坂上田村麻呂(読み)サカノウエノタムラマロ

デジタル大辞泉 「坂上田村麻呂」の意味・読み・例文・類語

さかのうえ‐の‐たむらまろ〔さかのうへ‐〕【坂上田村麻呂】

[758~811]平安初期の武将。延暦13年(794)蝦夷えぞを征討し、同16年征夷大将軍となった。その後、胆沢城いさわじょうを造営し、蝦夷地平定に功を残した。京都の清水寺の創建者と伝えられる。

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精選版 日本国語大辞典 「坂上田村麻呂」の意味・読み・例文・類語

さかのうえ‐の‐たむらまろ【坂上田村麻呂】

  1. 平安初期の武将。征夷大将軍。渡来人阿知使主(あちのおみ)の子孫。苅田麻呂の子。桓武・平城・嵯峨の三天皇に仕え、蝦夷平定や薬子(くすこ)の乱鎮定に功を立てる。京都清水寺を建立。能楽、操浄瑠璃(あやつりじょうるり)歌舞伎などにとりあげられている。天平宝字二~弘仁二年(七五八‐八一一

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改訂新版 世界大百科事典 「坂上田村麻呂」の意味・わかりやすい解説

坂上田村麻呂 (さかのうえのたむらまろ)
生没年:758-811(天平宝字2-弘仁2)

平安初頭の武将。犬養の孫。苅田麻呂の子。坂上氏は応神朝に渡来したという阿知使主(あちのおみ)を祖先とし大和国高市郡に蟠踞(ばんきよ)した倭(東)漢(やまとのあや)氏の一族で,武術に秀でていた。田村麻呂も〈赤面黄鬚,勇力人に過ぐ,将帥の量あり〉といわれた。785年(延暦4)従五位下,787年近衛少将となり,以後越後守などを兼任していたが,791年に征東副使の一人として蝦夷との戦いに加わった。数年にわたる戦闘で功をあげ,795年従四位下,翌年陸奥出羽按察使(あぜち)兼陸奥守,さらに鎮守府将軍を経て,797年征夷大将軍に任じられた。801年胆沢(いさわ)を平定し,功により従三位勲二等に叙され近衛中将となった。802年胆沢城を築城し,鎮守府多賀城から移し,翌年志波城を築城するなど古代蝦夷経営の成果をあげ,804年再度征夷大将軍に任じられた。しかしその経営は〈往還の間,従者限りなし。人馬給し難く,累路費え多し〉と田村麻呂の没時の伝にも見えるように,大規模な遠征は多くの問題を残し,805年の徳政の論争によって,平安京造営とともに征夷が中止された。その後の田村麻呂は,中納言,中衛大将,右近衛大将,兵部卿,大納言などに任じられ,正三位まで昇ったが,811年粟田別業で没した。54歳。女の春子は桓武天皇の後宮に入り,葛井親王を生んでいる。
執筆者:

田村麻呂が東山で僧延鎮(もと賢心)と会い,力をあわせて観音像を作り,仏殿を建ててこれを安置し清水寺と号したことは《清水寺縁起》(伝藤原明衡作),《今昔物語集》,《扶桑略記》などに見え,中世に入っても多くの書物に散見する。《吾妻鏡》は田谷窟(たつこくのいわや)(現,達谷窟)について述べる中に〈田村麿・利仁等の将軍〉が蝦夷征伐のとき,敵主悪路王(あくろおう)・赤頭(あかがしら)たちがこの窟に柵を構えたとし,のち,田村麻呂が窟前に堂を建て西光寺と号して,鞍馬に模して多聞天毘沙門天)像を安置した(文治5年(1189)9月28日条)と伝える。《鞍馬寺縁起》に藤原利仁が鞍馬の毘沙門天の加護で下野国の群盗を平定した由が見えるから,《吾妻鏡》の記事は田村麻呂伝承が利仁伝承や鞍馬の毘沙門天信仰とも交渉をもっていたことを示している。《元亨釈書》延鎮伝は田村麻呂が清水寺の勝軍地蔵・勝軍毘沙門の加護により奥州の逆賊高丸を討ったとし,《神道集》巻四や《諏方大明神画詞》などは諏訪明神の神徳によって蝦夷の長〈悪事(あくじ)の高丸〉または〈安倍高丸〉を平定したとする。《義経記》巻二に〈坂上田村丸,これ(兵法一巻之書)を読み,悪事の高丸を取り,藤原利仁これを読みて,赤頭の四郎将軍を取る〉と見え,謡曲《田村》は清水観音の加護で鈴鹿山の悪神を退治したとし,同《鈴鹿》は田村麻呂が鈴鹿姫の手引きで赤頭の四郎将軍高丸という鬼神を退治したとする。幸若舞《未来記》に〈坂上の利仁九年三月に(兵法三略之巻を)習ひ敵を鎮め給ひけり。さてその後に田村丸十二年三月に習ひ,奈良坂山のかなつむて,鈴鹿の盗人,かかる逆徒を平げ〉とあり,御伽草子《田村》や《鈴鹿》ではきわめて複雑な物語となる。すなわち,藤原俊重将軍の子俊助が大蛇と契って生まれた子が俊仁で,俊仁は近江国みなれ川の大蛇や陸奥国たか山の悪路王を退治する。俊仁が陸奥国はつせ郡田村郷で賤女と契って生まれた子が田村丸で,元服していなせ五郎阪上俊宗といい,大和国奈良坂のりやうせんという化生の者を討ち,鈴鹿御前と契り,その手引きで鈴鹿山の鬼神大武丸(おおだけまる)を退治するという物語である。御伽草子《立烏帽子(たてえぼし)》は,阪上田村五郎利成が鈴鹿山の化生の女盗立烏帽子の手引きで,その夫阿黒王(あぐろおう)を退治したとする。《田村》と同工の物語に奥浄瑠璃《三代田村》があり,地名などに地方色が濃く出ている。

 東北地方には延暦・大同年間(782-810)に田村麻呂が創建したと伝える寺社がきわめて多い。なかでも観音堂にそれが多く,神社・毘沙門堂がこれに次いでいるが,それらの縁起はたいてい切畑山の悪路王,大石嶽の大石丸,米木山の大滝丸などの鬼神退治譚を伴っている。これらからすると,この伝承は清水寺や鞍馬の毘沙門天の信仰が東北地方にひろまる過程で,地方の山岳信仰と結びついて形成されていたものと考えられる。日本には祇園武塔天神の悪王子のように悪霊鬼神を若宮・末社などとして神にまつり,本社の大神に祈願して,その力で悪霊鬼神のたたりを防ごうとする風習があり,悪路王伝説にもこのような考えがその背景に隠されていると考えられている。また悪路王のアクは,アコヤ・アコオウ(ともに景清伝説に登場する遊女の名)にも系統を引く語で,本来,神婚譚,神誕生のわざおぎに参与した巫女の名ではなかったかと推定され(柳田国男説),立烏帽子という名にも巫女の介在を思わせる。いずれにせよ,田村麻呂伝説の発展と展開の背景には村落生活と関連させながら,神の恩寵を説く遊行の宗教者の活動があったものと思われる。また,《日本後紀》などに,田村麻呂は死後,勅命によって立ちながら甲冑兵仗を帯して葬られたと伝え,早くから国家に非常のあるときには鳴動すると考えられていた(《田邑麻呂伝記》など)。その塚は,平安開京にあたって皇城鎮護のために土偶を埋めた東山の将軍塚(《平家物語》など)と混交され,田村麻呂の塚とされる将軍塚は各地にある。この伝承は賽(さい)の神的な色彩を有しているが,同音の勝軍地蔵の信仰ともあいまって,その伝承の流布には愛宕聖の活躍や陰陽の徒の力もあずかったものと考えられている。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「坂上田村麻呂」の意味・わかりやすい解説

坂上田村麻呂【さかのうえのたむらまろ】

平安初期の武将。父の苅田麻呂(かりたまろ)は藤原仲麻呂の乱等に武功をたてた。791年征夷(せいい)大将軍大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)の下で征東副使(せいとうふくし)として蝦夷(えみし)を討ち,次いで征夷大将軍となった。802年胆沢(いさわ)城を築き鎮守府(ちんじゅふ)をここに移し,蝦夷平定に大きな功績を残した。
→関連項目岩手[県]蝦夷地桓武天皇黒石寺篦峯寺志波城多賀城ねぶた平泉文室綿麻呂明通寺陸奥国東漢氏

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朝日日本歴史人物事典 「坂上田村麻呂」の解説

坂上田村麻呂

没年:弘仁2.5.23(811.6.17)
生年:天平宝字2(758)
平安初期,蝦夷征討にもっとも深くかかわった武将。苅田麻呂の子。母は畝火浄永の娘とも。宝亀11(780)年,23歳で近衛将監に任じられて以来,武官を歴任。延暦13(794)年,征東副使として下向,これが東北経営にかかわった最初である。16年征夷大将軍,詳しくいえば「征夷大将軍近衛権中将陸奥出羽按察使兼陸奥守鎮守将軍」に任じられ,東北経営にかかわる全指揮権を与えられている。21年,造胆沢城使として現地に下っていたとき,蝦夷の族長阿弖流為,盤具母礼らが五百余人を率いて投降,田村麻呂はふたりを連れて上京し,命を助け彼らによる現地民政の安定化を進言するが,公卿たちの認めるところとならず,ふたりは殺されてしまう。これを,彼らを欺く行為とみる理解もあるが,田村麻呂の性格から考えても善意を疑うことはないであろう。翌年,造志波(斯波)城使に任命,さらに23年,再び征夷大将軍に任じられたが,いわゆる「徳政相論」によって事業は中止された。のち薬子の変(810)では平城上皇の東国行きを阻止している。 身長5尺8寸(約175cm),胸の厚さ1尺3寸(約40cm),赤ら顔で目は鷹のように鋭く,黄金色のあごひげがふさふさしていたといい,東北での活躍ぶりから「稀代の名将」「毘沙門の化身」と称された。性格は柔和で,怒れば鬼神猛獣でもひれ伏したが,笑えば赤ん坊もなつくようなやさしい顔になったという。弘仁1(810)年大納言となり,翌年東山粟田の別荘で没した。武人にふさわしく王城に向かい,武具姿で立ったまま棺に納められたといい,栗栖野(京都市山科区)にある円墳がそれと伝え,嵯峨天皇は詩や「田村麻呂伝記」を作ってその死を悼んでいる。11男1女の子供のうち大野,広野らは武官となり継承,娘春子は桓武に入内。大同2(807)年,清水寺を建立(開基は延鎮)したと伝えるが,東北地方にも田村麻呂建立と伝える寺社が少なくない。<参考文献>高橋崇『坂上田村麻呂』,亀田隆之『坂上田村麻呂』,瀧浪貞子『平安建都』

(瀧浪貞子)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「坂上田村麻呂」の意味・わかりやすい解説

坂上田村麻呂
さかのうえのたむらまろ
(758―811)

平安初期に活躍した武将。苅田麻呂(かりたまろ)の子。桓武(かんむ)天皇の二大事業の一つとして活発に行われた蝦夷(えぞ)征討において、武将としての器量を大いに発揮して活躍したことで有名。近衛府(このえふ)の少将であった791年(延暦10)征東副使となったのを契機に大使大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)のもとで蝦夷討伐に功をたて、796年には陸奥出羽按察使(むつでわあぜち)、陸奥守(むつのかみ)を兼任し、ついで鎮守府(ちんじゅふ)将軍をも兼ね、翌年には征夷(せいい)大将軍に任ぜられた。801年(延暦20)の第三次蝦夷征討に際しては節刀を受けて赴き、4万の軍を率いて攻め、まず胆沢(いさわ)の地を攻略し、翌年胆沢城を築いて鎮守府を多賀(たが)城から移した。ついで803年にはさらに北進して志波(しわ)城をつくり、蝦夷地経略に多大の功績を残した。これらの功によって805年に参議となって公卿(くぎょう)の仲間入りをし、その後、中納言(ちゅうなごん)を経て正三位大納言(右近衛大将)にまで至った。この間、810年(弘仁1)に起こった薬子(くすこ)の変では嵯峨(さが)天皇の命で、東国への脱出を企てた平城(へいぜい)上皇らを大和(やまと)国(奈良県)添上(そうのかみ)郡で食い止め、武功をあげた。翌弘仁(こうにん)2年5月23日に薨去(こうきょ)。姉妹又子、娘の春子が桓武天皇の後宮に入って、それぞれ高津(たかつ)内親王および葛井(ふじい)親王を生んでいる。京都東山の清水寺(きよみずでら)は田村麻呂の創建と伝える。

[朧谷 寿]

『高橋崇著『坂上田村麻呂』(1959・吉川弘文館)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「坂上田村麻呂」の意味・わかりやすい解説

坂上田村麻呂
さかのうえのたむらまろ

[生]天平宝字2(758)
[没]弘仁2(811).5.23.
平安時代初期の武将。父は苅田麻呂。宝亀 11 (780) 年近衛将監,延暦6 (787) 年近衛少将,同 10年征東副使に任命され,同 13年征夷大将軍大伴弟麻呂に従って蝦夷を討った。同 15年陸奥出羽按察使兼陸奥守,さらに鎮守府将軍,同 16年征夷大将軍に任命された。同 20年2月蝦夷討伐のため東北に向い,同年 10月平安京に凱旋。翌年造陸奥国胆沢 (いざわ) 城使として陸奥に行き,さらに翌年志波城を築いた。同 23年再び征夷大将軍に任じられ,大同1 (806) 年中納言,同4年正三位に叙せられた。弘仁1 (810) 年平城上皇の平城遷都に擬し造宮使となった。同年薬子の変が起ると,大納言に昇進した田村麻呂は美濃路を固め上皇軍の鎮圧に努めた。没後従二位を贈られた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「坂上田村麻呂」の解説

坂上田村麻呂
さかのうえのたむらまろ

758~811.5.23

平安時代初め,蝦夷(えみし)征討に活躍した武将・公卿。苅田麻呂の子。大宿禰姓。791年(延暦10)征夷副使となり,大使大伴弟麻呂の指揮下で戦果をあげ,795年従四位下。翌年に陸奥出羽按察使(あぜち)・陸奥守・鎮守将軍を兼帯。797年征夷大将軍となり,801年蝦夷征討を実施,功により従三位。翌年,陸奥国胆沢城造営使として下向すると,蝦夷の族長阿弖流為(あてるい)らが降伏。彼らを伴い上京,助命を嘆願したが聞きいれられなかった。804年,征夷大将軍に再任。翌年には坂上氏初の参議となる。のち正三位大納言。811年(弘仁2)粟田別業で没した。贈従二位。清水(きよみず)寺を創建したと伝える。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「坂上田村麻呂」の解説

坂上田村麻呂 さかのうえの-たむらまろ

758-811 奈良-平安時代前期の武人。
天平宝字(てんぴょうほうじ)2年生まれ。坂上苅田麻呂の子。延暦(えんりゃく)10年征夷(せいい)副使となり13年蝦夷(えみし)を討つ。15年陸奥(むつ)出羽(でわ)按察使(あぜち),陸奥守,鎮守将軍を兼任し,16年征夷大将軍。21年陸奥胆沢(いさわ)城,22年志波(しわ)城をきずく。24年参議,大同(だいどう)2年右近衛(うこんえの)大将。5年大納言となり,薬子(くすこ)の変を鎮圧した。京都の清水寺を創建したという。弘仁(こうにん)2年5月23日死去。54歳。贈従二位。

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旺文社日本史事典 三訂版 「坂上田村麻呂」の解説

坂上田村麻呂
さかのうえのたむらまろ

758〜811
平安初期の軍人貴族
渡来人系氏族東漢 (やまとのあや) 氏の出身。791年征夷大将軍大伴弟麻呂の下で征東副使として蝦夷 (えみし) 征討に参加。797年征夷大将軍となり,胆沢 (いざわ) 城・志波城を築いた。鎮守府を多賀城から胆沢城に移して,律令国家の東北地方経営を発展させた。薬子の変平定にも戦功をあげ,正三位大納言になる。

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世界大百科事典(旧版)内の坂上田村麻呂の言及

【胆沢城】より

…8世紀後半の宝亀・延暦年間にかけて,岩手県南半部の北上川流域すなわち〈胆沢の地〉を対象としたいわゆる蝦夷征討がくりかえされた。ようやく801年(延暦20)にいたって,初の征夷大将軍坂上田村麻呂が長年にわたる蝦夷の反乱を制圧したとされている。そして一応の安定をみた地に築造されたのが胆沢城であり志波城である。…

【坂上氏】より

…日本古代の氏族。渡来系氏族の東漢氏(やまとのあやうじ)(倭漢氏とも書く)から分かれた多数の枝氏族の一つ。東漢氏は,応神天皇の時代に阿知使主(あちのおみ)に率いられて日本に渡来してきたという伝承をもち,5世紀ころよりヤマト朝廷の文筆,財務,外交にたずさわるとともに,あとから渡来してきた手工業技術者などを支配下におさめて急速に成長した氏族であるが,その後分裂をくりかえし,60以上の枝氏族に分かれたという。…

【志波城】より

…9世紀初頭に,いわゆる蝦夷経営を経て,岩手県南部の北上川流域〈胆沢(いさわ)の地〉がようやく治まると,その安定を得た地に築造されたのが水沢市にある胆沢城とこの志波城である。志波城は,胆沢城と同じく蝦夷経営の功のあった坂上田村麻呂が造志波城使となり803年(延暦22)に造られた。現在その遺跡は,旧岩手郡内の盛岡市の太田方八丁遺跡とすることに大きな異説はない。…

【征夷大将軍】より

…8世紀末には791年(延暦10)大伴弟麻呂が征東大使に任じられたが,793年征東使が征夷使と改称され,翌794年には征夷大将軍となっている。797年には坂上田村麻呂が征夷大将軍に,811年(弘仁2)には文室綿麻呂が征夷将軍に任命されたが,とくに田村麻呂は鎮守府を多賀城から胆沢城に移すなど,経略を進めて武名をあげ,そのため征夷大将軍の栄称としての性格も強まった。このように征夷大将軍の称はとくに平安初期の桓武・嵯峨朝に行われたが,この時期の重要な政治的課題であった蝦夷経略が一段落すると,その称も廃されるに至った。…

※「坂上田村麻呂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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