坂本竜馬(読み)サカモトリョウマ

デジタル大辞泉 「坂本竜馬」の意味・読み・例文・類語

さかもと‐りょうま【坂本竜馬】

[1836~1867]幕末志士土佐藩士。名は直柔なおなり千葉周作道場に剣を学び、のち脱藩し、勝海舟師事。慶応2年(1866)薩長同盟成立に尽力。前土佐藩主山内豊信やまうちとよしげを説いて大政奉還を成功させたが、京都で暗殺された。

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百科事典マイペディア 「坂本竜馬」の意味・わかりやすい解説

坂本竜馬【さかもとりょうま】

幕末の尊攘(そんじょう)派の志士。土佐高知藩の郷士。変名は才谷梅太郎。1853年江戸に出て千葉周作の弟に剣を学ぶ。武市瑞山らの土佐勤王党に入るが,1862年高知藩の政策にあきたらず脱藩し,勝海舟の門に入り神戸海軍操練所の設立に努力した。しかし文久3年8月18日の政変で幕政が反動化すると,勝の紹介で西郷隆盛をたより鹿児島藩に保護され,その援助で〈亀山社中〉(後の海援隊)を組織した。1866年薩長同盟を介して討幕派の結集に成功,第2次長州征伐では長州藩海軍を指揮した。天皇を頭とする議院制の構想(船中八策)をいだき,山内豊信を説いて1867年大政奉還を実現させたといわれる。京都で中岡慎太郎とともに見廻組の刺客に暗殺された。
→関連項目岩崎弥太郎公議政体論高知[県]高知藩佐久間象山薩土盟約千葉周作中岡慎太郎陸援隊

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改訂新版 世界大百科事典 「坂本竜馬」の意味・わかりやすい解説

坂本竜馬 (さかもとりょうま)
生没年:1835-67(天保6-慶応3)

幕末の志士。本名は直柔(なおなり),別名は才谷梅太郎。高知城下の町人郷士の家に生まれ,維新の指導者としてその前夜に暗殺されるまでの軌跡には曲折があった。第1は尊攘志士に成長する時代である。町人郷士の次男でありながら,19歳のとき(1853)江戸へ剣術修業に赴き,ペリー来航に直面して政治にも目ざめ,1861年(文久1)武市瑞山が勤王党を結成するやただちにこれに加盟し,尊攘志士として活躍を開始した。ところが翌年3月脱藩するや,勝海舟の下で,第2の近代航海術を修業する時代へと方向は変化した。このことは,彼が町人社会の雰囲気(坂本家の本家は豪商才谷屋)と無縁でなかったこと,海外知識にくわしい画家河田小竜とつながりのあったことなどによる。勝の下で神戸海軍操練所の塾頭になった竜馬は,大久保忠寛横井小楠,由利公正らとの交渉を深め,その政治思想を成長させた。しかし勝や大久保幕府内で失脚し,竜馬が薩摩藩に依存せざるをえなくなったころから第3の時代に入る。1865年(慶応1)から翌年にかけての薩長同盟,その翌年の薩土盟約を実現させるための政治活動,それとこの間の亀山社中(1865成立)および海援隊における海運・貿易に従事しながらの航海術の修業は,他の維新の指導者にはみられない行動様式であった。この新国家構想を進める政治家の時代は,後藤象二郎の大政奉還論に利用される〈船中八策〉に代表される。そこでは,幕藩制的秩序にこだわらない中央集権的な統一国家が構想されている。もちろんそれは,近代国家ではなく絶対主義国家ではあったが,当時の対外的危機の下ではこの統一が必要であった。町人的現実主義を身につけ,封建的藩閥意識から脱却しつつあった竜馬だからこそ,この構想が可能となったといえよう。しかしこの構想実現の途中,竜馬は,京都河原町蛸薬師の近江屋にて,幕府見廻組に暗殺される。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「坂本竜馬」の解説

坂本竜馬 さかもと-りょうま

1836*-1867 幕末の武士
天保(てんぽう)6年11月15日生まれ。家は土佐高知城下の郷士。文久元年土佐勤王党にくわわり,翌年脱藩して勝海舟の門にはいって航海術などをまなび,開国論にめざめる。神戸海軍操練所の塾頭をつとめる。慶応元年長崎で亀山社中(のちの海援隊)をつくり海運・貿易に従事。2年西郷隆盛と木戸孝允(たかよし)の間をとりもち薩長同盟を成立させる。「船中八策」の構想のもとに幕府の大政奉還を実現させ,新統一国家の建設を目ざしたが,慶応3年11月15日京都近江屋で中岡慎太郎とともに暗殺された。33歳。名は直陰,のち直柔(なおなり)。変名は才谷梅太郎。
【格言など】左様さ,世界の海援隊でもやらんかな(竜馬がまとめた「新政府綱領」に,本人の役職がないのを西郷に問われて)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「坂本竜馬」の解説

坂本竜馬
さかもとりょうま

1835.11.15?~67.11.15

幕末期の志士。土佐国高知藩の郷士。1853年(嘉永6)から江戸の千葉道場で剣道を修める。61年(文久元)武市(たけち)瑞山の土佐勤王党に参加したが,62年脱藩。江戸に出て,幕臣で蘭学者の勝海舟の門に入り,強い思想的影響をうける。のち勝の主宰する神戸海軍操練所の設立に参画。西郷隆盛・木戸孝允(たかよし)・横井小楠らと親交を結び,66年(慶応2)1月薩長連合の盟約を成立させ,幕府の長州再征を失敗させた。この間,鹿児島藩の援助を得て長崎に亀山社中を作って海運業をおこした。67年藩公認で海援隊(もと亀山社中)を指揮し,高知藩主山内豊信(とよしげ)を動かして大政奉還を実現した。同時に「船中八策」を構想し,新政実現に努力中,11月15日京都の近江屋で暗殺された。

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旺文社日本史事典 三訂版 「坂本竜馬」の解説

坂本竜馬
さかもとりょうま

1835〜67
幕末の志士
土佐藩郷士出身。武市瑞山 (たけちずいざん) らと土佐藩勤王党を指導。のち脱藩し,勝海舟に航海術を学ぶ。藩が尊攘派を弾圧したため,1864年長崎に亀山社中(のち海援隊)を結成,海運に従事しつつ薩摩・長州間を仲介し,'66年薩長連合を実現させた。公議政体論を唱え,大政奉還を実現したが,その後間もなく京都で中岡慎太郎とともに暗殺された。

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367日誕生日大事典 「坂本竜馬」の解説

坂本竜馬 (さかもとりょうま)

生年月日:1835年11月15日
江戸時代末期の志士
1867年没

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世界大百科事典(旧版)内の坂本竜馬の言及

【海援隊】より

…幕末期の長崎における坂本竜馬を中心とする組織。貿易,海運などを業としながらも倒幕運動への参加を企図した政治集団。…

※「坂本竜馬」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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