埴谷雄高(読み)ハニヤユタカ

デジタル大辞泉 「埴谷雄高」の意味・読み・例文・類語

はにや‐ゆたか【埴谷雄高】

[1909~1997]小説家・文芸評論家。台湾の生まれ。本名、般若はんにゃ豊。昭和6年(1931)日本共産党入党するが、翌年検挙される。転向出獄ののち、雑誌「近代文学」の創刊に参加し、長編小説死霊しれい」を連載。他に「闇のなかの黒い馬」など。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「埴谷雄高」の意味・読み・例文・類語

はにや‐ゆたか【埴谷雄高】

  1. 評論家、小説家。台湾生まれ。「近代文学」の創刊にかかわり、以後内面的、抽象的思考を軸とした小説や権力主義を強く否定する評論などを書く。作品「死霊」「闇のなかの黒い馬」など。明治四二~平成九年(一九〇九‐九七

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「埴谷雄高」の意味・わかりやすい解説

埴谷雄高
はにやゆたか
(1909―1997)

小説家、評論家。本名般若豊(はんにゃゆたか)。明治42年12月19日(戸籍上は翌年1月1日)、旧植民地台湾で生まれ、13歳のとき東京に移住。そのころよりロシア文学に親しむ。1928年(昭和3)日本大学予科に入学、演劇活動を通じてアナキズムに関心を抱くが、まもなくマルクス主義に移り、左翼農民運動に参加。31年日本共産党に入党し、日本最初の農業綱領草案作成のメンバーになったが、翌年逮捕、豊多摩(とよたま)刑務所未決監で1年余りを過ごした。独房での思索とそこで読んだカントの『純粋理性批判』が後年の思想の核となったという。転向出獄後、語学、ドストエフスキー、悪魔学などにふけり、39年から2年間、同人誌『構想』に詩と論理を一体化させたアフォリズム『不合理ゆえに吾(われ)信ず』を連載する。46年(昭和21)平野謙(けん)、本多秋五(ほんだしゅうご)、荒正人(あらまさひと)、佐々木基一らと『近代文学』を創刊、壮大な構想の観念小説『死霊(しれい)』の連載を開始した。結核再発のため『死霊』は4年で中絶したが、55年ごろから、形而上(けいじじょう)学的な発想に基づく独自の文学論や、いっさいの権力の否定を唱える政治論文、その他さまざまなエッセイを、息の長い独特の文体で精力的に書き続け、『濠渠(ほりわり)と風車』(1957)以下の評論集や『幻視のなかの政治』(1960)にまとめた。70年、夢と妄想を宇宙に広げた短編集『闇(やみ)のなかの黒い馬』を刊行谷崎潤一郎賞を受けた。この間、自伝的エッセイ『影絵の世界』(1966)、『影絵の時代』(1977)なども出している。75年、26年間中絶のままになっていた『死霊』の5章「夢魔の世界」を発表して話題となり、81年6章、84年7章、さらに86年、8章「月光のなかで」、95年(平成7)に9章を発表した。平成9年2月19日死去。

[曾根博義]

『『埴谷雄高作品集』15巻・別巻1(1971~82・河出書房新社)』『『埴谷雄高全集』全19巻・別巻(1998~2001・講談社)』『白川正芳著『埴谷雄高論』増補版(1972・冬樹社)』『森川達也著『埴谷雄高論』(1968・審美社)』『立石伯著『埴谷雄高の世界』(1971・講談社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

20世紀日本人名事典 「埴谷雄高」の解説

埴谷 雄高
ハニヤ ユタカ

昭和・平成期の小説家,評論家



生年
明治42(1909)年12月19日(戸籍:明治43年1月1日)

没年
平成9(1997)年2月19日

出生地
台湾・新竹

出身地
福島県相馬郡小高町

本名
般若 豊(ハンニャ ユタカ)

学歴〔年〕
日本大学予科〔昭和3年〕中退

主な受賞名〔年〕
谷崎潤一郎賞(第6回)〔昭和45年〕「闇のなかの黒い馬」,日本文学大賞(第8回)〔昭和51年〕「死霊」,歴程賞(第28回)〔平成2年〕

経歴
中学1年の時、東京に転居。日大入学後、アナーキズムの影響を受け、昭和6年共産党に入党。農民運動に従事したが、7年に検挙され、8年に転向出獄。20年文芸評論家の平野謙らと「近代文学」を創刊し、形而上学的な主題を繰広げた「死霊」を連載。45年「闇の中の黒い馬」で谷崎潤一郎賞を受賞、その後「死霊」の執筆を再開し、51年日本文学大賞を受賞、第一次戦後派作家としての活動を続けた。評論家としてはスターリニズム批判の先駆的存在として’60年安保世代に大きな影響を与え、「永久革命者の悲哀」などの政治的考察を多く発表。著書にアフォリズム集「不合理ゆえに吾信ず」「幻視の中の政治」、短編集「虚空」「闇の中の黒い馬」のほか、「埴谷雄高作品集」(全15巻・別巻1 河出書房新社)「埴谷雄高評論選書」(全3巻 講談社)がある。平成12年福島県小高町に埴谷・島尾記念文学資料館がオープンした。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

百科事典マイペディア 「埴谷雄高」の意味・わかりやすい解説

埴谷雄高【はにやゆたか】

小説家,評論家。本名般若豊。台湾の新竹生れ。日大予科中退。少年時代ロシア文学を耽読。1932年不敬罪等で起訴,刑務所内でカントの《純粋理性批判》を読み,多大の影響を受ける。1939年,荒正人佐々木基一平野謙らと同人誌《構想》を創刊,アフォリズムによる詩と論理の融合を目指した《不合理ゆえに吾信ず》を発表。敗戦後すぐに《近代文学》を創刊,《死霊(しれい)》を連載,以後書き継がれるも未完。存在を探求した思想小説で,第五章まで(1951年)で日本文学大賞受賞。他に短編集《闇のなかの黒い馬》(谷崎潤一郎賞)など。
→関連項目岡本太郎戦後派高橋和巳

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「埴谷雄高」の意味・わかりやすい解説

埴谷雄高
はにやゆたか

[生]1910.1.1. 台湾,新竹
[没]1997.2.19. 東京,武蔵野
小説家,評論家。本名,般若 (はんにゃ) 豊。日本大学予科在学中に左翼運動で検挙されて中退 (1930) ,相次ぐ検挙,投獄ののち転向し,小説やアフォリズムを書きはじめた。 1946年『近代文学』創刊に参加,革命運動の意味分析,自我と存在の形而上学を追求した長編『死霊』 (46~49) を書きはじめ,戦後世代の思想形成に大きな影響を与えた。政治,社会に関する発言も多く,評論集『濠渠 (ほりわり) と風車』 (57) ,『幻視のなかの政治』 (60) ,『罠と拍車』 (62) などがある。その後,長い時期をおいて『死霊』第5章を 75年に発表し,日本文学大賞を受賞した。 81年には第6章,84年に第7章,86年に第8章,95年に第9章を発表したが作品としては未完に終った。ほかに短編集『虚空』 (1960) ,『闇のなかの黒い馬』 (70,谷崎潤一郎賞受賞) などがある。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「埴谷雄高」の解説

埴谷雄高 はにや-ゆたか

1909-1997 昭和-平成時代の小説家,評論家。
明治42年12月19日台湾新竹生まれ。昭和6年共産党に入党し,翌年検挙される。20年「近代文学」創刊に参加,人類や宇宙の全存在を問う長編小説「死霊」の連載をはじめる。51年「死霊 全5章」で日本文学大賞。平成7年9章を発表したが,未完におわる。思想面でもスターリニズム批判をふくむ多様な論争を展開して,戦後世代におおきな影響をあたえた。平成9年2月19日死去。87歳。日大予科中退。本名は般若(はんにゃ)豊。著作はほかに「幻視のなかの政治」「影絵の世界」「闇のなかの黒い馬」など。
【格言など】政治の幅はつねに生活の幅より狭い(「権力について」)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「埴谷雄高」の解説

埴谷 雄高 (はにや ゆたか)

生年月日:1909年12月19日
昭和時代;平成時代の小説家;評論家
1997年没

埴谷 雄高 (はにや ゆたか)

生年月日:1910年1月1日
昭和時代;平成時代の小説家;評論家
1997年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の埴谷雄高の言及

【死霊】より

…埴谷雄高(はにやゆたか)(1910‐97)の小説。《近代文学》1946年1月号~49年11月号に第4章までを連載したが中絶。…

※「埴谷雄高」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」