明治初年に行われた土地制度・租税制度の改革をいい,この時期の明治政府の中心的政策の一つをなす。
1871年(明治4)7月の廃藩置県直後から,廃藩置県という権力の集中に照応した租税改革への動きが,大久保利通,井上馨らの伺・上申の形で,大蔵省を中心にして本格化する。その動きの基本線は藩体制の解体を前提にし,領主的土地所有を否定して私的土地所有権の確認に基づく租税改革を目ざすものであった(すなわち,地所永代売買解禁→私的土地所有権の確認→地券交付→租税賦課により旧貢租(現物形態)を地租(貨幣形態)として集中統一すること)。この基本線に基づき,71年9月田畑勝手作許可,12月東京府下市街地への地券交付・地租賦課,72年2月地所永代売買解禁,売買譲渡の土地への地券交付,7月一般私有地への地券交付の拡大(いわゆる壬申地券交付)といった一連の措置が,あいついで実施された。これらの措置は,やがてきたるべき地租改正への布石をなすものであった。この基本線は,領主階級の地主への転化の道を開くことを意図した分一税法案などの抵抗をうけながらも,やがて地租改正法案として結実した。そして同法案は,73年4月からの大蔵大輔井上馨の招集した地方官会同での審議・議決をへて,同年7月28日太政官布告第272号として公布された。
地租改正法は,上諭,地租改正条例,地租改正施行規則,地方官心得書からなる。その基本的内容は,(1)土地収益から地価を算定すること,(2)地租は地価の100分の3とすること,(3)豊凶にかかわらず増減租しないこと,(4)物品税が以後200万円以上になったとき,やがては地価の100分の1とすること,である。すなわち,旧来の石高制に基づく現物貢租にかわって,地価に基づく金納定額地租を収取しようとするものであった。ここから地価算定が地租改正の中心的位置を占めることになる。この地価算定の方式が検査例(収穫米から算定する第1則と収穫米の68%にあたる小作米から算定する第2則からなる)とよばれるものである。検査例は,土地収益の資本還元という近代的な形式をとりながらも,それはたんなる形式にすぎず,種肥代・利子率などの算定要素の数値は,なんら現実的根拠をもつものではなかった。それらは,〈旧来ノ歳入ヲ減セサルヲ目的トシ〉て決定されたものである。この〈目的〉は,地租以外にたよるべき収入源のない当時の状況のもとでは,地租改正を貫く一個の至上命令となった。検査例はこの至上命令を実現するための方式であった。こうして,検査例により算定された地租は,旧貢租水準を維持・継承した,利潤の成立を許さぬ高額地租とならざるをえず,その収取が目ざされたのである。以上のように,地租改正は幕藩制的領有権を否定し私的土地所有権を確認した土地改革であると同時に,それを通じて高額地租の収取を目ざした租税改革であった。
以上により開始された地租改正事業は,検査例の非現実性のゆえに種々の障害にぶつかることになった。当初,地主に実際の売買(見込み)地価を申し立てさせ,それを検査例でチェックして地価を決定するという方針がとられていた。この場合,売買地価と算定地価の一致が想定されているが,この一致は本来ありえないものである。この方針をとるかぎり,減租が予想されるに至った。そのため方針が修正・転換されていくことになる。すなわち,売買地価への依拠を否定し,検査例第1則を固守してその算定地価を強制していく方向が,それである。他の算定要素を固定してもっぱら収穫米(反当収穫)の操作によって,旧貢租水準の維持・継承を保証するように地価を算定し,その地価=地租を上から一方的に押しつけていこうというのである。こうして,予定地租の押しつけの方式として,地位等級体系を媒介にして県→郡→村→一筆という転倒した順序で,予定地租を配賦する方式が打ち出されてくる。1875年7月の地租改正条例細目は,その方式の確立を示すものであった。こうした方針の転換とともに,75年3月設置の地租改正事務局の強力な統轄のもとに,各府県での地租改正事業は本格化していく。そのなかで,政府方針からの逸脱は政府の介入によって訂正され,政府方針は全面的に貫徹していくことになった。この結果,各府県での地租改正事業は,予定地租の上からの強力な押しつけの過程として,種々の暴力的局面にいろどられつつ展開された。それは,この増租(の押しつけ)に反対して結集した地主・農民のはげしい反発・抵抗を全国各地で引き起こすことになった(地租改正反対一揆)。政府は,この抵抗に対して,とくに76年末の三重,茨城での大規模な一揆により77年から地租率を100分の2.5に引き下げるなどの譲歩を余儀なくされながらも,他方では土地買上げ処分をはじめとした処分の強化で対処していった。地租改正事業は80年にほぼ終了し(山林原野を含めての完了は82年7月),81年6月をもって地租改正事務局は閉鎖された。以上のような政府方針の貫徹により,地租率の引下げがあったとはいえ,その全国的改租結果において,地租改正の目ざした旧貢租水準の維持・継承は,東日本での増租傾向と西日本での減租傾向といった平準化作用を含んで,ほぼ実現された。
地租改正は,それと並行して資本主義の育成が遂行されていくこの段階にあっては,本来の意義にとどまらず,さらに原始的蓄積政策としての意義をもつものとなった。第1に,地租改正は旧貢租水準を継承した高額地租の収取を目ざし,その実現により明治国家の財政的基礎を確立せしめた租税改革であった。この財政的基礎の確立は,天皇制国家機構の構築を保証するとともに,さらに資本創出につながる秩禄処分,殖産興業政策の展開をも保証するものであった点で,地租改正は資本創出政策としての意義をあわせもつものであった。第2に,地租改正は幕藩制的領有制を否定し私的土地所有権を確認した土地改革であった。この私的土地所有権の確認は,小作農民を所有権者から排除することによって,幕藩制下において一定の展開をみせていた地主的土地所有・零細農耕の構成を基本的にそのまま容認したものであった。しかも高額地租の重圧は,その私的土地所有の経営的発展を保証するものとはならず,農民経営を没落に追いやるものとなった。こうして地租改正はその後の過程のなかで,一方での没落農民の小作農民への転化と他方での地主的土地所有の拡大,すなわち地主制の創出・成立への道を開くものとなったのである。その過程はとくに明治10年代後半,松方財政下のデフレ(いわゆる松方デフレ)と増税によって加速されて急激に進行した。その結果,地主制は明治20年代初めに全国的体制として成立し,地主階級は,支配階級として天皇制権力の階級的基礎をなすに至った。しかもこの地主制の創出過程は,さらに賃労働創出過程の一環でもあった。すなわち地主制下の小作農民は,高率小作料の負担により農業だけで生計を維持することが困難であり,生計補充のためにみずからまたその子女を出稼ぎ労働力として放出することを余儀なくされたのである。これにより,地租改正は私的土地所有権の確認を通じて地主制を創出・確認した政策であるとともに,さらに出稼ぎ型の生計補的賃労働という特殊日本的賃労働を析出した賃労働創出政策としての意義をもつものでもあった。以上のように地租改正は,近代天皇制国家と日本資本主義の成立にとって,まさに基底的な意義をもつ政策であったのである。
執筆者:近藤 哲生
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1873年(明治6)以降明治政府が実施した土地・租税制度の改革。これによって近世の石高(こくだか)制による貢租制度は廃止され、私的土地所有を前提にした定額金納地租が課せられることになった。この改革の準備段階として、政府は、72年に土地売買を解禁し、土地所有者への壬申地券(じんしんちけん)交付を始めたが、この事業のなかばで、73年7月28日地租改正法を公布した。結局、壬申地券調査の結果は、山口県など一部の例外を除いて、改租事業に用いられなかった。地租改正法は、旧来の田畑貢納法を全廃し、かわりに土地の代価(地価)に従い、その100分の3の地租を徴収し、また土地に係る郡村入費は地租の3分の1以内とすることを定めた。そして、地価は、その土地1年の収益を各地慣行の利子で資本還元して求めるとの原則を示した。しかし、必要経費(種子・肥料代)を一律に収穫の15%と定め、利子を自作地は7分以内、小作地は5分以内に制限するなど、地価を高める措置が設けられている。改租の実施方式は、各地の現状に基づき地価を定めようとした初期の方式から、政府の予定平均地価額を目途に、管下各地の地価を均衡をとって定めてゆく地位・村位等級組立法へとしだいに変化している。改租作業は、壬申地券調査の結果にかかわりなく、一地ごとに土地丈量を行うことから始められた。ついで、村ごとに村位が、村内では一筆(いっぴつ)ごとに地位等級が、農民代表の協議で定められ、その等級に応じて収穫高が決定された。この際、地方官が、府県平均地価が予定額に達するよう指導干渉を行っている。そして決定した収穫額から所定の穀価、利子を用いて地価を算定した。政府は、新地租を旧租より減じない方針で臨み、ほぼその目標を達成した。しかし、76年、和歌山県、茨城県、三重・愛知・岐阜・堺(さかい)県下で地租改正反対の三つの大規模な農民騒擾(そうじょう)が起き、政府は、翌年から地租率を100分の2.5に引き下げる譲歩を行った。改租事業は、耕宅地では80年末に終結し、山林原野も翌81年6月にほぼ終了し、75年3月、事業の早期遂行を目ざして設立された地租改正事務局も81年6月に閉局した。改租に対する農民の反抗は、農民暴動のほか、嘆願上申運動、出訴、改租承諾書(村民請書)への調印拒否など種々の手段でなされたが、事業終了後も、農民の減租の要求は自由民権運動に引き継がれていった。一方、政府は地租改正によって高額地租を確保し、財政的基盤を確保することができたのである。
[丹羽邦男]
『福島正夫著『地租改正の研究』(1962・有斐閣)』
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
明治政府が実施した土地・租税制度の改革。従来の農民的土地占有権を所有権として公認し,土地所有者に地券を交付するとともに,公定地価の3%を地租として課税。1873年(明治6)7月旧貢租水準の維持,土地所有権の公認,地租金納制,地租負担の公平などの近代的な改革理念をもりこんだ関係法令が公布され,実地調査が開始された。地押丈量(土地測量),等級・収穫量調査,地価算定などが実施され,耕地・宅地は79年,山林・原野を含め81年に終了。農民的土地所有,地主的土地所有という資本主義社会の基礎となる一元的・排他的な土地所有権が公認され,税負担の公平と租税金納制が実現した。これにより,日本における近代的な土地制度と租税制度の根幹が体制的に確立した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…字付帳も作成され,検地帳や名寄帳にも耕地・宅地地割一筆ごとに字名が記入された。 明治に入り,《地租改正要略》によると,〈字〉は〈あざ〉と訓み,その名称はあたかも町村名のごとく行政地名として各種書類に正式に用いられた。町村内の地理上の一区画を有し,その区画も名称も古くからの慣例として通用してきたものが多い。…
…その場合1~2耕地程度の小規模であれば廻り検地(惣まわりを絵図にうつし反別を改める方法)ですませた。明治政府は1873年公布の地租改正条例に基づいて,それまでまちまちであった物納貢租を全国一律の金納地租に統一・改定する政策をすすめたが,改正後も開墾・地目変換などによって帳簿と実地とのくいちがいが多く,大蔵省は85年より4ヵ年の歳月をかけて大規模な地押調査を行い,土地台帳を完成させた。【松尾 寿】。…
…
【租税の歴史】
明治初期以来の租税収入の変遷をみると,日本の産業構造の推移がそのまま反映されていることがわかる。表1でみるとおり,地租は1873年(明治6)に地租改正令が公布される以前においても以後においても,国税収入面で明治財政を支える根幹となった税目である。同時に,地租改正は明治経済の〈離陸〉に必要な収入を確保したばかりでなく,改正により全国的に統一された近代的税制を確立した点も評価されねばならない。…
…明治初年の地租改正により土地に賦課されることになった租税をいう。現物形態をとった旧貢租にかわって,地租は貨幣形態をとり,土地収益から算定された地価の100分の3とされた。…
…明治政府は1873年以来,従来の物納貢租の制度を改め,全国画一の定率金納の地租制度を施行したが,これに対して各地の農民は反対闘争を起こした。この闘争は,政府・府県による地租改正実施の進行事情,実施の段階,実施方法の差異と,各地域の政治的・経済的諸条件によって異なった形態と特徴をあらわす。ここでは改租の段階に応じて反対闘争に四つの段階を設けて記述する。…
…各種の加工原料作物が集中栽培される地域では,その加工の形で農村工業も発展していく。
[近代]
(1)開港の影響 明治以後の農業は外国貿易の影響と,地租改正によって土地所有が処分自由になったことなどによって変わっていく。前者は江戸時代農業発展の中心となった加工原料作物の多くのものを衰退させ,養蚕業,製糸,茶栽培,製茶などを発展させる。…
… 1820年代以後の大坂周辺農村で形成されていた地主・小作関係は,土地が売買可能な財産であることを実質において備えていた。地租改正は,そのような土地所有権を法律的に認めた。質地地主の段階にとどまっていた関東や東北においては,質入地は質期間が過ぎても,ながく所持名義人を変更しない慣習があったが,地租改正の過程で質権者に,大坂周辺で実質において成立していた土地所有権と同じ内容の所有権を認めることによって,土地所有の移動を活発にし,質地地主の土地所有の内容を変えていった。…
…地借・店借のものたちはそれを負担せず,町政・公事にも関与しえず,家持・地主と地借・店借とは身分的に区分されていた。地租改正に先だって,1872年(明治5)いちはやく東京市街地(町地(まちじ),武家地)に地券が交付され,沽券税法の施行をみた。これは,町地(町屋敷,拝領地など種々の土地を含むが,その主要部分は町屋敷),武家地には旧幕時代,さまざまの特典が与えられていたので,それを統一税制下の課税対象に組み込むための措置であり,それを迅速に果たしえたのは,町屋敷には早くから売買・質入れが認められて所有権が成立していたからである。…
※「地租改正」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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