旧中国における支配階級の称。古代社会に天子,諸侯,大夫,士,庶民の5階層があったという伝えに基づく。士以上は支配階級に属し,君主の庶民統治を助けるものであるが,ただし士大夫の語の意味するところは,時代によって異なる。
漢代までの士大夫の語は,文字どおりに士,すなわち下層の支配階級と,大夫すなわち上層の支配階級とを併せ指した。当時は軍事優先の社会であったので,士大夫は特に軍隊の幹部,将と士とを意味した。
士大夫なる語が特殊の意味をもって用いられるようになったのは,魏・晋以後,中世の貴族制度が成立してからである。ここでは士大夫は当時の世上に特権階級として認められた貴族を指し,また士族,世族,あるいは単に士と言い,あらゆる面において一般庶民と峻別された。このような傾向はすでに後漢の時代から現れていたが,魏の代に九品官人法が実施されてから,これが貴族の世襲化を擁護する盾となり,隋代にこの法が廃止された後も,なお唐一代,世襲貴族の跋扈(ばつこ)が続いた。
魏・晋以来政治上では易姓革命が相次ぎ,ことに南朝では一王朝の命脈がはなはだ短かった。しかるに士大夫はこのような政治の変革に超然として自己の地位を保ち,旧王朝を見送っては新王朝を迎えるのを常とした。かくして幾度となく革命を乗り切って,自己の家系を守り続けるのが士大夫の誇りであった。この古い歴史を持った名誉ある仲間には,庶民が参加することのできないのはもちろん,天子さえも拒否されるのであった。南斉武帝の寵臣紀僧真は出身が微賤であったので,天子の力で士大夫の社交界に迎え入れさせてもらいたいと懇願したが,武帝は,彼らの士大夫たる地位は朕が与えたものではないから,力になってやりたくてもできぬのだ,と答えた。もちろん天子は武力を握っているから,個々の士大夫の家を取り潰すことはできる。しかし士大夫階級を思いどおりに動かすことはできない。そして士大夫の助力によらなければ政治も人事も運営できない。しかも天子と士大夫と庶民とは,いわば次元の異なった世界に住んでいたのである。だから士大夫は革命の際に旧王朝に忠義立てする必要はなかった。梁武帝が南斉を(うば)った時,重臣の顔見遠が抗議して断食数日で死んだ。すると武帝は,朕が天命に従って即位したことが,士大夫と何の関係があるのか,と言って不快感を表した。この風は唐代まで続き,世人は天子よりも,北朝以来長い時代を生き抜いてきた名族,崔・盧2氏を尊んだ。
士大夫が尊崇された本来の意義は,世々学問を絶たず,教養ある文化人であった点にある。しかし時代が下るとともに,単に古い家系を誇るのみで,無教養な貴族が多く現れて,世人の軽視を招いた。隋代の科挙はこの弊を匡(ただ)すために開始されたもので,唐代に入ると世人は単なる貴族士大夫よりも,科挙出身の新士大夫を尊敬するようになった。宋代に入り科挙万能の世となり,士大夫とはもっぱら教養ある文化人を指すこと,高尚な趣味の画を士大夫画と呼ぶ用法に見らるるごとくである。
執筆者:宮崎 市定
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一般に、旧中国社会で上流階級をさす語。古代には天子、諸侯、大夫、士、庶民の5階級があったと伝えるが、天子、諸侯は大小の君主で特別なものであるから除外すると、大夫と士が支配階級であり、被支配階級の庶民と対立した。統一国家、漢の下で士と庶民の別がなくなったが、新たに官吏と人民との別が生じ、官吏の地位が世襲的となり、士族と称せられ、六朝(りくちょう)を中心とする貴族政治の時代が出現した。宋(そう)代以後になると世襲貴族が没落し、かわって科挙による官僚階級が形成され、士大夫、読書人などと称せられた。彼らの間では学問とともに高雅な趣味が尊ばれ、たとえば彼らが余技として描く絵画は士大夫画(文人画)とよばれ、職業画家の絵よりも高く評価された。この形勢は清(しん)末まで続いた。
[宮崎市定]
中国前近代の支配階層。古代に天子,諸侯,大夫,士,庶民の5階層があり,士以上が支配階層にあたり,その士と大夫が熟したもの。ただ士大夫のあり方は時代によって異なる。六朝(りくちょう)期にあっては貴族階層がこれにあたり,宋代になると科挙に合格した進士(しんし)たちは官界の主要な地位を独占し,新しい政治や社会の担い手として士大夫階層と名づけられた。彼らは儒教の経典をはじめ,歴史に造詣が深く,詩文をつくるなど文化的・芸術的能力が高く,読書人,文人として遇された。彼らの担った文化を士大夫文化という。
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…何進はまた宦官勢力を一掃すべく山西方面の軍団長董卓(とうたく)に入朝を要請した。董卓は宦官たちを殺戮したのち朝権を握り,暴挙を行ったので,士大夫層は袁紹を盟主として董卓討滅の軍を起こした。呉の始祖である孫堅もこのとき袁紹の弟袁術(えんすい)の部下として活躍した。…
…唐末五代の動乱を平定して中国を統一した宋王朝は,従来の社会を再編成して新たな体制を作りあげた。そのもっとも重要なポイントは,社会の指導層がそれまでの貴族から士大夫という新興階級に移り,その頂点に強力な権力をもった皇帝が君臨したところにあった。士大夫とは,貴族のような固定的な階級ではなく,文化的には知識人,政治的には皇帝独裁制を支える官僚,経済的には地主であるような存在であるが,彼らに課せられた任務は,この時代に整備された科挙(官吏登用試験)を通過して政治にかかわり,その体得した学問を現実化してゆくことであった。…
…つづく太宗は,太祖の諸政策を継承するとともに,さらにいっそう強化して,宋朝の基盤をかためた。なかんずく,科挙の門をひろげて大量の知識人層を官僚に登用したことは,士大夫階級が政治,社会の指導層として進出する道を開くことになった。 宋朝は中国統一によって国内の平和と繁栄をもたらしたが,対外的にはつねに周辺の新興国家の圧迫をうけた。…
…二者,兼ね得べからざれば,魚を舎(す)て熊掌を取るものなり〉とは孟子の言葉である。料理が古代中国から士大夫の享楽であり,大事な教養と知識の一環を占めていたからであろう。殷の湯王の宰相伊尹(いいん)はもと庖宰(料理人)であったのを見いだされたものであり,また今日名料理の代名詞ともなっている易牙(えきが)は斉の桓公の料理人で,自分の子を蒸して君主の食に供してまで,その寵愛を得ようとしたことでも知られる。…
…中国における文人,士大夫(したいふ)の絵画。職業画家の専門の絵画に対して,儒教や詩文の教養を備えた文人の素人の絵画をいう。…
※「士大夫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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