デジタル大辞泉
「坂本」の意味・読み・例文・類語
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坂本
さかもと
比叡山の東部、琵琶湖岸にわたる一帯。坂本は延暦寺の坂下(坂本)の意であり、京都側を西坂本というのに対し東坂本とも称する。また少なくとも中世の坂本は南の穴太、北の苗鹿などを含む広い範域をさしたとみられ、その中に延暦寺・日吉社の門前である地域、その外港というべき戸津などの湊が展開した。江戸時代の郷村帳では浜方の下坂本村と門前の上坂本村の二村として高付されるが、下坂本は別に浜坂本とよばれ、上坂本を合せて上浜とも称した。また時代を限定できないが、穴太衆積みの石垣で知られた石工衆が集住した穴太地区は南坂本とよばれたという。戸津または三津浜の湊は東国・北国からの延暦寺および京都への物資の荷揚場として栄え、門前には社家・山徒らの坊舎などが立並び、都市的景観を呈していた。ここに交通運輸業者の馬借・車借、金融業者の土倉、また問丸が集住し、湖上関が置かれた。京都を西に置いて延暦寺の山下にあり、北国海道で北陸につながり、湖上によって北陸・東国に結ばれていることが坂本の繁栄を約束し、その性格を決定した。
〔比叡山山下〕
天元二年(九七九)八月二日、坂本・三津浜・苗鹿村住人が延暦寺代々の御願堂塔の造作修理の臨時雑役を免除されているのは(「官宣旨」山門堂舎記)、東坂本苗鹿領とも記された苗鹿など(承元二年一一月「承信譲状」曼殊院文書)、広義の坂本が比叡山一山のうちと把握されていたその起源を示すものであろう。文明一〇年(一四七八)一一月一六日、日吉社の小五月会の執行を延暦寺に命じた室町幕府奉行人奉書(八坂神社文書)に、幕府の命を速やかに「山上・坂本以下」に相触れるべきことが記され、また永正五年(一五〇八)八月七日に「撰銭事」で山門使節宛に発給された室町幕府奉行人奉書(蜷川家古記録之内抜書)にも「山上・山下・坂本以下」に下知すべしという文言がみえ、坂本が比叡山の山上・山下とともに延暦寺の一円的な支配下にあったことがうかがえる。湖辺にあった日吉社の社家が上坂本に移住したのは平安末期から鎌倉時代の初めといわれ、「日吉社神道秘密記」は「富崎町・川崎町・和田小崎・江ツラ已下、悉ク社家中ノ住居、此ノ処ナリ、成仲宿禰樹下へ上り初メラレ、行言生源寺へ上リ初メラレ、上坂本中ニ処々住ム処ナリ」と伝える。中世、琵琶湖岸の集落を総称して「浜」とよんでおり、建暦元年(一二一一)一一月二三日坂本の大火を記録した「明月記」同月二三日条は「ひんがしさかもとはまより、わうじの宮のほうでんまで、やけたりときこゆ」と記す。
坂本
さかもと
現姫路市の書写山円教寺を中心とした中世の地名。坂元とも記される(「鵤庄引付」斑鳩寺文書、年未詳「嘉吉軍物語写」飯尾文書など)。播磨国飾磨郡円教寺縁起等事(円教寺蔵)に、長保四年(一〇〇二)三月七日の花山法皇書写山臨幸に際して「即碑文於賜東西坂本、起請条々也」とあるように、東坂本・西坂本の地名もみられる。「太平記」巻一六(西国蜂起官軍進発事)によると、延元元年(一三三六)三月六日に新田義貞から足利尊氏追討の命を受けた江田行義・大館氏明の軍勢が「書写坂本」に到着している。観応二年(一三五一)には足利尊氏が書写坂本に布陣しており(同年七月日「松浦秀軍忠状」肥前松浦文書)、当地は軍事上からも重視されていた。明徳三年(一三九一)六月二六日、守護赤松氏が国衙眼代職(国衙目代職)を小河氏に安堵した(「赤松義則書下」小河文書)。
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坂本
さかもと
滋賀県南西部,大津市中部の旧村域。比叡山東麓にある。 1889年村制施行。 1951年大津市に編入。平安時代から室町時代にかけて延暦寺の門前町,琵琶湖の要津として栄えたが,織田信長の比叡山焼き打ち以後衰え,江戸時代再び門前町として復活。現在も天台宗の宗務庁,延暦寺の各里坊,日吉大社 (東西本宮の各本殿は国宝,境内は国指定史跡) などがある。山王祭は有名。湖岸の唐崎の松は「唐崎夜雨」で知られる近江八景の一つ。
坂本
さかもと
熊本県中南部,八代市南西部の旧村域。球磨川下流域,九州山地南端部に広がる。 1961年上松求麻 (かみまつくま) 村,下松求麻村,百済来 (くだらぎ) 村の3村が合体して坂本村が成立。 2005年八代市,千丁町,鏡町,東陽村,泉村の5市町村と合体して八代市となった。林業がおもで製糸工場がある。第2次世界大戦後球磨川開発が急速に進み,荒瀬ダムが完成した。
坂本
さかもと
群馬県西部,安中市北西部の旧町域。碓氷峠の東麓にある集落。 1889年町制施行。 1954年松井田町ほか1町3村と合体して松井田町となり,2006年安中市と合体。信越本線の開通まで,中山道の宿場町として栄えた。第2次世界大戦後,国道 18号線が改修されたため碓氷峠越えの車が激増し,坂本には多数のドライブインやレストハウスが立ち並んだが,1971年碓氷バイパスが横川から南へ分岐したため,利用者が激減した。
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さかもと【坂本】
比叡山東麓一帯の呼称で,西麓の京都側を西坂本と呼ぶのに対して東坂本と称することもある。およそ現在の滋賀県大津市坂本本町,下阪本,唐崎,比叡辻にあたり,古代は近江国滋賀郡大友郷に含まれる。延暦寺創建以前より大山咋(おおやまくい)命と大己貴(おおなむち)命を合祀する日吉社(日吉大社)の鎮座地であったが,良源が18代天台座主に就任する平安中期以降,延暦寺=山門の勢力拡大にともないその膝下領域としての重要性を増していった。
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坂本
さかもと
滋賀県大津市北部の地名。比叡山の東麓で,延暦寺の門前町。山麓の日吉(ひよし)大社や日吉馬場の両側に穴太積(あのうづみ)の石垣に囲まれた里坊が並ぶ。中に名園をもつ滋賀院門跡がある。「吾妻鏡」によると,1211年(建暦元)坂本の2000余の建物が焼失したとあり,往古の繁栄がしのばれる。室町時代は酒屋・土倉・問丸の活動で知られ,1379年(康暦元・天授5)の馬借(ばしゃく)一揆は坂本でおこった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
坂本
さかもと
滋賀県大津市北西部,琵琶湖に面する地区。古代・中世に栄えた港町
比叡山延暦寺・日吉 (ひえ) 神社の門前町としても有名。平安中期以降,延暦寺領荘園の年貢・物資の集積地として発展。室町時代には酒屋・土倉・問丸 (といまる) なども多く,土一揆に,坂本の馬借が一揆の口火を切るほどであった。江戸時代以降は衰退。
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世界大百科事典内の坂本の言及
【大津[市]】より
…1898年市制。1932年滋賀村,33年膳所(ぜぜ)町,石山町,51年坂本村,下阪本村,雄琴(おごと)村,下田上村,大石村,67年堅田町,瀬田町を編入。人口27万6332(1995)。…
【問丸】より
…京都への入口の淀津では塩および塩魚の問丸の同業組合である〈淀魚市問丸中〉が,鎌倉末期すでに塩,塩魚の着岸強制権と購入独占権をもっていたが,これは塩に対する関所の課税徴収権を請け負ったことにもとづくものである。近江坂本には美濃,飛驒から坂本に着津する材木に対する〈筒柾諸材木問丸職〉があり,その権利が売買されていた。これも材木に対する課税徴収の請負権が拡大して,材木の専売権になったものであろう。…
【馬借一揆】より
…土一揆(つちいつき)の先頭を切った行動として注目されているが,元来山門の強(嗷)訴(ごうそ)の一環として登場した事件である。1379年(天授5∥康暦1)6月,近江坂本の馬借1000余人が京の祇園社に討ち入ったというのが初見で(八坂神社〈社家記録〉),山徒(山門の下級僧侶)の一員でありながら幕府と結託して権勢を振るった円明坊と,関のことで争ったことが原因であった。1418年(応永25)には大津の馬借数千人が,やはり祇園社に立てこもって山徒円明坊を攻撃し,米の売買と関について訴えた(《看聞御記》)。…
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