,課役負担をめぐる預所と百姓との相論に際しての預所側の主張として,〈凡そ当国諸庄薗之習,地上果役に於ては,地主(名主の事也)半分,百姓半分沙汰致すは通例也〉(原漢文)と述べられているような例もある(東寺百合文書)。また戦国期の興福寺大乗院領神殿荘に関して,院主尋尊は〈地作一円重職御領也〉といっているが(大乗院寺社雑事記),これは同荘の地主職と作主職とを領主大乗院があわせ所有するのだという主張である。
これら多様な事実は,地主の呼称がもともとは荘園制における領家職,預所職,名主(みようしゆ)職などの所職の系列とは別の範疇に属するものであることを物語る。個別の事情により領家が地主職を有する場合もあり,預所あるいは下司,名主などが一面では地主と称されるケースもありえたのである。
執筆者:須磨 千穎
近世社会は近代的土地所有の成立する以前の封建的土地所有に基づく社会体制であり,土地所有権は支配者である幕藩領主に帰属し,農民や町人は単に土地を占有しているにすぎない。そのかぎりでは近世の地主は幕藩領主ということになる。しかし近世の地主は,歴史的には被支配者たちの土地所持をいい,近世社会において再生産の支柱を担った農民の土地所持者を意味する。つまり近世の地主は,土地制度の根幹である幕藩領主の検地によって把握された農民であり,検地帳に登録された名請人(なうけにん)にほかならない。また,地主には小作人に対する対概念の意味もある。近世の地主は,大土地所持者として自作を上回る部分,あるいは全農地を小作人に貸与する農民層のことであり,小作人の対極に位置して生計の一部あるいは全部を小作人から支払われる小作料に依存する農民階層にほかならない。ただし,近世の地主は自作部分を内包した地主手作り経営という性格をもっているのが一般的である。
近世の地主は地頭,田主,大屋,親方,親作,地親などと呼ばれた。ところで,地主は小作人から小作料を徴収する小作経営だけでなく,酒屋,油屋,紺屋などの農村工業をはじめ質屋,穀屋,旅籠などの金融・流通業を兼営し,村方の再生産に深く浸透している。また村役人を務める場合が多いが,近世村落は在地領主制を否定する村請(むらうけ)制の原則に基づいており,村政の運営は名主(庄屋)・組頭・百姓代の村方三役にゆだねられているのである。村役人としての地主は農民層の利益を代弁する村落の代表者であり,一方では幕藩領主による農民支配の末端組織につらなる存在であった。このように,近世の地主は多様な経営内容をもち,幕藩領主と一般農民層の中間に位置する存在であった。近世の地主はその発生要因から新田開発地主,土地集積地主に大別され,その身分関係からは郷士地主,普通地主,寺院地主,村地主などに分類できる。
新田開発地主は近世初頭の土豪開発新田や中期以降の村請新田,百姓寄合新田,町人請負新田などによって田畑屋敷地の所持面積を広げ,小作経営を拡大していったものである。土豪開発新田は兵農分離過程で武士層に上昇しえず,主家の没落によって,もしくはみずから土着の道を選んで在地化した階層によるものである。幕藩領主は土豪の懐柔策として新田開発を奨励し,その代償として応分の除地と特権を与えた。土豪層は新田の築造労働力に豊富な下人労働力をあて,用水土木技術を駆使して各地に新田を切り開いた。村請新田,百姓寄合新田,町人請負新田は,幕府や諸藩によって民間の資本を活用する政策のもとで推進された開発形態である。とりわけ町人請負新田においては有力商人が多量の遊休資本を新田開発に投資し,新田小作人から小作料を徴収する町人地主となり,鍬下年季の間に新田に投下した資本の回収を終え,その金利分は小作料から幕藩領主への年貢を差し引いた残額(作徳(さくとく))をあてる小作経営である。
土地集積地主は農民層の分化に基づいて発生したものであり,田畑屋敷地の移動を前提にしている。近世の土地移動は最も基本的な土地立法の一つである田畑永代売買禁止令によって規制されていたが,元禄期(1688-1704)以降には田畑屋敷地を質権に設定する土地金融の展開によって空洞化し,各地で質地関係を中心とする土地集積が進み,質地地主が登場することになったのである。その社会的背景としては,村方における小商品生産の展開や貨幣経済の浸透などを指摘することができる。こうして近世中期以降の地主は,幕藩領主と小作人の間に介在する事実上の中間収奪者としての位置を確保することになった。
郷士地主は土佐藩や薩摩藩にみられたもので,武士の身分をもつとともに村方に在住して田畑屋敷地を所持する地侍という存在である。普通地主は被支配者である農民や町人の土地所持者のことである。また,寺院地主は信者が寄進した土地や開墾した田畑を小作に出すことをいう。一定の山林原野を一定の集団で共同利用することを入会(いりあい)という。村地主はこの入会を意味する。入会には内山,村持山と呼ばれる村中入会と数ヵ村あるいは数十ヵ村が共同利用する外山の村々入会とがある。近世農民にとって山林原野は草肥をはじめ多くの生産・生活手段を確保する不可欠な地目であった。また,農民が個別に占有する百姓林,百姓山もあり,山村には山林地主の成長もみられた。幕末期の農民層の分化はさらに地主の土地集積を展開させ,地主は明治初年の維新政府による一連の封建的諸制限の撤廃,なかでも明治維新の土地変革である地租改正によって,地主的土地所有として体制的に容認されることになった。
執筆者:佐藤 常雄
近代の地主は農地などその所有する土地を貸し付け,その地代収入によって生活の基盤とするが,その貸付地が存在する市町村に自分も居住する地主は在村地主,貸付地のある市町村以外で居住する地主は不在地主と一般に呼ばれる。また,その所有農地の一部を貸し出すが,他の部分は自分で耕作する地主を耕作地主,所有農地のすべてを貸し出し,自分では耕作しない地主を不耕作地主と呼んでいる。自分ではまったく,あるいはほとんど耕作に従事せず,その貸し出した土地からの高額高率の地代収入や小作農への高利貸付けによって生活する地主を寄生地主と呼ぶこともある。
明治維新の変革によって私有財産としての土地所有権が公認され,土地所有権者がその土地を自由に使用,収益,処分することが可能になった。その後,土地の売買・賃貸借が資本主義的商品経済の進展につれて増大し,自作農の土地所有権の喪失と地主による土地所有権の集中が明治後期の資本主義の体制的確立期にかけて進んだ。1883年に全耕地のほぼ34%と推定された小作地は以後漸増し,昭和恐慌期の1930年ごろには48%のピークに達した。明治前半期までの地主には小規模な在村耕作地主が多く,地主は農事改良や村政など農村における重要な生産的・社会的機能に深く関与していた。しかし,資本主義の展開と地主的土地所有の集中・大規模化につれて,生産的機能を喪失し,10a当り米収量の半分にも達する高額現物小作料収取に寄生する不在の不耕作地主が漸次増大した。
大正期に入って,第1次世界大戦のもとでの日本資本主義と都市の飛躍的発展は,農民的小商品生産の発展を促すとともに,農家労働力の資本主義的労働市場との結合を拡大強化し,小作農の人格的自立と自家労働評価の一定の上昇を促した。そして,資本主義経済の発展した西日本を中心に,小作人組合による高額現物小作料の減免を要求する小作争議を激発させ,明治期に上昇傾向をみせた高額現物小作料は,1920年以降,西日本では低下傾向に転じた。と同時に,近代日本の一大蜂起であった1918年の〈米騒動〉を契機に,日本は朝鮮,台湾での〈植民地産米増殖〉に乗り出し,大正末から昭和初期にかけて〈植民地米〉の移入が急増した。高額現物小作料の低減と〈植民地米〉の移入増大のもとで,日本の地主的土地所有の収益性は低下し,地主的土地所有は20年代以降,大局的には後退に転じ(大地主の土地所有の減少傾向),昭和恐慌さらには戦時期の食糧管理制度のもとでその後退は一段と加速された。
日本の地主制度の特徴は少数の巨大地主のもとに膨大な零細不耕作・耕作地主が存在していたことにあった。ちなみに,24年の農林省〈50町歩以上ノ耕地ヲ所有スル大地主〉に関する調査によると,50ha以上の大地主は全国で3158人で,そのうち北海道が787人,東北757人,北陸338人と,主として北海道や東日本稲作地帯に集中しており,東北,北陸諸県では小作地のなかで50ha以上地主の所有する小作地が20~30%台に達するところが多かった。しかし,50ha以上の寄生的大地主の小作地は日本の全小作地のなかでは14.5%にすぎず,日本では中小零細地主が圧倒的だった。昭和恐慌期に,これら膨大な零細地主と,大なり小なり経営耕地を地主から借り入れて高額現物小作料の収奪を受ける約390万戸(全農家の約70%)もの貧しい小作農がともに極度に困窮し,零細地主による土地取上げをめぐって深刻な小作争議が多発し,体制的危機が生じた。それは日本を侵略戦争とファシズムに導く重要な条件ともなった。
第2次大戦後,連合軍の占領政策の一環として行われた農地改革は,日本の地主制度を基本的に解体した。農地改革は,不在地主のすべての貸付地,在村地主については都府県で平均1haを超える貸付地を強制的に国が買収し,小作人に解放した。それによって41年には全耕地の46%を占めていた小作地は,改革直後の49年には13%に著減し,経営耕地を自分で所有する自作農は28%から55%に倍増し,逆に経営耕地をすべて借り入れる小作農は28%から8%に著減した。また,農地改革後も残存することとなった小作地についても,小作料は低い定額金納制に統制された。こうして,農地改革後は農地を所有し,それを貸し付けて地代収入を得ることによって生活する地主としての存在は不可能となった。
→寄生地主制 →小作争議 →農地改革
執筆者:暉峻 衆三
幕末期の林野は幕藩有,村持,私的所持に分かれていた。幕藩有は御林などの直轄と農民供用に分かれる。村持は村中入会を基本とし,数ヵ村から数十ヵ村に及ぶ入会もあった。私的所持は中世土豪の系譜をひく旧型と,これが村持へ移行したのちに再び私的所持へ分解したものとに分類できる。明治初年の土地改革でまず御林と奥地未利用林が官林となり,社寺境外上地林からも官有地が生まれた。私的所持林野は従来からの持伝え地に至るまで大幅に私有権が認められた。村持と幕藩有農民供用を主体とする林野は,はじめは払下げ予定の公有地とし,のちにこれを官有と民有に区分した。政府の民有地編入条件は厳格,寛大,かなり厳格と変化したが,全国的には官有地編入が多かった。こうして日本では,明治絶対主義国家が最大の山林地主となったことに特色がある。また1889-90年に皇室財産の中核として形成された御料林は,本州中央部の優良官林とその他の官有山林原野から編入したものである。1909年の林野構成の大要は御料林155万ha,国有林667万ha,民有林866万haであった。
国有林野の設定とその経営は,農民の採草,落葉採取,放牧,採薪などの入会利用と対抗関係にあった。しかし入会理論に反して,行政的には国有地編入をもって国有地入会権は断絶したものとし,1915年の大審院判決もこれを確認した。政府は部分的には国有林の下戻しと払下げを行い,また農民利用を認めた。しかしこれは,存置した大面積の国有林の維持・管理と国有林労働者の確保を容易にするためであった。国有地入会権の排除は,1899年の国有林野特別経営事業の発足以降,とくに造林事業の進展に伴って強化されていった。なお国有林は,林木の安定供給の役割も担った。
一方,明治初年に私有権を認められた山林地主は次のようである。(1)旧土豪型の山林地主で,岩手県,島根県をはじめ後進山間地帯に見られる。岩手の数百~数千haの在村型地頭林はその典型であり,従属農民の名子層を中心に入会利用がある。この私有地入会権に基づく山林争議が,大正中期には薪炭材の商品化をめぐって発生し,第2次大戦後は小繫事件となった。(2)民間用材林業の先進地に見られる山林地主で,奈良,三重,和歌山,静岡が代表県となる。とくに吉野および天竜林業地帯は有名である。杉,ヒノキの植栽適地であり,古くから河川・海上輸送によって木材大市場へ連結していた。これらの地帯ではまず共有林の分解に基づく農民的林業の成立が進行する。これを基盤として,村内外の木材関連業者,商人,地主が,はじめには立木,のちには林地までも集中する。その後は,やがて不在大山林地主が形成されていく。(3)用材林業の進展は条件によって農民的林業を存続させる。各地で小林業地帯を形成し,造林,伐出,販売に特色がある。ここでは在村中小山林地主を生む。(4)普通の農山村,山村に見られる一般的な在村型中小山林地主である。耕地と山林は併有関係にあり,山林に乏しい農民は,農林業と生活のため山林地主への依存度が高い。薪炭,用材の商品化の進展に伴って林地の集中も進行し,しだいに不在村型も現れる。さらに次の形態の山林地主もある。(5)明治前期,主として華族政商への官有地払下げに起因する山林地主。(6)明治中期以降,国有林中の不要存置林払下げによる山林地主。(7)鉱山,パルプ,電力をはじめとする諸資本・財閥の山林取得とその経営。
第2次大戦後,1947年には御料林,都道府県所在・農林省所管国有林,北海道所在・内務省所管国有林がいわゆる林政統一によって国有林へ一本化された。また農地改革は採草地,放牧地,未墾地は対象にしたが,山林は除外した。
執筆者:笠井 恭悦
朝鮮における地主制は李朝後期に形成され始め,日本の植民地支配期に農業における主要なウクラードとして定着し,解放後南北でそれぞれ独自に行われた土地改革,農地改革によって基本的に解体された。
近代朝鮮の地主制の歴史的淵源をどこに求めるかについては一致した見解がないが,(1)16世紀中葉に台頭してくる在地両班(ヤンバン)(士林派)の経済的基盤となった地主・佃戸(でんこ)制に求める説,(2)18世紀中葉以降に商品貨幣経済の発展とともに登場してくる庶民地主と呼ばれる新しいタイプの地主(商人出身が多い)に求める説,が有力である。いずれにせよ李朝期の地主制は,国家の官僚支配体制と結合しないかぎりその地位が不安定であったこと,佃戸の耕作権が近代の小作人の場合よりはるかに強かったと思われること等の点で,植民地期の地主制とは性格を異にしていた点が留意されねばならない。
1876年の開港を契機とする米穀輸出の開始や,日清戦争前後からの日本人地主の侵入は,地主的土地所有拡大の引金となった。植民地期の朝鮮人大地主のかなりの部分が開港以降に成長してきたものであることが,近年の研究で明らかにされつつある。ただこの期には,富農層を中心とした商業的農業経営の動きも無視できない比重をもっていた。こうした動きを阻止し,地主制を農業における主要な生産関係として定着させたのが,日本による植民地農政であった。1910年代に行われた〈朝鮮土地調査事業〉によって,地主の排他的土地所有権が法認された反面,従来農民が獲得していた諸権利は否定された(小作権の物権性の否定,永小作権の否定など)。また農民経営の不可欠の構成要素であった農村家内工業も,日本などの機械制製品の侵入によって壊滅的な打撃を受け(綿製品など),地主制が急速に拡大していくのである。さらに20年代には,日本の米穀不足の解消(朝鮮産米増殖計画)と植民地支配の安定化のために,日本は地主制の育成を図り,日本の国家資本の貸付けを武器に,地主は小作人支配を強化するに至る。このようにして朝鮮の地主制は20年代に確立したのであるが,その特徴を列挙すれば,(1)日本向けの米穀輸出を存立基盤としている点で,日本の経済構造の一環に組み込まれた植民地的地主制であること,(2)その中核には東洋拓殖株式会社を筆頭とする日本人巨大地主が存在しており,朝鮮人も含めて大地主の比重がきわめて大きいこと,(3)地主の小作人支配が生産の全過程に及び,小作料は多くが籾納だったこともあって,小作人の経営者としての性格が剝奪されていること,などである。30年代に入ると,朝鮮総督府は地主制をある程度規制して,小作人の経済的地位の確保を図ろうとしたが(農地令の制定など),ほとんど実効をあげることができず,日本国内の地主制が衰退期に入る30年代以降も朝鮮のそれはなお伸張を続け,45年の日本の敗北まで至った。
解放後,北朝鮮ではいち早く土地改革の機運が高まり,1946年3月には北朝鮮土地改革法令が発布され,5町歩以上所有者の土地はすべて無償で没収されて,地主制は一掃された。一方,南朝鮮でも解放直後から土地改革を求める農民の声は高まったが,地主の抵抗やアメリカ占領軍のおもわくからただちには実行されず,実施方針をめぐって二転三転を経たのち,50年3月にようやく改正農地改革法が成立したことにより,有償没収・有償払下げ原則による地主制の廃止が実現された。
執筆者:宮嶋 博史
佃戸(でんこ)と呼ばれる小作農に経営をゆだねたり,長工,短工といった長期・短期の雇用労働者を使用するなど,他人労働によって自己の私有する農地から収益をあげる旧中国の土地所有者を指す。地主は1946年から53年にかけて行われた中国革命期の土地改革の過程で消滅した。小作制度のもっとも発達していた江蘇省南部の25県では土地改革直前36.19%の土地が地主の所有に帰していた。〈地主(ちしゆ)〉という語そのものは近代以前の文献に見られるものの一般的ではなく,むしろ他の呼称が普及しており,それが本格的に用いられるようになったのは1920年代の現代農民運動以来のことである。
すでに春秋末期から戦国時代,前5世紀前半から前3世紀後半にかけ,各国の卿(けい),大夫(たいふ),士などの支配階級が国君からの賜与やみずからの武力行使によって私的に土地を領有しており,商人や地方の豪民の私的大土地所有も存在した。漢代とくに後漢では,地方における有力豪族の大土地所有が発達し,自営の小経営農民の土地所有と,年長者の統率する地域の在来の共同体の存立とをおびやかした。豪族には皇妃を送り込むなどの手だてを講じて,宮廷での発言権の確保に努めるものも見られた。魏晋南北朝時代の南方では,地方の有力豪族を母体として,世襲的に中央政府の高官を出す権利を得た貴族が登場した。その中には山水の景勝を取り込んだ大荘園の所有者も出現した。この時代の北方や,南北統一後の隋・唐時代では小経営農民の土地を保護する意図をもつ均田制が施行されたが(均田法),地方豪族や高官を出す門閥としての貴族による私的大土地所有は依然として持続し,法律自身もこれをある程度まで容認していた。以上のように,唐以前の私的な土地所有者には公権力とつながりをもつ者が少なくなかったが,彼ら自身は国君,諸侯や皇帝とは異なり,公権力の掌握者ではなく,この点でヨーロッパや日本の封建領主と区別されるとして,中国の学界では彼らを地主の範疇に入れている。
8世紀の中葉以降,唐の後半になると,個人の才能を学科試験で評定して官僚を任用する科挙制度がしだいに発達し,均田制が崩壊して,土地所有を政治的・社会的地位のいかんによらず万人に開放し,おのおのの民戸の私有を承認する両税法が施行された。この時期は世襲的な官僚としての貴族が没落し,伝統的な同族結合を保持し,奴婢や部曲(ぶきよく),佃客(でんきやく)など隷属性の強い労働力を用いた土地所有によって貴族制を支えていた豪族に代わって,小作農としての佃戸を使用する土地所有者がしだいに増加する。10世紀後半に始まる宋代には,田の所有者を直接的に意味する田主(でんしゆ),小作料の取得者を意味する租主(そしゆ),財産の所有権者を指す業主(ぎようしゆ)という語が,他人労働を用いる私的所有者の一般的呼称として登場する。日本の中国史学界では,地主の形成をこの唐・宋変革期に比定している。
11世紀前半,北宋中期のある文献では,一つの県で土地を所有している家は3000戸,その約3分の1の1000戸が地主の家であった。読書人として儒教的教養を修得し,科挙試験に応ずるのは多くの場合この地主の子弟であったが,合格して高官となる者を出し,官戸(かんこ),形勢戸(けいせいこ)と呼ばれる家は100戸から200戸,あるいはそれ以上であったという。本来地主の家は社会秩序のかなめとして国家から重視されていたが,同時に地方官府とその財政を支えるための多額の金銭的支出をともなう労役,すなわち徭役(ようえき)を国家から賦課されていた(役法)。官戸,形勢戸は制度上徭役を免除されることになっていたため,この有利な条件に基づいて土地所有の規模をしだいに拡大した。11世紀後半の王安石の改革は,徭役負担を公平にするため,官戸,形勢戸にも応分の金銭を拠出させようとするものであった。農村社会の一般地主とそれを母体として生まれた官僚地主との共存,競合,矛盾は,その後も中国の地主の固有の特徴として再生産される。ところで当時の地主所有地は,稲作が飛躍的に発展した江南の場合について見ると,低湿地を堤防で囲いこんで圩田(うでん)あるいは囲田(いでん)といわれる水田を造成し,それを所有する地主,この堤防に自己の家屋,倉庫,佃戸の住居,堤防の間のクリークに沿って物資を運搬する船を備置しており,この一角は荘と呼ばれていた。この範囲をこえておびただしい土地を集積し,現地から離れて住む地主は,それぞれの荘に監荘(かんそう),幹人(かんじん)と呼ばれる管理人を配置し,小作料の徴収と国家への租税納入にあたらせた。今日の江蘇,浙江,安徽3省に合計18の荘をもつ大土地所有者もあった。13世紀後半,南宋末期には大土地所有の発達がとりわけ著しく,財政の逼迫していた国家はこれを大量に没収し,国有地としての公田を設置した。科挙制がほとんど停止されていた元代においても,モンゴル人王朝に任命された官僚の中には江南の一つの県内に93ヵ所の囲田を所有するものもあった。江南への統制の弛緩とも相まって無位無官の地主にして富民となる者も増大した。
江南では明初に太祖朱元璋による巨大地主の所有地の没収によって,国有地としての官田が多量に設置されるなど,大土地所有抑圧政策が実施されたが,15世紀前半期には官僚の家の大土地所有が早くも復活し,しだいに出身の県での発言力を強め,16世紀後半には郷紳と呼ばれるに至った。しかしながら明代の地主は宋・元の地主と比べて顕著な相違がある。江南では,一つの囲田・圩田全体にわたるような集中的所有形態はなくなって,分散した一筆一筆の土地の集積的所有形態が一般化し,1戸の地主の所有面積も,官僚地主への免役基準が10分の1から5分の1に縮小されているように,相対的には小さくなった。農村から市場町である鎮へ,さらに県城へと都市に移住して,同一の県内ではあるが生産の現場から遊離する者が増加した。都市に住む地主の中には他省,他県の商人も少なくなかったが,郷紳自身も高い経営能力をもつ奴僕を用いて商業や高利貸に従事する場合がしばしば見られた。16世紀以降,明後半期のこうした一連の事態の背景には,商品生産,貨幣経済のかつて類例を見ない発達による農村社会の変化があった。副業として手工業を営み,その製品を販売して貨幣を入手するようになった佃戸は,住居,農具,種子などを自分の力で調達するなど独立性を高め,農村にとどまった中小地主の中には雇用労働を用いて緻密な原価計算をともなう経営を行う者も出現した。土地を所有する小経営農民としての自作農の中には土地を喪失して佃戸となる者が増す一方,経営の強化に腐心して地主へと上昇する動きもまた顕著であった。読書人としての地主は,宋代以来,儒教哲学の体系化と普及に努めるとともに,詩作,書画,戯曲,小説など文化的創造の担い手でもあったが,明後半期の社会の激しい変動の中で,彼ら,とくに郷紳の中から,他の階級を圧迫・収奪するだけでなく,彼らとの共存に積極的に留意することによって既存の社会秩序の維持を目ざそうとする東林派の政治思想が形成された(東林党)。しかし,17世紀,明末清初の全国的な民衆反乱は,東林派を含む郷紳全体の権威を弱め,郷紳は大きな打撃を受けた。清朝は満族支配への反対分子の統制を強化したものの,もとより郷紳をはじめ読書人の協力を必要としており,中央での大規模な文化事業に彼らを参画させるとともに,地方政治においても彼らを重視,厚遇した。とくに18世紀以来,佃戸の小作料不払いすなわち抗租の風潮はこれまでになく広がり,郷紳地主から一般の中小地主にいたるまですべての地主の小作料徴収は,地方官府の力に依存してはじめて可能となった。読書人はこうした条件のもとで,科挙受験の準備や高い水準をもつ考証学の研究に専念することができたのである。
19世紀中葉,太平天国以降,佃戸の抗租が武装暴動をまじえてますます激しくなるなかで,地主たちは郷紳を中心に恒常的な共同の小作料徴収組織を結成し,また地方官府の司法・警察当局との連携をいっそう強めた。辛亥革命において郷紳は各省の独立に一定の役割を果たしたが,この時期における地主と佃戸の衝突はかつてない規模に達していた。1920年代から現代農民運動が開始されると,地方軍閥と結んだ地主による農民運動の弾圧が目だってくる。この動きは反面,地主が安定した社会的・経済的影響力を喪失したことを意味する。土地改革は中国の末期地主制がたどる必然的な道程であった。
なお華北の小麦・雑穀地帯では,12世紀前半に金朝がこの地を征服したころから生産力が停滞し,単位面積当りの穀物収量が華中南に比べて低いため,小作料の徴収は容易でなく,地主は多くの場合雇用労働を用いてみずからその所有地の経営に当たった。18世紀,清代半ばから小作制度も徐々に広がったが,20世紀になっても自作農の比重はなお非常に高かった。しかし華北においても土地所有規模そのものの不均等は顕著であり,1946-50年の華北における土地改革では,50-53年の華中南における場合と同様に,地主の土地および富農の小作に出していた土地が没収・再分配された。
執筆者:森 正夫
インドの農村社会では,すべての地域や時代に共通な〈地主〉という用語や概念はない。地域,時代,成立事情によってさまざまな名称,所有規模,権益をもった地主層が存在した。ここでは地主を〈国家と直接生産者との間に介在し,土地および土地に関するさまざまな権益を私有する階層〉と考え,その存在形態と変動を古代から近代にかけて通観する。
イギリス人植民地官吏ベーデン・ポーエルの《イギリス領インドの土地制度》第2巻(1892)によれば,インドの地主形成の起源は,(1)王による村落の賜与,(2)王領の分割化,(3)地税徴収人,請負人が村落を購入するなどして地主化する場合,(4)小氏族や冒険者集団が征服・定住し,最初から高位カーストの一族によって所有された村が地主村落となる場合,である。
ところで,古代インドの土地制度については,土地が国家(国王)の所有なのか,または特定の個人や集団の私有なのかが19世紀以来論議されてきた。ダルマ・シャーストラや《マヌ法典》そして《アルタシャーストラ》や仏教経典などによれば,マウリヤ朝時代には王の国土に対する所有権とは単なる象徴的意味にすぎず,実際には耕地の所有権は各耕作者に属した。しかし,王と直接耕作者との間にはいまだ地主や領主などの中間階層は存在しなかった。グプタ朝時代には土地の私有化がいっそう進み,クトゥンビンと呼ばれる階層を中心に村落の土地は個々に私有された。また,王領地の寄進を受けたバラモン,寺院などが地主化する傾向も現れた。
ムガル帝国成立前の地主の成立事情については不明な点が多いが,おそらく政治変動の過程で征服,併合,開発による所領の拡大,支配権の強化を通じてさまざまなヒンドゥー地主層が台頭したと考えられる。ムガル帝国はこれらの地主層を一括して〈ザミーンダール(土地所有者)〉と呼んだが,その中には,数十ヵ村,数百ヵ村を領有し,租税の独占的な収取権を持つのみならず,私兵による軍事権や警察権,司法権,行政権をも併せ持つ一種の土豪地主,領主にあたる大地主から,1ヵ村ないし数ヵ村を所有する小地主,一村内の地片を所有する〈手作り地主〉に及ぶ多種の地主層が含まれていた。本来〈支配者こそが唯一絶対の土地所有者〉とするムガル帝国は,実際の各地の統治,徴税にあたっては在地の有力ヒンドゥー地主層を無視しえず,彼らの一部を新たに官僚層に任じその知行地を安堵し,徴税権(場合によっては行政権,軍事権)をゆだねた。こうして生まれたのがジャーギールダール(知行地主。ジャーギール)であり,ヒンドゥー・ザミーンダールのみならずムスリム貴族や論功行賞を受けたムスリム武人層も含まれていた。これらヒンドゥー,ムスリムのジャーギールダールの中には,世襲化,在地化を強めて有力な土豪,領主となる者も現れた。また,インド北部,西部では17世紀以来,タールクダールと呼ばれる大土地所有者も存在したが,彼らは主としてラージプート族,ジャート,グージャルなどの上位カースト集団であり,パンジャーブ地方,西北部地方では彼ら有力カースト集団による同族的な共同所有村落(地主村落)を形成していた。
南インドではチョーラ朝時代にすでにバラモンたちによって運営されるブラフマデーヤ村落が形成されていた。この村落内では各地片に個別の所有権が確認されており,売買,移譲,寄進も行われた。しかもこれらの土地所有者は必ずしも直接耕作者ではなく,地主や領主の性格をもつ者であった。イスラム勢力の直接的な支配を受けなかったビジャヤナガル王国では,バラモンの地主以外に,レッディ,ベラーラ,ガウンダなどの非バラモン有力カーストの中から,数ヵ村ないし数十ヵ村の所領を支配し,水利権,徴税権,軍事権を保持する者も現れた。彼らの中でとくに有力な者はナーヤカと呼ばれ15世紀以降には数県にまたがる地域を一円支配する領主となる者もいたし,また,ナーッタム,パーライヤッカーラン(ポリガール)と呼ばれる地主・小領主層も南インドの南部に現れた。
18世紀末からインドの直接支配を目ざしたイギリス東インド会社政府は,本国の近代的な地主制の観念を導入し,かつインド古代法典に基づき〈インドでは古来,国家が最高の土地所有権者である〉という論拠に立って新たな徴税制度を実施した。その結果,旧来,土豪地主・領主層であったザミーンダールは,その行政権,軍事権を奪われ,単なる地租徴収請負人の地位に落とされた。小地主層のザミーンダールも地主としての土地所有権を奪われ,小作人に下落する者もあった(ザミーンダーリー制度)。同様の事情はインド北部,西部で有力であったタールクダールにも見られ,かつての大地主・領主層も徴税請負人,小作人に没落する者が続出した。このような没落地主,領主の不満が極度に高まり,それがインド大反乱(セポイの乱)の一因となったと考えられている。南インドではライーヤト(直接耕作農民)と規定し,彼らと直接に地税契約を結ぶというライーヤトワーリー制度が実施された。しかし,村落調査の結果,ミーラースダールと呼ばれる小経営農民から大地主に及ぶ多様な地主集団が存在すること,しかも彼らの下にはさらに各種の占有小作人や任意小作人が慣習的な土地保有権,耕作権を保持していたことが明らかになった。そのため,南インドの地主や耕作農民の実態と定義をめぐって,20世紀初頭まで論争が繰り返された。
執筆者:重松 伸司
イスラム法においては,土地はすべて信徒共同体(ウンマ)のものとされ,農民はムスリム,非ムスリムの別なくハラージュ(地租)を国家に納めることを原則とし,耕地の私有は認められていなかった。しかし現実には,カリフやスルタンから授与される分与地(カティーアqaṭī`a)や荒蕪地などの開発によって得られる私領地(ダイアḍay`a)には,所有権(ミルク)が認められ,これらの土地では奴隷や小作人などを用いた経営が行われていた。この私有地所有の伝統を基礎にして18~19世紀以降,アラブ,イラン,トルコの各地域において,広く大土地所有と小作人を用いた経営とが見られるようになる。ここではアラブ地域を中心に述べるが,トルコ地域については〈チフトリキ〉の項目を,イラン地域については〈マーレキ・ライヤト制〉の項目をそれぞれ参照されたい。
執筆者:編集部
オスマン帝国の属州に組み込まれていたアラブ地域で大土地所有の広範な形成が見られるのは,19世紀に至ってからである。もっとも,その発生過程,そこでの土地経営形態は,水資源の存在・管理形態,農業の集約度,商品作物の浸透度,中央権力のあり方,遊牧民社会の影響等々の自然・社会・経済・歴史的環境の違いによって,ともすれば一括して論じられることの多いアラブ地域内においても,相当な変異が見られた。
シリア,パレスティナ,イラク地方については,その多くの地域において,直接耕作者はムシャーmushā`と呼ばれる,ある種の土地割替を伴う共同体的耕作慣行のもとで土地耕作にあたり,その上に,徴税請負権を中心とした地方有力者,遊牧民首長など,いわば領主階層の諸権利が重ね合わされていた。19世紀に入り商品作物栽培の普及,近代的土地所有観念の導入と相まって,特定の階層への土地集積現象が見られたが,その過程はおおむね,それまでの旧領主階層が近代的大地主として,共同体的慣行のもとで土地耕作にあたっていた直接耕作者をまるごと小作人あるいは農業労働者として再組織するという過程であった。第2次世界大戦後,土地改革の試みもなされたが,それらはいずれも微温的なもので,それまでの地主・小作人関係を根本的に変革するようなものではなかった。
これに対し,早くからオスマン帝国からの実質的独立をなし遂げていたエジプトは,まったく独自の土地制度史を歩んだ。19世紀前半,時の権力者ムハンマド・アリー(エジプト総督,在位1805-48)は,徴税請負制のもとでエジプト農村社会を支配していた徴税請負人階層を一掃し,新たに土地国有制とも呼ばれるべき土地制度をしいた。この制度を一言で述べるならば,土地を公共財として信徒共同体(ウンマ)の共同所有とみなすという,いわゆるイスラム的土地国有原則を根拠に,国家権力と直接耕作者との間に介在する重層的諸権利を整理し,直接耕作者の労働力を国家の一元的支配・管理のもとにおこうとする制度であった。そのため全国的検地,直接耕作者の特定耕地片への帰属・登録,土地処分や離村の禁止を通しての農民の土地繫縛,村役人としての村落有力者層の組織化,行政・徴税末端単位としての村落の再編成等々の一連の措置が講じられた。したがって19世紀後半以降,エジプトにおいても大土地所有の広範な形成が見られたが,それは離村者の多発,商品作物・綿花栽培の普及,西欧列強によるエジプト国内市場開放の圧力等々の国内的・対外的要因に起因するこの土地国有制の破綻に,その直接的起源を求めることができる。そして,当時の土地集積は,おおむね以下の三つの過程を通してなされた。
第1は,荒蕪地の授与である。国家は,村落所属耕地の周辺に存在し,通年灌漑体系の整備とともに可耕地となっていった荒蕪地を,開墾奨励という目的から,トルコ人,チェルケス人らの支配階層(ザワートdhawāt層),遊牧民首長らに,所有権上あるいは税制上の特典をつけて授与した。こうした土地授与によって被授与者に与えられた権利は,その当初にあっては,荒蕪地開墾という国家への義務履行を果たす限りにおいて認められた一つの特権にすぎなかったが,イスラム的土地法体系に代わる近代的土地法体系への移行の過程で,土地私有権へとすりかえられ,ここに,土地被授与者が近代的地主層として台頭してくる。
第2は,徴税請負制の復活である。広範な土地税滞納に直面した国家は,所定の土地税を支払えず,税滞納が累積していた村落の所属耕地を,滞納税および正規の土地税納入を条件に,ザワート層,村落有力者層などからなる徴税請負人の管理にゆだねるようになる。当初,徴税請負人に与えられた権利は,徴税業務にまつわる権利にすぎなかったが,近代的土地法体系整備の過程で,土地私有権と同義とみなされるようになり,ここに,徴税請負制を介した地主層が出現した。
そして,第3は,一般農民保有地における個別的土地集積である。農民の土地繫縛政策の無効さを悟った国家は,この政策を放棄し,従来の労働力管理による農民直接支配から土地支配を媒介とした農民間接支配へとその農民政策を転換していく。その一環として,一般農民に対して,土地処分権,相続権の成文化を含む,大幅な所有権上の諸権利を与え,その結果,農民の土地に対する権利は土地私有権としての法構造をもつに至り,ついには近代的土地法体系の完備を待って,近代的土地私有権と規定されるに至った。そのため,一般農民保有地においても特定階層への土地集積現象が見られるようになったが,こうして台頭した地主層の核心をなしたのは村落有力者層であった。
こうして,19世紀後半以降,以上三つの過程を通して近代的地主層が出現したが,それを大きく類別すれば,ザワート層と村長(ウムダ`umda)を中心とする村落有力者層とからなっていた。この二つの階層は,利害関係を共有することもあったが,水の分配,収穫物の販売,労働力の確保などにおいて対抗し合っていた。というのも,前者が,村落所属耕地の周辺に存在したかつての荒蕪地に展開された農場を,イズバ`izbaと呼ばれる居住区に住む農業労働者的小作人を使って経営したのに対して,後者は,従来の村落所属耕地において,共同体的耕作慣行を再編成した地主・小作人関係の枠内で土地経営にあたっていたからである。そして,この両者は,それぞれの圧力団体,さらには政党を組織し,地方,中央における有力者として,その政治力を競い合った。なお,1952年のエジプト革命後に実施された土地改革において,主たる対象とされたのは,前者ザワート層からなる大地主層であった。
執筆者:加藤 博
中世末期に領主制が弛緩して農民の手もとにある程度の剰余が残るようになったとき,富農の一部や都市の商人などが土地を集積して地主化し,その所有地を小規模な小作農に貸し出すようになり,地主制が形成された。このような地主制は,ほぼ16世紀から18世紀にかけて,とくにフランスなどで顕著に見られた。イギリスでは,農業の資本主義化が急速であったから,地主制は顕著でなく,17,18世紀のうちに近代的土地所有が成立し,北フランスでも18世紀に地主制から近代的土地所有への移行が見られた。これに対して,南フランス,イタリア,アイルランド,東欧の一部など,相対的後進国や後進地域では,農業の資本主義化が進まず,19世紀にも地主制が存続した。また,地主が農業労働者を雇用して大規模な近代的農業を営む資本主義的大借地農業経営者(借地農)に土地を貸し出し,後者の実現した利潤の一部分を地代として収得する場合もあったが,これは地主制と呼ばず近代的土地所有と呼ぶのが通例である。
ところでヨーロッパの地主制の歴史的性格については,これを封建的土地所有の再編形態とする見解と,封建的でも資本主義的でもない過渡的土地所有形態とする見解とが対立していたが,近年では,地主制を,資本主義的世界体制の形成・確立過程において後進国や後進地域に現れる特有の土地制度の一つとして理解しようとする傾向が強まっている。
→小作制度 →土地改革
執筆者:遅塚 忠躬
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
農地などの土地を貸し付けて得た地代を中心に生活する者をいう。地主は、古代以来現在に至るまで存在するが、その存在の仕方は各時代において異なる。封建社会では、支配階級を構成する領主が地主(封建的土地所有者)として最高の領有権をもち、農奴から地代を収取した。封建制から資本主義へ移行するのに伴い、地主的土地所有は近代的土地所有へと転化し、地主の存在も社会のなかで変化するが、日本においては、むしろ明治維新後の近代社会のなかで地主的土地所有が発展したところに大きな特徴がある。
日本の耕地所有者は、戦前を通じてほぼ500万戸存在したが、そのなかから自作農と自小作農を除き、なんらかの形で土地を貸し付ける地主の構成は、1000町歩以上を所有する巨大地主を筆頭に、1町歩未満を貸し付ける膨大な零細地主に至るまでのピラミッド型をなしていた。
地租改正から松方デフレへと至る経済変動のなかで多くの農民や中小地主が没落したが、それらの土地を集積した地主のなかからは、1000町歩以上も所有する巨大地主が現れた。山形の本間家、宮城の斎藤家、新潟の伊藤家・市島家などがその代表である。この巨大地主のもとには、さらに50町歩以上を所有する大地主が連なり、1924年(大正13)における農商務省調査によれば巨大地主・大地主が全国に3163戸存在した。このうち北海道が787戸でもっとも多く、ついで東北が753戸であった。自村を越えた広大な土地を所有するこれらの地主は、不在地の管理のために中小地主や有力小作農を支配人として配し、高率高額小作料の安定的な収取を図った。こうして巨大地主・大地主は、中小地主―零細地主と連なる地主的ヒエラルヒーのトップに位置し、農村社会の支配権を掌握していた。彼らはまた、貴族院多額納税議員や衆議院議員として天皇制国家を政治的にも支える役割を担った。
ところで、小作料収入だけで生活ができるためには、3~5町歩の土地が最低必要であった。1908年(明治41)の5町歩以上所有者を全国でみると17万戸弱であり、そのもとには小作料収入だけでは生活不可能な零細地主が圧倒的に存在していた。零細地主には、自らも耕作をする耕作地主と他の職業を兼ねる不耕作地主とがあり、彼らはそれぞれ約100万戸ずつも存在していたと推定される。なかでも、概して1町歩未満を貸し付け、自らも農業経営に従事する耕作地主は、その多くが在村地主として存在しており、農村社会の実質的リーダーとしての役割を担っていた。
このような構成をとる日本の地主も、第一次世界大戦後には小作争議や経済変動のなかで徐々にその地位を後退させた。とりわけ小作料収入に寄生する地主の後退が著しく、戦時農業統制のもとでは、食糧増産の必要性から地主的土地所有への制限が強化され、地主の地位の後退がさらに進んだ。第二次大戦後の農地改革は、これらの地主の命運を最終的に閉ざした。
[大門正克]
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…〈じしゅ〉とも読み,広い意味では土地の所有者を指す。地主はこうした意味では階級社会の発生とともに存在したが,農業による生産を主とする時代になって,農地の所有は大きな意味をもち,自己の所有する農地を他人(小作人)に貸与・耕作させ,その代償として地代(小作料)を取り,自己のおもな生活収入とする階層が生じ,これを一般に〈地主〉と呼んだ。また自己の所有する土地を耕作する自作農と区別して,寄生地主ともいう。…
…老若の組織を持ち,番頭などの地位を持つおとな(老,乙名)に指導されるこうした自治的な村落は,年貢未進を立て替え,共同の仏神事,用水・山林等の管理を行い,代官の下で百姓請(地下請)の形で年貢を請け負ったが,一揆・逃散を繰り返すうちにしだいにその力を強め,室町期には未進年貢と借銭借米の破棄を要求する徳政一揆の基盤となっていった。 一方,この間にも荘園支配者による検注は行われ,新田・隠田の掌握の努力も放棄されたわけではなかったが,年貢・公事は早くから固定化する方向にあり,名主が地主(じしゆ)として加地子を収取することも鎌倉期からみられた。個々の田畠の名主職に付随するこうした加地子得分(片子(かたこ)ともいう)の売買もさかんに行われ,名主の下での耕作者,作人も加地子の一部を取るようになると,作人職,作職(さくしき)も現れてくる。…
…家屋敷は,イエの基礎となる家屋と,その敷地とからなるが,家持はこの両方を同時に所持している。これに対して,自分は他所に住み,家屋敷を有する者を家主,敷地のみを有する者を地主という。また,家屋敷の全部または一部を借りて居住する者を借家・店借(たながり),敷地を借りて家屋は自分で有する者を地借とよぶ。…
…江戸時代の土地政策。均田とは土地を平等に分けて均等にすることであり,〈おのれ田なくて,豪民の田をかりて田つくる……民みなおのが田をつくりて,年貢をひとかたに出すやうにぞあらまほしき,それは均田の法にまさることあらじとぞ思ふ〉(中井履軒《均田茅議》)と地主的土地保持の改革は近代以前にも思考された。均田政策とよばれるものは1664年(寛文4)対馬藩の寛文改革にもあるが,大々的に地主の土地処分と分給を行ったのは佐賀藩である。…
…18世紀半ば以降,小商品生産の展開に伴って成長していった村方地主をいう。経済的には作徳地主として小作人から小作料をとり,買占め商人として前貸しによって小生産者の生産した商品を手に入れ,みずからも生産者として年季奉公人を使役しながら,穀作とともに商品生産を行っているという,三つの性格をもっている。…
…
【日本】
日本史研究において使用されている小作制度の意味は,江戸時代中期以降,農地改革まで続いた耕地貸借関係で,近代の農地制度を特徴づけていた制度のことである。なお耕地以外の貸借関係では,山小作・牛馬小作という言葉もあるが,ここでは狭義の小作,すなわち土地所持者たる地主が生産者たる農民(小経営)に耕地を貸し付けて,地代たる小作料をとるという形態に限定しておきたい。小作制度が問題となるのは,それが日本の近代農業を規定し,かつ特徴づけている農地制度だからである。…
…しかし18世紀前半(享保末年以降)に米価が下落するという事態に直面し,ここに幕初以来の在方酒造業の禁止という祖法を捨て,農村酒造業を積極的に奨励するという政策転換が打ち出された。これを契機に,農村では地主酒屋が酒造業を営むようになった。以後近世後期には商業的農業の展開と農村工業の発展に支えられて,地主制の進展とともに小作米を原料とする地主酒造業が広範に発達していった。…
…地士とも表記される。研究史上では,土豪・上層名主(みようしゆ)・小領主・中世地主などともいわれ,とくに一揆の時代といわれる戦国期の社会変動を推進した階層として注目される。中世社会の基本身分は侍・凡下(ぼんげ)・下人(げにん)の三つから成っていたが,中世後期の村落でも〈当郷にこれある侍・凡下共に〉〈当郷において侍・凡下をえらばず〉(〈武州文書〉)というように,侍と凡下は一貫してその基本的な構成部分であった。…
…中国文明の歴史は,南進の歴史といってよい。南船北馬,南人は軽薄,北人は素朴,南方は地主小作関係が多く,北方は自作農が多い,南方の士大夫は晩年は仏教にふけり,北方の士大夫は道教にふける,など南北を対比したいい方は無数にある。辛亥革命,人民革命の革命家がほとんど南方(とくに浙江,湖南,広東の3省)出身であったことはよく知られている。…
…また検地帳にも登録されない農民がいたが,彼らは〈帳外(ちようはずれ)〉と呼ばれ,屋敷地も耕作権も持たない最も隷属度の高い農民であった。 なお地域によっては,地主の別称として名請人という語を使う場合があった。【松尾 寿】。…
…それは乳・肉類の消費が少ないという日本人の伝統的な食生活慣行にもよるが,この畜産が本格的に発達してきたのは1950~60年代以降のことである。 第2は社会経済的な特徴であって,(1)第2次大戦以前に日本農業を支配してきた地主制が,戦後の農地改革によってほぼ完全に一掃され,農家のほとんど全部が自作農になったことである。かつては耕地の半ば近くが地主所有の小作地であったが,今日ではその大部分が自作地となり,農家は自分の所有地で農業を営む自作農となっている。…
…村を単位にした生産・生活の一環として,小農たる百姓の生産・生活が保障されている。 小農経営が確立すると,初期本百姓の系譜を引く上層の百姓の農業経営は,隷属的労働への依存を断ち切られて,年季奉公人を雇用する地主手作(てづくり)経営へと移行する。年季奉公人は小農=百姓の単婚小家族から放出される。…
…しかし現実には,明朝創建以後,一応平和状態が継続すると,元末の戦乱期に衰退した流通経済は活気をとり戻し,ことに北京遷都は,流通経済促進の大きなてことなった。明代の社会において力をもったのは,官僚層とその母胎としての地主層である。明朝ははじめ徙民(しみん)(移民)などによって自営農を育成し,農業生産を充実させる政策をとり,地主に対しては抑圧的な政策をとったこともあるが,支配機構を構成する官僚の大多数が地主層の出身であるから,結局は地主を容認し,さらには優遇せざるをえなかった。…
※「地主」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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