しお‐た しほ‥【塩田】
〘名〙 (「しおだ」とも)
海水から塩をとるために、田のように整地された
砂浜。えんでん。
えん‐でん【塩田】
〘名〙 塩を製造するために、
塩釜に入れて煮る濃い
鹹水(かんすい)を得る
目的で設けられた
海辺の砂面。しおはま。→
塩田法。〔長宗我部氏掟書(1596)〕
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
デジタル大辞泉
「塩田」の意味・読み・例文・類語
えん‐でん【塩田】
海水から塩をとるために砂浜などに設けた区画。日光で海水を濃縮し、鹹水を得る所。塩浜。
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
塩田【えんでん】
海水から塩をとるために作られた砂,粘土などによる田のような区画。アフリカ,西アジア,東南アジア,中米など雨量が少なく日射の強い地域では,太陽熱と風を利用し,塩田で順次海水を濃縮し,塩の結晶を得ることもでき,これを天日製塩という。気象条件の恵まれぬ日本では,塩田で海水をある程度濃縮し,火力による製塩工程に送っていた。日本の塩田は古くは全国的にさまざまな様式のものがみられたが,17世紀初頭以降瀬戸内海沿岸が中心となり,また1950年代以降はほとんど流下式塩田(流下盤・枝条架法)のみとなった。流下式とはまず粘土や塩化ビニルなどで作ったゆるやかな傾斜盤の表面に小砂利を敷きつめ,海水をこの上に数回流して蒸発濃縮させる。次に枝条架という5〜7mのやぐらに1m間隔で竹の枝条を数段つるしたものを,風向きに直角に立て,海水を雨のように落下させ,風を利用して濃縮し,これを繰り返して塩分15〜20%の濃縮塩水を得て製塩工場に送る。しかしこれも地代の面でコストがかかるため,1972年にはイオン交換法に切りかえられ,日本の塩田製塩は姿を消した。瀬戸内の赤穂など主要塩田生産地では,当時の塩田製塩の技術や工程を紹介する施設が作られている。→製塩
→関連項目赤穂塩田|赤穂藩|行徳塩田|竹原塩田|撫養塩田
塩田【しおた】
長野県上田市の一地区。小県(ちいさがた)郡の旧町で,主集落は上田盆地の南西部を占める水田地帯にある。特産に薬用ニンジンがある。西部の別所温泉まで上田市内から上田電鉄別所線が通じる。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
塩田
しおた
佐賀県南西部,嬉野市北部の旧町域。塩田川中流域にある。 1918年町制。 1956年五町田村,久間村と合体。 2006年嬉野町と合体して嬉野市となる。かつては長崎街道の宿場町で,塩田川水運終点の河港もあり,水陸交通の要地としてにぎわった。享保2 (1717) 年に街道が武雄経由に変更されてからは商工業地としての町勢は衰えた。明治以後も,陸揚げした天草石を砕石する陶磁器原料製造業が盛んとなり,有田など県内外の窯業地に原料を供給。清酒工場もある。周辺部では米,ミカンを栽培する。唐泉山にはシイの天然林がある。江戸時代末期の建築物である西岡家住宅は国の重要文化財に,杉光家住宅は国の登録有形文化財に指定。
塩田
えんでん
salt pit
太陽熱や風で海水の水分を蒸発させ,(1) 塩,あるいは (2) 製塩の原料 (濃縮鹹水) をとる設備。 (1) は天日塩田で,世界各地の高温乾燥地帯に発達しているが,降雨量の多い日本の塩田は (2) に属する。日本には塩田地盤を満潮面より高いところに造る揚浜式塩田,中等水位に設ける入浜式塩田,枝条架を利用した流下式塩田の3種があり,瀬戸内の坂出,赤穂,鳴門,三田尻などに集中的に発達,1950年代からほとんど流下式に代ったが,70年代からイオン交換膜法製塩が採用されるに及んで工場団地や住宅地などに変貌している。
塩田
しおだ
長野県中部,上田市の地区。旧町名。 1970年上田市に編入。上田盆地を北流する千曲川左岸にあり,盆地の一部と平坦部の塩田平を含む地域で,早くから水田が開け,近世は上田藩の穀倉となった。鎌倉時代の禅寺が多く,国宝の安楽寺八角三重塔をはじめ重要文化財の中禅寺薬師堂,常楽寺多宝塔などがあり,「信州の鎌倉」といわれる。また村上氏の前線基地であった塩田城跡がある。別所温泉の所在地でもある。薬用ニンジン,塩田鯉を特産。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
塩田
えんでん
塩釜で煮つめるためにあらかじめ濃縮された海水(鹹水(かんすい))をえる浜。古くは塩浜とよばれ,奈良時代にその存在が確認される。塩浜のなかでは,自然浜を用いたものが最も古く,中世にはこれと並んで揚浜が主流を占めていたとされる。前者は満潮時に塩分の付着した浜砂を干潮時に集める方式,後者は人力によって海水を撒布したのち,乾燥させた砂を集める方式で,どちらもそのあと海水を注いで濃い塩水を溶出する。近世に入ると,瀬戸内海地域に堤防と海水を導き入れる浜溝とを備えた入浜が出現し,全国塩業の中心となった。入浜式塩田は,第2次大戦後,流下式塩田への切換えによって消滅。さらにイオン交換膜法が開発され,塩田そのものが姿を消した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
えんでん【塩田】
食塩を生産する工程において,砂を媒体として海水を濃縮する土地と設備を塩田という。外国では岩塩を産出し,あるいは海塩を生産するとしても蒸発条件がよく,天日を利用して簡単に生産しうるが,日本は岩塩も産出せず,蒸発条件もよくないから,1971年ごろまでは必要食塩のすべてを塩田によって生産した。
【種類】
古来からの製塩法を分類すると図のようになるが,このうち(6)~(13)が塩田である。ただし(17)も通常流下式塩田という。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
塩田
海水から塩をとるためにつくられた砂の田です。近世の瀬戸内海沿岸では海水を砂にまく揚浜式塩田[あげはましきえんでん]から、水路を使って自然に海水を砂にしみこませる入浜式塩田[いりはましきえんでん]に変わっていきます。
出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報
世界大百科事典内の塩田の言及
【赤穂塩田】より
…17世紀初頭の古地図と慶長検地帳によると,赤穂湾岸一帯に約100haの古式入浜の存在が確認できる。1625年(寛永2)ころ姫路藩東部に〈入浜塩田〉が出現し,45年(正保2)から赤穂でも造成が始まる。入浜塩田とは平均1.5haを生産・経営の単位とし,これに塩釜1基を合わせて一軒前といい,女,子ども合わせて約10人を前貸制賃労働として雇用した。…
【瀬戸内海】より
…高度経済成長期以降,多くの資金や労働力を必要とする果樹やイグサの栽培は,より安価な山梨,福島(モモ)や熊本(イグサ)などへと主産地が移動する傾向がある。一方,雨の少ないことに加えて干満の差が2~4mと大きく,干潟ができやすいため,近世には播州赤穂(あこう)をはじめとして入浜式の塩田が発達し,藩の奨励,水運の便のよさもあって日本最大の塩の産地となった。塩田は明治以降も続けられていたが,1970年代に製塩法がイオン交換膜法に転換されて姿を消し,工場用地などとなった。…
【播磨国】より
… 播磨の産業としてはまず17世紀の塩業の展開があげられる。1600‐04年の間に加古郡高砂・荒井両村に塩田が開発され,つづいて印南郡曾根,大塩,的形から飾東郡木場村にかけて塩田が造られた。古式入浜塩田であったが,やがて寛永ごろ荒井村あたりで入浜塩田が創始された。…
【高知平野】より
…古代には狭義の高知平野の大部分は海で,その中に中生層からなる地塁が島をいくつか形成していたことが,紀貫之の《土佐日記》からわかる。ここに戦国末期から藩政期にかけて,塩田(しおた)と呼ばれる干拓新田が開発され,現在みられる高知平野となった。広義の範囲に含まれる香長平野は高燥で,その中の長岡台地は野中兼山の建設になる山田堰や用水路によって灌漑され,初めて水田化されたが,浦戸湾岸の狭義の高知平野はこれと対照的に低湿である。…
※「塩田」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報