堺津を核に平安後期以降形成された港町。
平安後期、すでに堺は市場・港湾の役割を果す場所として発展しつつあったと思われるが、明確に港湾としての発達を示す史料は「経光卿記」貞永元年(一二三二)五月分の紙背文書である日吉社聖真子神人兼燈炉供御人并殿下御細工等解(後欠で年月日不詳)である。これによれば仁安三年(一一六八)頃、河内国丹南鋳物師集団の有力者広階忠光が鋳物師惣官職に補任されて以後、その職は広階家で相伝されていたが、建保三年(一二一五)頃から阿入が蔵人所に取入って惣官職をかすめ取ろうとし、さらには丹南鋳物師が諸国に赴き、廻船によって泉州堺に運込んでいた荷を無法にも差押えるなどして活動を妨害することがあったという。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
大阪府中南部にある歴史都市、また工業都市。大和(やまと)川を境に大阪市に南接する。1889年(明治22)市制施行。1920年(大正9)向井(むかい)、湊(みなと)の2町、1925年舳松(へのまつ)村、1926年三宝(さんぽう)村、1938年(昭和13)神石(かみいし)、百舌鳥(もず)、金岡(かなおか)、五箇荘(ごかのしょう)の4村、1942年浜寺(はまでら)、鳳(おおとり)の2町、踞尾(つくお)、八田荘(はったしょう)、深井(ふかい)、東百舌鳥の4村、1958年日置荘(ひきしょう)町、1959年泉ヶ丘町、1961年福泉町、1962年登美丘(とみおか)町を編入。1996年(平成8)中核市に移行。2005年(平成17)美原町(みはらちょう)を編入。2006年4月政令指定都市に移行、堺、中、東(ひがし)、西、南、北、美原の7区がつくられた。面積149.83平方キロメートル。人口82万6161(2020)。堺という地名は、摂津(せっつ)、和泉(いずみ)、河内(かわち)3国の境に位置することに由来する。
市域南部は標高約200メートルの泉北(せんぼく)丘陵が北西に傾斜して台地に続き、北部の海岸平野となって大阪湾に臨む。丘陵、台地の間は石津(いしづ)川の侵食谷で開析される。古来難波(なにわ)(大坂)と結ぶ交通の要地で、現在も海岸平野に南海電気鉄道南海本線、阪堺電気軌道(はんかいでんききどう)、台地にJR阪和線とこれらに交錯して南海電鉄高野(こうや)線と、丘陵地に新設の泉北高速鉄道が走る。また国道は26号、309号、310号、高速自動車道は阪和自動車道(美原ジャンクションで南阪奈道路と接続)、阪神高速道路堺線・湾岸線などが通る。地下鉄(大阪市高速電気軌道)も大阪市から御堂筋線(みどうすじせん)が中百舌鳥に延長された。
[位野木壽一]
平安時代中期から和歌の詞書(ことばがき)などに堺の名がみえ、平安末期から鎌倉時代にかけては塩湯浴(しおゆあみ)の地として知られ、熊野詣(もう)での宿駅である王子社が置かれていた。鎌倉後期に最勝光院(さいしょうこういん)領として摂津国堺庄(しょう)の名が現れ、ついで天王寺遍照光院(へんじょうこういん)領として和泉国堺庄がみえ、それぞれ堺の北庄・南庄とよばれた。なお、堺の総鎮守である開口神社(あぐちじんじゃ)が住吉社の別宮であったところから、海辺に発達した漁業集落は古くから住吉社と深い関係を有し、その庇護(ひご)のもとで魚貝類の販売に従事していた。また、鎌倉初期から日吉(ひえ)社聖真子神人(しょうじんしじにん)などを兼ねた蔵人所供御人(くろうどどころくごにん)の鋳物師(いもじ)が堺津を拠点として諸国に廻船(かいせん)で赴き、鉄製品その他の交易を行っていた。
畿内(きない)と瀬戸内海を結ぶ要衝の地にあり、その軍事的位置も高く、南北朝内乱期には南北両朝の争奪の的となった。明徳(めいとく)の乱(1391)の戦功により山名氏にかわって和泉・紀伊の守護となった大内義弘(よしひろ)は、堺の経営に力を入れ、堺の周りの堀もこのときにつくられた。義弘は応永の乱(おうえいのらん)(1399)で敗北したが、この際民家1万戸が兵火に焼かれたという。このころ、堺に出入りする船舶から関税を徴収、東大寺八幡宮(はちまんぐう)の修理料にあてた。かなりの数に上る廻船が立ち寄って、港町として繁栄していたことがうかがわれる。富裕な堺商人のなかには道祐(どうゆう)(?―1345)のように『論語集解(ろんごしっかい)』(1364)を出版する者もあった。
応仁(おうにん)の乱(1467~1477)後は、兵庫港にかわって、堺が遣明船(けんみんせん)の発着港となり、しだいに貿易の実権が兵庫から堺の商人の手に移っていった。また、乱で京都が荒廃したため、堺はこれにかわる物資の集散地となり、堺商人の活動は西日本一帯から朝鮮、琉球(りゅうきゅう)にまで及んだ。大永(たいえい)末、享禄(きょうろく)期の約5年間(1527~1532)、京都の室町幕府に対抗して、三好元長(もとなが)(1501―1532)は足利義維(あしかがよしつな)(12代将軍義晴の弟、1509―1573)を擁する「堺幕府」を打ち立てた。その後、細川晴元にかわってこの地に勢力を得た三好長慶(ながよし)(元長の子)は堺に屋形を構え、堺の富力を背景として畿内にその勢力を保った。堺の住民は周辺の武将に軍用金などを贈って町の安全を図り、卓越した経済力によって、町民の自治を推し進めた。南、北、東の三方に堀をつくり木戸を設け、牢人(ろうにん)を雇うなど自衛の態勢も整えた。町の自治を指導したのが会合衆(えごうしゅう)あるいは納屋衆(なやしゅう)とよばれた世襲的門閥支配層の有力商人たちであった。堺の勢力が絶頂期を迎えていた永禄(えいろく)年間(1558~1570)にこの地を訪れた宣教師は「堺はベニスのように執政官によって治められ、また多数の富裕な商人が住み、大なる特権と自由を有し共和国のごとき政治を行っている」と報告している。このような繁栄を背景に文化面でも優れた活動がみられ、ことに茶の湯では武野紹鴎(たけのじょうおう)や千利休(せんのりきゅう)が出て茶道を確立した。
1568年(永禄11)織田信長は上洛(じょうらく)にあたり、堺にも矢銭(やせん)2万貫を要求し、会合衆はいったんこれを拒否したが、和戦派の今井宗久(そうきゅう)らが信長に通じて、直轄地となり、松井友閑(ゆうかん)(生没年不詳)が堺奉行(ぶぎょう)としてその経営にあたった。豊臣(とよとみ)秀吉も信長同様、この地を直轄地とし、全国統一の経済的拠点としたが、大坂城建設の際に、京都、伏見(ふしみ)などの住民とともに、堺の商人にも大坂への移住を命じた。堺の周囲の堀も1586年(天正14)に埋められ、大坂夏の陣(1615)には戦火によって灰燼(かいじん)に帰した。復興後も長崎とともに糸割符(いとわっぷ)の特権を有して、京、大坂とその繁栄を競ったが、鎖国後は貿易の利を長崎に、商業も大坂に圧倒され、そのうえ1704年(宝永1)には新大和川が開かれて港が浅くなったため急速に衰退した。
幕末には1868年(慶応4)堺警備の土佐藩兵とフランス兵との間に衝突事件が生じた。1871年(明治4)の廃藩置県により堺県が設けられたが、1881年(明治14)に大阪府に編入された。1949年(昭和24)設立された大阪府立大学(現、大阪公立大学)がある。
[小林保夫]
中世「東洋のベニス」とうたわれた堺には、海外の文化技術が導入された。なかでも緞通(だんつう)、染色、線香や、刀剣、鉄砲の製造などは有名である。これらは明治以降の近代化にも伝統工業として残り、一部は転換した。緞通はその技術を残すとともに、多くは家庭用敷物製造に転じ、織物団地をつくって泉北丘陵に移った。染色は石津川筋に残り、線香は堺線香の名をとどめた。刀の製造はたばこ切り包丁に、さらに調理包丁に転じ、全国に堺包丁の名を高めている。鉄砲製造は、その鋳造技術を自転車部品製造に転換し、日本有数の産地となっている。
これらの伝統工業に対し、近代工業は明治当初の薩摩(さつま)藩の堺紡績所設置に始まり、大和川筋三宝地区にアルミ、伸銅、スコップなどの金属機械工業、化学薬品、精糖などの化学工業、さらに旧市内の南部地区に足袋(たび)、ミシン、冷暖房機、耕うん機などの織物、機械工業の発達をもたらした。府営堺臨海工業地域は1740万5000平方メートルに及び、鉄鋼、機械、造船、石油、電力、ガスなど約160社の大規模な重化学工業地域を形成した。市の製造品出荷額(2018)は3兆6316億円(府の20.7%)に上る。工業の発達に伴い、かつての近郊農業、とくに特産の石津ミツバなどの野菜栽培は衰退し、漁業もまた造成地による漁場の喪失、海水汚濁などで壊滅状態にある。
一方、第二次世界大戦後の住宅開発は台地、丘陵部に伸び、とくに泉北ニュータウンの建設は18万人を目標として進められ、大阪市のベッドタウンとしての性格を強めた。
[位野木壽一]
歴史の古い堺市には、史跡、古社寺、文化財などが多い。仁徳(にんとく)天皇の陵墓と伝承されている大山古墳(だいせんこふん)を中心とする百舌鳥古墳群(2019年世界遺産登録)、国指定史跡に黒姫山古墳や、国指定重要文化財の大野寺跡の土塔などがある。古社には白鳥神話の大鳥大社、桜井神社(拝殿は国宝)、開口神社など、古寺には行基(ぎょうき)ゆかりの家原寺(えばらじ)のほか、大安寺、妙国寺、法道寺などがあり、国指定重要文化財を蔵するところも多い。民家の山口家住宅、高林家住宅も国の重要文化財。堺の文化を展示する施設に堺市博物館と泉北すえむら資料館が設けられ、2000年には複合文化施設である堺市立文化館が開館している。
年中行事も多彩で、正月行事に百舌鳥神社の古式弓道射初式、各社の左義長(さぎちょう)(どんど)、2月の節分には蜂田神社(はちたじんじゃ)の鈴占(すずうらない)神事、同下旬には南宗寺(なんしゅうじ)で千利休忌が催される。春、浅香山浄水場の「つつじの通り抜け」や方違神社(ほうちがいじんじゃ)の粽祭(ちまきまつり)、夏には各社の夏祭のうち大鳥神社の神輿(みこし)の「お祓(はらい)」(7月31日)、住吉大社神輿の「川渡御(かわとぎょ)」(8月1日)や大浜の「大魚夜市(おおうおよいち)」が有名。秋には桜井神社の「こおどり」(国の選択無形民俗文化財)や南蛮行列でにぎわう「堺まつり」(10月第3日曜日とその前日)、農業祭(11月23日)があり、12月14日の石津太神社(いわつたじんじゃ)の「やっさいほっさい」(火渡り神事)で年も暮れる。
[位野木壽一]
『豊田武著『堺』(1957・至文堂)』▽『『堺市史 続編』全6巻(1971~1976・堺市)』▽『徳永真一郎著『堺歴史散歩』(1971・創元社)』
大阪府中部の市。北は大阪市に接する。2005年2月旧堺市が東に接する美原(みはら)町を編入して成立した。06年4月政令指定都市に移行し,堺,中,東,西,南,北,美原の7区が置かれた。人口84万1966(2010)。
堺市の大部分を占める旧市。1889年市制。人口79万2018(2000)。西は大阪湾に臨み,和泉海岸平野に市街が展開する。市街の東部は低中位の洪積台地にあたり,仁徳陵をはじめ大小約60の古墳が集中する。堺が繁栄し始めたのは,南北朝時代に南朝方の西国への拠点となってからである。応仁の乱以後,海外への窓口となり,その富を背景にして自治都市に発展したが,16世紀末豊臣秀吉の命によって商人が大坂へ移されたため,堺の繁栄は大坂へ移ることになった。江戸時代末までの堺の町は環濠(土居川)の内部に限られ,これが都市の核(現在の旧市街地)に相当する。旧市街には,《延喜式》に載る古社で住吉神社の別宮となった開口(あぐち)神社や,明治初年から同14年まで堺県庁がおかれていた本願寺堺別院がある。1900年に南海高野線が,さらに30年に阪和線が開通するに及んで旧市街の東部に都市化が始まった。第2次大戦後には市営・府営,公団の住宅団地が建設されて市街地は東部,南部へ拡大し,64年からは市域南東部の泉北丘陵に泉北ニュータウンが建設された。官公庁の多くは環濠内から南海高野線堺東駅周辺に移動し,百貨店や商店も同駅前に進出したため,市の中心が旧市街から東へ移ることになった。阪和自動車道に三つのインターチェンジがある。
産業には,中世以来の伝統産業である刃物業のほか,明治に入って鉄砲鍛冶からの転業によって始まった自転車産業がある。堺緞通として知られる敷物業や,市内石津川流域に展開している注染業など繊維関連産業も特色のある地場産業である。また,大阪府が大阪経済の地盤沈下を回復するため,1958年以降大和川河口から石津川河口までの間の海面を埋め立て,素材型中心の重化学工業を誘致して堺・泉北コンビナートを造成した。新日本製鉄,日立造船,三井東圧(現,三井化学),大阪瓦斯,関西電力などの大企業に加え,中小企業団地も立地し,大阪市に次いで府下2位(1995)の工業出荷額をあげている。
執筆者:秋山 道雄
現在の堺市周辺には,大規模な四ッ池弥生遺跡や,仁徳陵を中心とする百舌鳥(もず)古墳群,無数の陶邑(すえむら)古窯址群,奈良時代の僧行基の出生地と伝える家原寺(えばらでら)などがあり,古くから開かれた地であったことがわかる。堺という地名は,仮名では1045年(寛徳2)藤原定頼の歌集に〈さか井〉とあらわされているのが初見で,1081年(永保1)の《藤原為房卿記》には〈和泉(いずみ)堺之小堂〉と見える。この小堂は,平安時代にさかんになった熊野参詣路に設けられた九十九王子の一つであって,摂津,和泉,河内の3国の国境(くにざかい)に当たっていたので,堺の名称がつけられた。
中世初期には荘園となり,北荘(摂津),南荘(和泉)と二つの集落に分けられており,南北両荘をあわせては堺荘と呼ばれていた。一漁港にすぎなかった堺は,南北朝時代から背後に摂・河・泉をひかえ畿内と瀬戸内海を結ぶ港として,軍事的・政治的な要地となり,急速に都市的発展をとげた。文化の面でも1364年(正平19・貞治3)《論語集解》や,69年(正平24・応安2)《五灯会元》などの刊行も行われた。また鎌倉時代の桜井神社拝殿や法道寺食堂(じきどう),南北朝時代の法道寺多宝塔,日部(くさべ)神社の正平24年の銘をもつ石灯籠などからも,その発展の姿がうかがえる。99年(応永6),堺を中心として大内義弘が室町幕府と戦った応永の乱では,焼失した民家1万戸と記されていることからも,その繁栄ぶりをうかがうことができる。このように経済的に富裕な町であったため,東寺,四天王寺,相国寺,住吉神社の所領となり,あるいは大内,山名,細川などの守護大名の支配地,さらに幕府の直轄地となるなど,しきりに領主勢力の交替をみた。応仁の乱後,畠山氏や細川氏の一族間の権力争い,ついで三好・松永の争いなどのため堺は幾度か大軍を送迎し,市内にもたびたび陣所が構えられた。
1465年(寛正6)兵庫を出発した遣明船は,細川氏と大内氏が対立することになったので,大内氏の勢力下であった瀬戸内海をさけ,四国の南を迂回して69年(文明1)堺に帰着した。以後,堺は遣明船の発着港となり,一躍大陸貿易港へと発展し,博多と並んで明,朝鮮,琉球(沖縄)などとの海外貿易を独占した。とくに堺商人は遣明船の請負額を高め,独占的にその権利をにぎり,この貿易によってもたらされる莫大な利益のほか,出入船舶の関税や商業の利益,さらには金融業を営んだ土倉(どそう),納屋(なや),問丸(といまる)などの存在で,堺の商業資本的な富の増殖は著しいものがあった。堺の商人を中心とする町民たちは,領主が弱体化したことを利用し,その経済的な富を基盤として,納屋貸十人衆を代表とする地下請(じげうけ)を行い,町内の公事(くじ)訴訟の決裁も十人衆が行うというような自治的な団結組織をつくり,都市自立の態勢を強化した。この自治的共同体組織を指導したのは納屋衆あるいは会合衆(えごうしゆう)と呼ばれる門閥的な豪商たちであった。町民たちは市街を兵火から守るため,南,北,東に濠をめぐらして町を囲み,傭兵隊を置き一種の要塞都市をつくりあげた。そして16世紀の半ばごろには,日本の都市史上では珍しい自由都市的な発展をとげ,その勢力が頂点に達したのは,1560年代(永禄年間)であった。
当時日本にいたキリスト教(イエズス会)の宣教師は,日本全国で堺の町より安全なところはない,町は堅固で西の方は海にのぞんでいて,他の側は深い濠で囲まれて常に水がみちている,ベネチアのように執政官によって治められ,共和国のようである,などと手紙に書いている。このように急速に発展した商品経済の伸張と南蛮貿易の発展によって,堺は一段と経済的繁栄をきたした。
この繁栄のもとで,文化,芸能,技術の面でも,《古今集》の秘義を宗祇から伝えられた〈堺伝授〉の牡丹花肖柏(ぼたんかしようはく)や,能楽喜多流の祖喜多七大夫,隆達節をはじめた高三隆達(たかさぶりゆうたつ)などが活躍した。また車屋道晰(どうせき)による謡曲車屋本の出版,阿佐井野宗瑞(そうずい)による《医書大全》10冊の出版をはじめとして,天文版論語,年代記などの自費出版も堺の商人たちによって行われている。また,北向道陳(きたむきどうちん),武野紹鷗(たけのじようおう),津田宗達,千宗易(利休),津田宗及,今井宗久,山上(やまのうえ)宗二などは茶道史上に不朽の名をとどめている。さらに堺鉄砲,織物,医術など技術の面も高度の発達をとげた。
1568年(永禄11)織田信長は待望の入洛を果たすと,堺に矢銭(屋銭)2万貫を要求してきた。会合衆たちは,これを拒絶し信長と一戦を構える準備をした。ところが堺がたのみにしていた三好三人衆が信長にやぶれて四国へ退去したこともあって,ついに信長の武力的圧力によって自治の伝統も打ちやぶられ,69年には信長の直轄地となり代官を迎えるようになった。
執筆者:尼見 清市
信長に屈服した堺は,以後近世武家政権の直轄地となり,堺奉行(政所)によって支配された。堺は荘園制下に遠隔地商業の中心地となり,海外貿易によって発展し,輸入品を原材料とした高級衣料,薬品,雑貨や鉄砲,包丁などの武具・金具を特産品としていた。また,紀州街道や高野街道,奈良へ至る長尾街道や竹之内街道も堺から放射状に伸びていた。このような伝統的手工業技術の高さと,海陸交通の要衝としての位置が,武家統一政権を支える軍事的・経済的基盤となったのである。秀吉が1586年(天正14)自治都市の象徴であった環濠を埋めさせたのは有名であるが,1615年(元和1)大坂夏の陣後の復興時に,この濠も復元された。この新しい都市建設は,北庄,中筋,舳松(へのまつ),湊村(堺回り4ヵ村)の一部を新たに編入し,北庄,中筋,舳松の村民を居住させて農人(のうにん)町を設定し,その外側に濠をめぐらしたのである。濠外に置かれ,農業のほか,斃牛馬処理と行刑役とを負担させられた被差別部落の存在は,近世都市の身分制的構造をよく示している。
堺の中心部は東西に走る大小路と南北の大道筋によって区分され,これらと並行して走る道筋の向かいあった長方形の両側町179によって構成されていた。この詳細は〈元禄二年堺大絵図〉によって知ることができる。各町は大きく南北両郷(後に南北両組)に分けられて運営され,各惣会所において惣年寄5名,惣代3名,職事3名が任務にあたっていた。初期の惣年寄は糸割符年寄を兼ねる門閥特権商人であったが,貿易体制の変化,生糸貿易の衰退によって17世紀後期には新興町人勢力と交替した。1704年(宝永1)の大和川の付け替えは河口に膨大な土砂を運び,新田を形成するとともに船舶の入津を困難とさせ,堺の衰退を決定的にした。18世紀の末,堺奉行贄正寿(にえまさとし)は堺港の浚渫に成果をあげたが,堺の繁栄は戻らず,むしろ周辺泉北農村の発展のほうが著しかった。
執筆者:菅原 憲二
堺市東端の旧町。旧南河内郡所属。人口3万7618(2000)。南東部は羽曳野丘陵からなり,北西部には狭山扇状地が広がる。大小300の溜池があり,稲作中心の農業が盛んであったが,近年は工場や住宅の建設が進んでいる。特に工業は1960年代後半以降大きく発展し,機械,金属,木材関連の事業所が多く,68年には南部に木工団地が完成した。5世紀中ごろと推定される前方後円墳黒姫山古墳(史)がある。国道309号線が通じる。
執筆者:松原 宏
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
大阪府の中央西南部に位置し,大阪湾に臨む。摂津・河内・和泉3国の国境に位置するところから堺の名があてられた。大山(だいせん)古墳など多数の古墳が存在する。堺浦は内海航路の拠点で,南北朝期には双方の争奪戦が展開され,応仁・文明の乱後も海外貿易・商工業都市として繁栄。町人自治のもとに茶の湯をはじめとする町衆文化が創造されたが,江戸時代には幕領となった。さらに,鎖国や大坂の発展で港湾機能は低下した。1889年(明治22)市制施行。重化学工業都市となっている。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…条里は6地域で復元されているが,全体に8方向の条里が入り組み,郡単位の統一性はない。 伝仁徳陵,伝履中陵など4世紀末~5世紀の大古墳の集中する百舌鳥(もず)古墳群(堺市),5世紀後半ごろからの古代須恵器生産の中心であった陶邑(すえむら)古窯址群(泉北丘陵),6世紀の群集墳の信太千塚(和泉市)や陶器千塚(堺市)などの遺跡も多く,茅渟(ちぬ)山屯倉(みやけ)も比定地は確定していないがこの地域に所在した。記紀によると,允恭(天皇)の愛妃衣通(そとおり)姫が茅渟宮に住んだという伝承や,在地の有力首長根使主(ねのおみ)の反乱伝承も伝えられている。…
…大阪府堺市鳳北町に鎮座。大鳥連祖(おおとりむらじのみおや)神と,1957年増祀された日本武(やまとたける)尊をまつる。…
…このように,いろいろな機会に舶載された唐綾,唐錦,金襴,緞子,印金,羅,紗,繻子,北絹などの裂類は貴顕の人々に珍重愛好され,また多くの人々の染織に対する視野をひろめ,ひいては日本の染織に刺激を与え,その発達に大いに役立ったのである。名物裂
[近世初期]
中世末期から近世初期に隆盛した機業地は,京都のほか山口と博多と堺とがあった。山口は正平年間(1346‐70)に大内弘世が京都にならって町づくりをし,都の文化を導入したことから織物の発達をみたといわれる。…
…堺は港町として14世紀南北朝の時代から発展し,15~16世紀室町時代に最盛期を迎えるに伴って,その経済力を背景とした素封家により,いくつかの開版事業がなされた。一般にはそれらの開版者名や開版の年号を冠して,〈阿佐井野版〉とか,〈正平版〉〈天文版〉などと称したが,〈堺版〉〈堺本〉と総称する。…
…第2次大戦後,とくに高度経済成長期には石油化学工業など重化学工業が急成長して瀬戸内工業地域に発展した。沿岸には特定重要港湾が7港(大阪,堺泉北,神戸,姫路,徳山下松(くだまつ),下関,北九州)と重要港湾が28港(水島,高松,福山,広島,呉,松山,大分,苅田など)あり,年間約4万隻(1982)の外航商船が入港し,全国の4割以上を占めている。北部の複雑な海域を避けて,主として単調な南部に外航商船など大型船の推薦航路があるが,全国旅客船航路の6割が内海に集中するほか,備讃瀬戸一帯でも5000隻の出漁船があり,本土~島,島~島の連絡船,各種内航貨物船,阪神~四国・九州の大型フェリーなどで錯綜している。…
…のちに鉄砲は発祥の地にちなんで種子島とも呼ばれた。種子島の技術は紀州根来(ねごろ)の杉坊妙算や堺の橘屋又三郎によって畿内へ伝えられ,さらに日本各地に広まっていった。また島津義久,将軍足利義晴らを経て近江の国友(くにとも)へ伝えられ,国友鉄砲鍛冶の起源ともなった。…
…中国路は,おおむね兵庫を発航地とし,瀬戸内海すなわち中国路を通過して博多に至り,五島に集結して適当な季節風を待ち,東シナ海を一気に横断して中国浙江省の寧波(ニンポー)付近に達する航路である。これに対し,南海路は堺を発航地とし,四国南岸土佐沖を通過して薩摩の坊ノ津に至り,九州西岸を北上していったん博多に入り,さらに五島に出てから寧波に達する航路である。中国路と同様に北東の季節風を利用したが,春と秋とでは方向が多少異なっていたから,春は五島の奈留浦から,秋は北の肥前大島小豆浦(的山(あずち)湾)から外洋に出た。…
…このようにあらゆる権力の支配,社会の規制から自由であることを社会的に承認されていた楽市場は,中世の自由都市,自治都市成立の原点を占める存在であり,当時十楽(極楽)の津(港)と呼ばれた伊勢桑名は,自治都市として権力の支配を拒否していた。事実,中世の自由都市,自治都市を代表する堺や博多も楽市ないしは楽津と呼ばれる存在であったことは,1587年豊臣秀吉が博多に出した法令が,楽市という言葉はないものの,その内容はまったく保証型楽市令と同じものであったことからも確認される。ところで,このような権力と無縁の存在である楽市場が,その機能を楽市令というかたちで権力に保証されたり,さらに権力によって利用されたりするということは,すでに本来の楽市としての性格を放棄したことを意味する。…
※「堺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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