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幕末の志士。本名は直柔(なおなり),別名は才谷梅太郎。高知城下の町人郷士の家に生まれ,維新の指導者としてその前夜に暗殺されるまでの軌跡には曲折があった。第1は尊攘志士に成長する時代である。町人郷士の次男でありながら,19歳のとき(1853)江戸へ剣術修業に赴き,ペリー来航に直面して政治にも目ざめ,1861年(文久1)武市瑞山が勤王党を結成するやただちにこれに加盟し,尊攘志士として活躍を開始した。ところが翌年3月脱藩するや,勝海舟の下で,第2の近代航海術を修業する時代へと方向は変化した。このことは,彼が町人社会の雰囲気(坂本家の本家は豪商才谷屋)と無縁でなかったこと,海外知識にくわしい画家河田小竜とつながりのあったことなどによる。勝の下で神戸海軍操練所の塾頭になった竜馬は,大久保忠寛,横井小楠,由利公正らとの交渉を深め,その政治思想を成長させた。しかし勝や大久保が幕府内で失脚し,竜馬が薩摩藩に依存せざるをえなくなったころから第3の時代に入る。1865年(慶応1)から翌年にかけての薩長同盟,その翌年の薩土盟約を実現させるための政治活動,それとこの間の亀山社中(1865成立)および海援隊における海運・貿易に従事しながらの航海術の修業は,他の維新の指導者にはみられない行動様式であった。この新国家構想を進める政治家の時代は,後藤象二郎の大政奉還論に利用される〈船中八策〉に代表される。そこでは,幕藩制的秩序にこだわらない中央集権的な統一国家が構想されている。もちろんそれは,近代国家ではなく絶対主義国家ではあったが,当時の対外的危機の下ではこの統一が必要であった。町人的現実主義を身につけ,封建的藩閥意識から脱却しつつあった竜馬だからこそ,この構想が可能となったといえよう。しかしこの構想実現の途中,竜馬は,京都河原町蛸薬師の近江屋にて,幕府見廻組に暗殺される。
執筆者:池田 敬正
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1835.11.15?~67.11.15
幕末期の志士。土佐国高知藩の郷士。1853年(嘉永6)から江戸の千葉道場で剣道を修める。61年(文久元)武市(たけち)瑞山の土佐勤王党に参加したが,62年脱藩。江戸に出て,幕臣で蘭学者の勝海舟の門に入り,強い思想的影響をうける。のち勝の主宰する神戸海軍操練所の設立に参画。西郷隆盛・木戸孝允(たかよし)・横井小楠らと親交を結び,66年(慶応2)1月薩長連合の盟約を成立させ,幕府の長州再征を失敗させた。この間,鹿児島藩の援助を得て長崎に亀山社中を作って海運業をおこした。67年藩公認で海援隊(もと亀山社中)を指揮し,高知藩主山内豊信(とよしげ)を動かして大政奉還を実現した。同時に「船中八策」を構想し,新政実現に努力中,11月15日京都の近江屋で暗殺された。
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…幕末期の長崎における坂本竜馬を中心とする組織。貿易,海運などを業としながらも倒幕運動への参加を企図した政治集団。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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