中国,漢代および唐の中期以降の歴代王朝が実施した塩の専売法とその取締法。中国の産塩地は,東部海岸(海塩),山西省解州の塩池(解塩),四川の地下塩(井塩),長城線以北の塩湖など多様であるが,広大な国土の割には地域的にかたよっている。そうした自然条件は塩の専売制を実施するのに好都合であった。
先秦の諸国も塩,とくに解州の解塩を重要な商品として,そこから利益を得,また政治的に利用しようとした。また春秋戦国時代の山東の大国斉は海塩の利益で国力を養ったとされる。本格的な塩の専売は,西域遠征などで財政の窮乏した漢の武帝の前119年(元狩4)に実施された。生産者は官から生産手段を与えられるとともに,できた塩はすべて官に納入した。これは同時に塩利をむさぼる豪商を抑える目的もあわせもった。当時の議論は桓寛の《塩鉄論》にみられる。武帝の塩専売の詳細は不明であるが,前漢一代はだいたい専売が行われた。後漢から隋代に至る分裂の時代は,全国的な専売法を実施する状況もなく,各王朝が商品として塩に課税する程度にとどまっていた。唐の中期,再び塩の専売が本格化する。755年(天宝14)の安史の乱による軍費調達のため,河北で顔真卿が食塩の官売をはじめ,その経験をふまえて758年(乾元1),塩鉄使の第五琦(だいごき)が解塩と井塩,ついで海塩の専売制を断行した。産塩地には榷塩院(かくえんいん)を置き,亭戸,畦(けい)戸などと呼ばれる生産者を隷属させて,全生産を管理し,できた塩に原価の数十倍から100倍に及ぶ専売益金をかけて売りさばいた。売りさばきには官がみずから運搬販売する官売法と,部分的に商人に請け負わす通商法があった。8世紀の後半から9世紀,塩の専売収入は歳入の半ばに達し,揚州の製塩場と大運河を確保することで,斜陽の唐王朝はかろうじて命脈を保った。唐が滅亡したあと,五代の中原王朝や江南の南唐なども塩税に依存する度合が強く,密売(私塩)を防ぐ細密な刑法を制定し,試行錯誤的に各種の塩税法を発布した。
960年(建隆1)に始まる宋王朝は,新しい君主独裁体制を支える官員と軍隊の給与として米穀などの現物のほかに大量の貨幣を必要とし,その財源を専売益金,とくに塩のそれに仰いだ。唐までの財政危機対策として採用された塩法は,ここに至ってその性格を変え,国家財政を支える柱となった。宋は解塩,海塩,井塩などについて厳重な販売区域(行塩地)を定め,官売,通商を使いわけ,法制を整備して以後清朝に至る塩法の骨格を完成させた。
塩法はまた国家の諸政策と組み合わされることで複雑化する。とくに宋と明では北方の異民族防衛のため辺境に多数の軍隊が常駐したが,その糧秣を供給する代価として商人に塩の販売手形が支給された。宋では入中または折中,明では開中と呼ばれる。明代の開中法は,糧秣を辺境に納入した商人に倉鈔と呼ばれる手形を発行し,商人はそれを産塩地の官署に持参して,塩引と交換して塩の支給を受けた。塩引は塩販売の免許証で,200斤の塩袋につき1通ときめられ,これがなければ私塩とみなされた。また宋以後の専売塩は貨幣で取引されたから,南宋や元代の紙幣の信用も塩法によって保証される側面があった。一方,政府の都合により,恣意的に高価で質の悪い専売塩を買わされる一般人民は必然的に安価で良質のやみ塩(私塩)を歓迎する。私塩販売者たちは,王朝の警察,軍隊と対抗できる巨大な秘密組織を作り,厳重な法網をくぐってやみ塩の販売に従事した。とりわけ生産地から遠い淮南(わいなん)塩の販売区である江西省の贛水(かんすい)や湖南省の湘水の流域は彼らの活躍の舞台となり,唐末の黄巣から清の太平天国に至るまで,王朝末期の反体制運動の中核にはつねに私塩販売者が位置を占めることになった。
異民族王朝の元にあっても基本的に宋の塩法が継承されたが,明に至ると変化が生じる。明の開中法にもさまざまな曲折があったが,17世紀に入ると,巨大な資本を握る山西や徽州の商人が当時最大の産塩高を持つ淮南塩の集散地揚州に集まり,国家に代わって生産者を直接支配するようになる。開中法で塩引の量が増加しすぎ,その対策として特定の商人に塩引の割当制限を行ったことから,逆に塩販売の権利が窩本(わほん)と呼ばれる一種の株(塩引独占権)に変わっていった。明中期から清初への銀経済と好況の波にのり,揚州の塩商の活動はめざましく,文学,芸術のパトロンともなり,また塩商の中から学者,政治家を輩出することになる。
しかし,19世紀に入ると,中国経済の崩壊とともにこうした塩法も行き詰まり,1830年(道光10)両江総督の陶澍によって改革が試みられた。それは豪商の特権を廃棄し,銀を塩政関係の役所に納入すればだれでも塩が販売できる制度であったが,必ずしも十分の効果はあがらなかった。民国時代に入ると塩税が借款の担保となり,外国人の顧問が容喙(ようかい)し,1914年以後たびたび新しい条例が発布された。さらに1931年には新塩法が公布されて,従来の塩引法が廃止された。人民共和国では重要塩場は国営化され,清までの専売法と性格を異にしている。
→塩徒
執筆者:梅原 郁
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
中国で、塩の密売を取り締まるために制定された刑法。漢の武帝(ぶてい)は外征や土木工事などに多額の経費を費やし、財政が窮迫したため、紀元前119年、塩の専売を始めた。中国における塩専売の最初である。以後、置廃が繰り返されたが、758年唐の粛宗(しゅくそう)のときふたたび専売が始められ、その後、千百数十年にわたって専売が続けられた。塩の専売を維持するためには、密売を取り締まらなければ、専売収入を確保することがむずかしい。この目的のために塩法が制定された。漢の武帝のときすでに制定されたが、ほぼ完備したのは宋(そう)代である。中国では唐末五代から独裁政治が発達し、宋代にいちおう確立し、それを支えたのが塩の専売収入であったからである。独裁政治の基盤は膨大な軍隊と官僚とであった。そこで彼らの生計を保障することが、独裁君主の重大な責務となってきた。ところが、これまでの正税、つまり土地から徴収する租税では賄いきれないので、茶、塩、鉄、酒、明礬(みょうばん)などの日用必需品、ことに塩の専売収入によって、この膨大な経費を捻出(ねんしゅつ)しようとした。ここから茶、塩などが専売にされた。塩を専売にすると、値段は数十倍から100倍にも暴騰した。その結果、宋代以後清(しん)代まで、塩の専売収入は国家の全歳入の3分の1から2分の1を占め、ときには80%にも達した。国家の財政が窮乏すると、とかくその不足を塩価に転嫁しがちで、そのために塩価がうなぎ上りに高くなった。
塩価の暴騰は人民を苦しめ、安価な塩があればそれを求めようとする。そこで狡猾(こうかつ)な人間は、塩を密売して莫大(ばくだい)な利益をあげようとする。官塩は高価なうえに質が悪い。それに反して密売塩は質がよく、値段も官塩の半価であった。ここから闇(やみ)塩が横行し、専売収入が打撃を受けた。そこで政府はますます塩法を厳重にして、密売者を取り締まろうとした。しかし、彼らも互いに徒党を組み、秘密結社を結成して密売を行った。ときには数千ないし1万人に及ぶ者が、武器を携帯して密売に出かけた。役所の小役人や下級の軍人には秘密結社の入会者が多く、役所の情報入手も容易であったので、税関の厳重な検査も賄賂(わいろ)で難なく通過し、官憲の討伐も免れることができた。彼らは塩徒、塩賊、塩梟(えんきょう)とよばれ、政治の綱紀が緩み、あるいは弾圧が強くなると、決起して反乱を起こした。宋代以後、平時においても反乱が多いのはこのためである。この反乱者のなかから開国の天子も現れた。五代後梁(こうりょう)の太祖朱全忠(しゅぜんちゅう)や明(みん)の太祖朱元璋(しゅげんしょう)らは、塩の密売者の統領であった。塩の密売者がいかに大きな勢力をもっていたかが察せられる。
塩法は時代が下るとともに周到細密になった。唐代以前、中世の法律は、儒教主義により家族や社会の上下の秩序を維持しようとすることに重点があり、それを犯す者は重く処罰された。ところが宋代以後では、塩の専売など、独裁政治の経済統制を破る者をいかにして取り締まるかということに法律の重点が移り、破る者は重刑に処せられた。塩法は中世と近世とを区別する典型的な刑法なのである。
[佐伯 富]
『佐伯富著『清代塩政の研究』(1956・東洋史研究会)』
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