坪内逍遥(読み)ツボウチショウヨウ

デジタル大辞泉 「坪内逍遥」の意味・読み・例文・類語

つぼうち‐しょうよう〔‐セウエウ〕【坪内逍遥】

[1859~1935]評論家・小説家・劇作家。美濃の生まれ。本名、雄蔵。別号、春廼舎朧はるのやおぼろなど。文学論小説神髄」、小説「当世書生気質とうせいしょせいかたぎ」を発表、写実主義を提唱し、日本の近代文学の先駆者となった。明治24年(1891)「早稲田文学」を創刊。シェークスピアの研究・翻訳や、文芸協会を主宰して演劇運動にも尽力。他に戯曲「桐一葉」「新曲浦島」「えんの行者」など。

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共同通信ニュース用語解説 「坪内逍遥」の解説

坪内逍遥

明治から昭和にかけて活躍した文筆家。日本で初めてシェークスピアを全訳した。近代日本文学の先駆けとされる代表作「小説神髄」「当世書生気質」で知られ、歌舞伎作品「桐一葉」で演劇の近代化にも影響を与えた。

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百科事典マイペディア 「坪内逍遥」の意味・わかりやすい解説

坪内逍遥【つぼうちしょうよう】

小説家,劇作家,評論家。本名勇蔵のちに雄蔵。美濃国生れ。東大政治学科卒。1885年《小説神髄》を書き《当世書生気質(かたぎ)》を発表して写実による近代文学の方向を示した。二葉亭四迷をはじめ,逍遥の近代文学論は広く大きな影響を与えたが,自身は1889年の《細君》を最後に小説の筆を折った。1890年,東京専門学校(早稲田大学の前身)に文学科を設け,翌年《早稲田文学》を創刊し,後進の育成に努めた。また同誌を発表の場として森鴎外との間に没理想論争を展開した。また演劇革新を志して戯曲《桐一葉》《牧の方》《沓手鳥(ほととぎす)孤城落月》等を発表,《新曲浦島》などの舞踊劇をも創作した。演劇研究所を作って俳優の養成に努め,早稲田大学演劇博物館を建設し,《シェークスピア全集》の翻訳を完成するなど,日本近代文学,演劇の発展史上に大きな功績を残した。
→関連項目秋田雨雀役行者小川未明お夏清十郎幸田露伴国民之友斎藤緑雨嵯峨の屋お室シェークスピア児童劇島村抱月新曲浦島坪内士行当世書生気質登張竹風中村星湖日本舞踊長谷川天渓藤蔭静枝文芸協会ページェント松井須磨子三宅花圃百合若大臣読売新聞早稲田大学早稲田派

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改訂新版 世界大百科事典 「坪内逍遥」の意味・わかりやすい解説

坪内逍遥 (つぼうちしょうよう)
生没年:1859-1935(安政6-昭和10)

小説家,劇作家,評論家,教育家。本名勇蔵,のち雄蔵。別号春の屋朧(おぼろ)など。美濃国(岐阜県)生れ。1883年東大政治学科卒。在学中に《春風情話》(スコット原作)の翻訳を手がけるなど,西洋文学への関心をたかめていくうちに,東西の小説観の落差を自覚,85年から86年にかけて《小説神髄》を発表して,写実主義小説の路線を設定するとともに,文学の自律性を説いた。ついでその理論の応用編ともいうべき《当世書生気質(かたぎ)》(1885-86)をはじめとして,《新磨(しんみがき) 妹と背かゞみ》《内地雑居 未来の夢》などの作品を公にするが,二葉亭四迷との邂逅(かいこう)をきっかけに,自己の創作方法に疑問をもつようになり,89年の《細君》を最後に小説の筆を折った。90年,東京専門学校(早大の前身)に文学科を創設,翌年,その機関誌《早稲田文学》を創刊して後進の育成につとめるが,《しからみ草紙》による森鷗外との間に交わされた〈没理想論争〉は,近代最初の本格的な文学論争として知られている。その後,伝統演劇の改良に新たな活動の舞台を求め,《桐一葉》(1894-95),《牧の方》(1896-97),《沓手鳥孤城落月(ほととぎすこじようのらくげつ)》(1897)などの新史劇を発表する一方,高山樗牛と史劇論をたたかわせたりした。早稲田中学の校長として,倫理,道徳の教育に打ちこんだ一時期もある。1904年には《新曲浦島》を発表,新舞踊劇を提唱するが,翌々年,島村抱月を支援して文芸協会を興し,シェークスピア,イプセンなどを紹介して新劇運動の基礎を築いた。抱月と松井須磨子の恋愛問題で文芸協会が解散するにいたったいきさつは戯曲《役の行者》(1915)に投影されている。晩年はシェークスピアの翻訳に全力を傾注し,28年全40巻の全集を完成,死の直前までその改修につとめた。《小説神髄》をはじめとして,評論,演劇,翻訳など,その文学啓蒙の活動は多方面に及ぶが,改良主義的な漸進性にある限界があったことは否定できない。
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朝日日本歴史人物事典 「坪内逍遥」の解説

坪内逍遥

没年:昭和10.2.28(1935)
生年:安政6.5.22(1859.6.22)
明治から昭和の小説家,劇作家,評論家,翻訳家,教育家。本名勇蔵のち雄蔵,別号春の屋おぼろなど。美濃国太田村(岐阜県美濃加茂市)生まれ。父は尾張藩代官所役人。名古屋に移り住み,母の影響で芝居に親しむ。貸本屋大惣に日参,江戸戯作を耽読。上京し開成学校(東大)に入り,高田早苗らと交友,シェークスピアなど西洋文学に目覚めた。学生時代,落第したこともあって文学勉強を押進。それが『小説神髄』(1885~86)の写実小説論にまとめられる。滝沢馬琴の『八犬伝』を批判したのも,今までの自分から一歩出ようとした試みであった。同時期の小説『当世書生気質』も好評で,正岡子規も読んで興奮した。『妹と背かがみ』(1885~86)から『細君』(1889)になると,その心理描写も高度であるが,この作で小説の筆を折り,以後演劇革新に集中。早くから東京専門学校(早大)で教え,文芸誌『早稲田文学』を創刊(1891),多数の俊秀を育て,森鴎外と「没理想論争」を戦わせた。『桐一葉』(1894~95)は歴史劇として知られ,『国語読本』の編集も中等教育に影響を与えた。日露戦争後に文芸協会を組織,戯曲『役の行者』(1917)を得た。シェークスピアの完訳も達成,その活動は晩年まで衰えなかった。明治から昭和まで3代にわたって多方面に活動した姿は,日本の近代文学,芸術の縮図ともなっていよう。<著作>『増補版逍遥選集』全17巻<参考文献>『坪内逍遥事典』

(中島国彦)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「坪内逍遥」の解説

坪内逍遥
つぼうちしょうよう

1859.5.22~1935.2.28

明治~昭和前期の小説家・評論家・劇作家。本名勇蔵,のち雄蔵。別号春の屋おぼろ。美濃国生れ。東大卒。東京専門学校講師となり,翻訳「自由太刀余波鋭鋒」を刊行。勧善懲悪を旨とする功利主義的文学観を否定,写実主義を唱え,1885年(明治18)から翌年にかけて評論「小説神髄」と小説「当世書生気質(かたぎ)」を発表,文壇の中心的存在となる。二葉亭四迷の批判にあい,演劇革新に方向転換。91年「早稲田文学」を創刊,史劇「桐一葉」「牧の方」を発表する。演劇改良の方策として新楽劇を提唱,「新曲浦島」を創作した。1906年島村抱月の文芸協会に参加,戯曲作品に「役(えん)の行者」など。「シェイクスピア全集」の全訳もある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「坪内逍遥」の解説

坪内逍遥 つぼうち-しょうよう

1859-1935 明治-昭和時代前期の小説家,劇作家,評論家。
安政6年5月22日生まれ。東京専門学校(現早大)の講師をへて教授。明治18年評論「小説神髄」,小説「当世書生気質(かたぎ)」を発表し,近代的な写実主義文学をとなえる。24年「早稲田文学」を創刊。演劇の改良をこころざし戯曲「桐一葉」などを創作。39年文芸協会を組織。シェークスピアの全作品を完訳した「沙翁全集」もある。昭和10年2月28日死去。77歳。美濃(みの)(岐阜県)出身。東京大学卒。名は勇蔵のち雄蔵。別号に春の屋おぼろなど。
【格言など】小説の主脳は人情なり,世態風俗これに次ぐ(「小説神髄」)

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世界大百科事典(旧版)内の坪内逍遥の言及

【演劇改良運動】より

…推進側の見解は外山正一《演劇改良論私考》,末松謙澄《演劇改良意見》に代表されるが,残忍・卑猥な劇行為の表現をやめること,女方のかわりに女優を用いること,舞台上での義太夫や黒衣が不合理であること,台詞づかいや衣装その他を写実にすべきことなどが主張された。これに対し,坪内逍遥は第一に必要なのは脚本の改良であるべきで,それも勧善懲悪の功利主義に陥ってはならないと指摘したし,やがて帰国した森鷗外も脚本の尊重とともに歌劇とドラマの区別を訴えた。また,無一庵無二(伊藤左千夫)は上等社会のためではなく,民衆のための改良を強調して批判した。…

【演劇教育】より

…また,日本の近代的な児童文化・児童文学の創始者といわれる巌谷小波はドイツでの見聞をもとに,1903年ころから〈学校芝居〉を提唱し,そのための脚本を発表した。さらに,大正期の新教育運動の中で,あるいはその影響のもとに,私立成城学園の学校劇運動や,坪内逍遥による児童劇運動などが始められ,演劇教育は一定の普及をみた。しかし,24年には,〈学校劇禁止令〉として知られる文部省による禁止措置がとられ,第2次大戦後民主教育が発足するまで学校教育の中に正当な市民権を与えられなかった。…

【虚実】より

… なお,この虚実の問題は,写実主義・自然主義などのように,現実対象の忠実な再現的描写を志す芸術の表現理論に共通する課題であって,明治以降もしばしば論争の種となっている。例えば坪内逍遥の《小説神髄》における模写主義の提唱は,虚構を排し事実をとることを説いたものであるが,これに対し二葉亭四迷は《小説総論》で〈虚相〉を写すべきことを主張し,森鷗外は〈早稲田文学の没理想〉(1891)で,逍遥の没理想論は世界は〈実(レアアル)〉ばかりでなく〈想(イデエ)〉に満ち満ちているという重大なことを見落としていると反駁(はんばく)した。さらに石橋忍月は《舞姫》評で〈虚実の調和〉ということを説いている。…

【桐一葉】より

…戯曲。坪内逍遥作。読本体と実演用の2種類がある。…

【シェークスピア】より

…20世紀中葉以後は従来の諸方法に加えて,N.フライらの神話批評,F.ファーガソンらの構造論的批評,精神分析医E.ジョーンズらの精神分析的批評,記号論的批評などあらゆる派の批評がシェークスピアの作品を対象として取り上げるようになり,シェークスピア批評はすべての文芸批評の方法の合流点となった。
[日本での受容]
 日本へは明治の初めごろに紹介され,いくつかの翻案がおこなわれたが,翻訳としては坪内逍遥が《ジュリアス・シーザー》を浄瑠璃風に訳した《該撤(シイザル)奇談 自由太刀余波鋭鋒(じゆうのたちなごりのきれあじ)》(1884)が代表的である。さらに逍遥は独力で全作品の翻訳に取り組み,1928年にそれを完成した。…

【ジュリアス・シーザー】より

…この劇は政治における理想と現実,支配者と民衆の関係,修辞的弁舌の効用などについて問題を提起するほか,ブルータスの内面描写にはのちのシェークスピア悲劇における主人公の性格創造の内面化がみられる。日本でも早くから紹介されたが,1884年に坪内逍遥は《該撒(シイザル)奇談 自由太刀余波鋭鋒(じゆうのたちなごりのきれあじ)》(1901年に明治座で上演)として浄瑠璃風に翻訳した。【笹山 隆】。…

【小説】より

…現代のわれわれは,これら小説を装ったロマンスやアレゴリーをも小説と呼んでいる。英語の〈ノベル〉の訳語として〈小説〉を採用したのは坪内逍遥であり,以来この語は前述したような西欧的小説概念を意味しているが,実際は外観が標準的小説に似ているものはすべて〈小説〉と呼ばれるのがふつうで,作者の生活記録に近い私(わたくし)小説やノンフィクションに近い伝記・歴史物語,純然たる恋愛ロマンスまでがひとしなみに〈小説〉と呼ばれている。また日本では長編も短編も〈小説〉であるが,西欧では長編(novel,roman)と短編(short story,コントconteなど)は別個のジャンルとして意識されている。…

【小説神髄】より

坪内逍遥の小説論。1885‐86年刊。…

【新楽劇論】より

…演劇書。坪内逍遥著。1904年(明治37)11月刊。…

【新歌舞伎】より

…しかし,1881年江戸生え抜きの作者河竹黙阿弥が,新時代順応の限界を悟って引退を声明,その後も人なきがために筆をとっていたが,門弟に発展的継承がみられず,93年の黙阿弥の死は,それまでの狂言作者制度の崩壊を意味することになった。劇場外文学者の作品提供にはそうした事情もあり,やがて松居松葉坪内逍遥らが登場する。94年逍遥の《桐一葉》の《早稲田文学》への発表がそれであり,次いで99年松葉の《悪源太》,1904年前記《桐一葉》の舞台化が幕明けとなる。…

【新曲浦島】より

…3幕11景。坪内逍遥作。1904年11月早稲田大学出版部から公刊。…

【新劇】より


[草創期の新劇]
 日本的近代写実演劇確立への動きは,早稲田大学を背景に1906年に設立された文芸協会に始まる。これは文学,芸術を含む広範な進歩的文化事業を意図していたが,演劇的には坪内逍遥の指導する朗読研究会〈易風会(えきふうかい)〉の発展的解消であり,その公演は早稲田派の文士劇とみられていた。協会は09年5月,逍遥の私邸に新俳優養成のための演劇研究所(男女共学)を開設,当時,新俳優の養成機関は,新派の男優養成を意図する藤沢浅二郎主宰の〈東京俳優養成所〉(1908年11月開所。…

【当世書生気質】より

坪内逍遥の長編小説。1885年(明治18)6月~86年1月,17分冊で刊行。…

【ハムレット】より

…しかし20世紀に入ると,こうした性格批評よりも,〈強いられた状況の劇〉〈権力と世襲との劇〉など,劇全体のモティーフやドラマの構造原理に,より大きな関心が払われることが多い。 日本への初期の移入では,明治半ばに外山正一や矢田部良吉による部分訳(いずれも《新体詩抄》(1882)所収),仮名垣魯文による翻案《葉武列土倭錦絵(ハムレツトやまとにしきえ)》(1886)などが試みられたが,完訳は戸沢姑射(こや)(正保)と浅野馮虚(ひようきよ)(和三郎)の共訳(1905),それに続く坪内逍遥訳(1909)以降である。逍遥訳初版は,もっぱら実演に便宜なように企図したため,訳詞が歌舞伎式,七五調となったと彼自身述懐している。…

【文芸批評】より

…【清水 徹】
[日本]
 幕末の洋学移入の延長線上に入ってきた西洋思想とその紹介が,まず明治初年の啓蒙思想として流布し,そのなかから文学論が散発的に現れた。チェンバー兄弟編の百科全書の文学項目(Rhetorics and Belles Lettres)が菊池大麓によって《修辞及華文》(1879)として訳され,また《新体詩抄》(1882)の序文が詩論の発端を示すなどして,やがて坪内逍遥《小説神髄》(1885‐86)が出て近代文芸評論は成立する。このリアリズム小説論は,二葉亭四迷〈小説総論〉(1886)の虚構理論に発展し,明治20年代にいたって坪内逍遥と森鷗外との論争などを通じて,文芸批評は時代の文学への指導的役割を確立する。…

【沓手鳥孤城落月】より

…戯曲。坪内逍遥作。《桐一葉》の続編にあたる。…

【良寛と子守】より

…1幕。坪内逍遥作。1929年6月東京帝国劇場初演。…

【歴史劇】より

…これは9世市川団十郎や河竹黙阿弥を中心にして,それに福地桜痴や依田学海らが加わって進められたが,史実に忠実のあまり,芸術的完成度の点では満足すべきものではなかった。しかし,この運動を契機として,やがて坪内逍遥の歴史劇論や新史劇創作への道が開かれた。これが逍遥らによる〈新歌舞伎〉の運動であり,史実に忠実であると同時に歌舞伎の伝統美をもうけついでいる芸術的な作品がここから生まれた。…

【早稲田大学】より

…また,政治に限らず,日本の経済,社会,学術,文化の各分野の発展にも大きな足跡を刻んでいる。開校翌年から教壇に立った坪内逍遥の文芸活動は,1890年文学科を設置して文学教育のとりでを築き,翌91年には雑誌《早稲田文学》を創刊して早稲田文学の土壌を育成するなど多彩であった。このなかから文壇をリードする優れた作家,文芸家が多数輩出した。…

※「坪内逍遥」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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