日本古代の城柵。多賀柵(たがのさく)ともいう。東北に設けられた諸城柵の中にあって長期間にわたって最も重要な役割を果たした。その遺跡は,宮城県多賀城市市川,浮島の地にある。江戸時代から,日本三古碑の一つ多賀城碑が存在することや,瓦が多数出土することからこの地が多賀城の跡であることが知られていた。
多賀城の創建は,六国史等に明示されていない。おそらく8世紀初頭から前半にかけての時期にはすでに建造されていたと考えられるが断定はできない。《続日本紀》の養老年間(717-724)から記載のみられる〈鎮所〉〈陸奥鎮所〉が多賀城の前身であるとするのが通説であるが,その性格づけ等未解決の問題も残されている。一方多賀城の正面に立つ多賀城碑には,724年(神亀1)大野東人の創建と記されている。ただしこの碑自体偽作説があるため,この記載は資料として従来採用されていなかった。しかし再検討の結果,この碑を真作とする見解も提示されており,724年創建の可能性もある。《続日本紀》に737年(天平9)鎮守府将軍大野東人(あずまひと)が,後の秋田城の地に移った出羽柵と多賀城との直通路を開こうとしたという記載がある。おそらく東人は陸奥,出羽両国の国府間を直接結ぼうと意図したものと考えられる。〈多賀柵〉としてではあるが,これが文献での初見である。下って780年(宝亀11)には,陸奥国北辺にすでに伊治城が設けられているにもかかわらず,国内が蝦夷により侵されることから,覚鱉(かくべつ)城造営の議がもちあがった。そこで按察使(あぜち)以下陸奥国の高官が伊治城に集まったところ,蝦夷出身の郡大領伊治呰麻呂(あざまろ)が蝦夷と呼応して反乱を起こし,按察使紀広純を殺害し,さらに多賀城をも攻撃し,蓄積していた食料・兵器を略奪し,火を放って逃走した。これが〈多賀城〉の初見である。
この事件の前後から律令政府の東北政策に蝦夷が強烈な抵抗を示すようになり,いわゆる蝦夷征討が多賀城を根拠地として展開した。このころ大伴家持も按察使兼鎮守将軍としてこの任にあたっている。長期にわたった戦いも801年(延暦20)坂上田村麻呂の派遣によりようやく終焉を迎え,802,803年に相ついで胆沢(いさわ)城(現奥州市,旧水沢市),志波(しわ)城(現,盛岡市)が築かれ,北上川の上・中流域までがほぼ安定したことが知られる。胆沢城築城後まもなく,鎮守府は多賀城から胆沢城に移され,多賀城はもっぱら国府として機能することとなった。869年(貞観11)には,陸奥国を大地震がおそい,国内はもとより多賀城も大被害をうけた。陸奥国の軍事的緊張が和らぐと,多賀城は多賀国府などと呼ばれるようになり,奥州藤原氏が東北に勢力をふるうようになった平安末には,多賀城も東北のかなめの地位を平泉にゆずることとなった。しかしいわゆる奥州征伐のおりには,源頼朝が多賀国府に立ち寄り,命を下しており,依然としてこの地を無視しえなかったことが知られる。その後南北朝の争乱時には,多賀国府は両朝の争奪の対象となり,はげしい戦いが展開された。
多賀城の性格は,創建時の状況から第1に軍事的なものであり,したがってその構造自体も軍事基地にふさわしいきわめて厳しいものであると説かれてきた。しかし1963年より発掘調査が実施され,通説とは異なった結果が得られている。多賀城の遺跡は仙台平野の北端にあり,低丘陵の先端を利用して営まれている。その丘陵は,北・西・南で低湿地に面しており,東は南北から入る谷により,自然の区画がなされている。最も高い所で標高55m,最も低い所で3mであり,丘陵から低湿地をまたぐような立地を示している。規模は東西約880m,南北は東辺が約1000m,西辺が約700mで,全体として不整な方形を呈している。外郭線は,基底幅2.7mの築地であり,八脚門である南門・東門・西門も各辺で確認されている。従来周囲の区画は,軍事基地にふさわしく,土塁であろうと言われてきたが,調査の結果瓦葺きの築地であることが判明した。南面の築地は低湿地に構築されているが,そこでは,幅15~17m,高さ2m弱の堤防状の土盛工事を行い,その上に築地を築いている。要塞というよりは,官衙と呼ぶにふさわしい外観と言えよう。城内の中央やや東寄りの平坦面には約100m四方の大きさをもつ内郭がある。内郭内の建物配置は時期により若干の変化があるが,中央に正殿をおき,その前方左右に脇殿を配し,南門から発する築地が四周をとりかこむといった基本型を終始保っており,この型は,奈良・平安時代を通じて大差ない。これは大宰府都府楼や,他の国府政庁に類似し,まさしく地方官衙の政庁と見るべきものである。築地である外郭線の構造と相まって政庁の存在は,多賀城を軍事基地とは見ずに,官衙としてとらえるうえでの大きな要因である。城内の平坦面にも各種の遺構が検出されている。政庁の東側の作貫地区,東門から城内に入って間近の大畑地区,さらに政庁の北の六月坂地区,また西側中央の金堀地区などでは規則的な建物配置が判明しており,城内各所には官衙ブロックが配されていたことがわかる。また城内ではところどころに竪穴住居跡もみられ,とくに東門付近にはそれが密集しかつ重複しており,兵士の宿舎かと推定されている。
さらに付属寺院である多賀城廃寺の存在も多賀城が官衙的な施設であったとする見方を補強する。多賀城廃寺は,多賀城跡の東南約1kmの同市高崎の低丘陵上にある。伽藍の配置は,東に塔があり,西に東面する金堂が配され,中門から発する築地は,塔,金堂をとりかこみ,北側で講堂の入側柱列にとりついている。これが伽藍中枢部であるが,講堂の北には,大房と小子房からなる僧房がある。このほか経蔵,鐘楼,倉などが検出されている。以前は,陸奥国分寺が創建されるまでの間,多賀城の付属寺院としての官寺の役割を果たしたと考えられていたが,発掘の結果,多賀城と同時に計画され,ともに造営されたことが判明した。のみならず,ほぼ多賀城と同じ変遷をたどったことも明らかとなった。
これらのことから,多賀城は創建当初から従来の通説のような軍事基地としてスタートしたのではなく,寺院をも含めた形で地方行政の中心施設として造営されたということができる。東北地方では多賀城のほかに,太平洋側では桃生(ものう)城,伊治城,胆沢城,志波城,徳丹城が,また日本海側では秋田城といった城柵遺跡が解明されつつあるが,城柵を城塞的にはとらえず,地方の官衙として把握することは,おおむねどの城柵にもあてはまることである。
多賀城跡からは,多量の瓦片,須恵器・土師器・須恵系土器などの土器類,木器・木簡,それに漆紙(うるしがみ)文書など多種多様の遺物が出土している。瓦は,奈良時代から平安時代の編年が,層位的調査と文献との照合などから,ほぼとらえられている。さらに瓦との共伴関係から土器類の編年,とくに集落遺跡では不可能な実年代の把握が可能となってきている。木簡で注目すべきは,いわゆる蝦夷征討時の兵士・兵器の動きに関するものが発見されていることである。漆紙文書とは,紙(多くの場合文書の反故(ほご))が漆塗りの作業に用いられ,紙に漆が付着することにより,紙の腐朽が防止され,土中にあってもなお文書の姿をとどめたものである。この種の遺物が残存するプロセスが,多賀城跡の調査を通じて全国ではじめて解明された。文書には,計帳,具注暦,貢進文書,請求文書,田籍関係文書,その他がある。
執筆者:桑原 滋郎
宮城県中部の市。1971年市制。人口6万3060(2010)。仙台・塩釜両市の間に位置し,七北田(ななきた)川,砂押川の沖積低地と背後の丘陵地よりなる。古代には多賀城が築かれ,陸奥国府が置かれた地で,多賀城鎮護のため多賀城付寺が建てられた。南北朝時代には北畠顕家が城を興して国府と定めるなど,古くから東北経略の拠点であった。多賀城跡と付属の寺跡は,近年の発掘調査により,全貌がほぼ明らかにされ,特別史跡に指定されている。また出土品は東北歴史資料館(現,東北歴史博物館)に保存されている。城跡の近くに多賀城碑(壺の碑)があり,また歌枕として知られる〈末の松山〉〈野田の玉川〉などの地がある。肥沃な農業地帯であったが,仙台と塩釜にはさまれた地の利と,旧海軍工厰跡地を利用した工場誘致により工業地帯に発展,1964年に新産業都市に指定された。71年には仙台港が開港し,電気機器を中心に工業化が進んでいる。JR東北本線,仙石線,国道45号線が通じ,仙台への通勤者も多い。弥生時代の桝形囲貝塚がある。2011年3月の東日本大震災では,死者行方不明188人,全壊住宅1550戸にのぼった。
執筆者:長谷川 典夫
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宮城県中東部、仙台市と塩竈(しおがま)市の間にある市。1971年(昭和46)市制施行。市の名称は古代城柵(じょうさく)多賀城に由来する。北部に丘陵があるほかは平地が広がる。JRの東北本線と仙石(せんせき)線、国道45号が通じる。三陸沿岸道路の多賀城インターチェンジがある。東部の中期弥生(やよい)遺跡の枡形囲貝塚(ますがたかこいかいづか)からは稲籾圧痕(いねもみあっこん)のある土器が発掘されている。北西部の丘陵上に多賀城跡(国指定特別史跡)があり、奈良時代の陸奥(むつ)国府と鎮守府の建物の基礎を復原し史跡公園として整備されている。付近には多賀城廃寺跡(国指定特別史跡)や日本三古碑の一つ多賀城碑(国指定重要文化財)、多賀城の出土品をはじめ東北地方の資料を収集する東北歴史博物館がある。建武(けんむ)新政では一時的に奥州小幕府ともいうべき組織が国府跡につくられた。近世には仙台藩の家臣天童(てんどう)氏が八幡(やわた)に居住した。肥沃(ひよく)な土地での米作が主体であったが、最近は野菜・花卉(かき)栽培などの近郊農業が中心。1942年(昭和17)に建設された海軍工廠(こうしょう)跡地では各種の工業が盛ん。近年、仙台への通勤・通学が増加し都市化が著しい。面積19.69平方キロメートル、人口6万2827(2020)。
[後藤雄二]
〔東日本大震災〕2011年(平成23)の東日本大震災では死者219人、住家全壊1746棟・半壊3730棟を数えた(消防庁災害対策本部「平成23年東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)について(第159報)」平成31年3月8日)。2018年9月時点で、津波によりほぼ全戸が損壊した宮内地区の土地区画整理を完了し、津波防御のための多重防御施設の整備、緊急避難路整備など減災対策の充実強化といった復興事業に取り組んでいる。
[編集部 2019年10月18日]
『『多賀城市史』全7巻(1984~1997・多賀城市)』
「たがのき」とも読む。宮城県多賀城市に築かれた古代の城柵(じょうさく)。古代の陸奥(むつ)国の国府のあったところで、陸奥・出羽(でわ)両国を管する按察使(あぜち)もおり、奈良時代には、鎮守府(ちんじゅふ)も置かれ、東北地方の政治、軍事および文化の中心をなした。
多賀城の創建年代ははっきりしないが、737年(天平9)に初めて史料に「多賀柵」とみえ、「多賀城」として現れるのは780年(宝亀11)の伊治呰麻呂(いじのあざまろ)の乱のときである。この反乱で、多賀城も攻め落とされ、放火された。さらに、869年(貞観11)の陸奥国大地震では、大きな被害を被っているようである。なお、802年(延暦21)胆沢(いさわ)城造営とともに、鎮守府は多賀城から胆沢城へ移された。その後、前九年・後三年の役および源頼朝(よりとも)の奥州藤原氏征討のときには、「多賀国府」とみえる。中世においても、鎌倉幕府の陸奥国留守職(るすしき)が、南北朝には陸奥の将軍府が置かれている。特別史跡は、多賀城市大字市川・浮島の地にあり、仙台平野の北東端に位置し、海抜20~50メートルの丘陵の先端部の一画を占めている。周囲は約900メートル四方の不整方形に築地(ついじ)が巡り、その中央部には約100メートル四方の政庁がある。政庁は5回の建て替えが行われているが、全体の規模や整然とした建物の基本的な配置は変わらない。外郭内地域の調査も進み、多くの役所の建物跡が検出されている。遺物のなかでは、全国で初めて発見された漆紙文書(うるしがみもんじょ)が注目される。なお、多賀城の沿革などを記す有名な多賀城碑(俗に「つぼのいしぶみ」とよぶ)が外郭南門跡付近にある。
[平川 南]
『宮城県多賀城調査研究所編『多賀城跡――政庁跡図録編』『多賀城跡――政庁跡本文編』(1980、82・宮城県文化財保護協会)』▽『桑原滋郎編「多賀城跡」(『日本の美術 213』1984・至文堂)』
多賀柵とも。陸奥国におかれた古代の城柵。宮城県多賀城市市川・浮島にあり,仙台平野の北端に位置する。外郭は築地・材木塀で区画され,最大が東辺の1050m,最小が西辺の660mの不整方形を呈し,東・西・南に八脚門をもつ。内郭中央に南北116m,東西103mの政庁があり,正殿・脇殿などの建物や広場がある。内郭で官衙・工房・住居・道路,外郭の周辺で多賀城付属の多賀城廃寺(現,多賀城市高崎)や国司の館(たち)・道路・町などの遺構群が検出された。737年(天平9)に「多賀柵」とみえるのが史料上の初見だが,724年(神亀元)までには造営され,10世紀半ばまで存続。陸奥国府・鎮守府(のちに胆沢城(いさわじょう)に移転)がおかれるなど,古代東北の政治・軍事の拠点となった。城跡・寺跡とも国特別史跡。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…古代では,これらの紙は役所の公文書であることが多く,その資料的価値は高い。1978年に古代東北地方の政治,軍事の中心であった多賀城の遺跡(宮城県多賀城市)ではじめて発見され,全国的に注目された。温暖多湿な日本では紙が地中に遺存することはまれであり,今まで古代の紙が地中から出土した例は,経塚(きようづか)に埋納された経巻程度である。…
…しかし〈鎮所〉は鎮守府の存在と密接に関連した呼称であるが,本来正式な機関名としての鎮守府とは同列に置いて比較すべき用語ではない。鎮守府ははじめ,多賀城に置かれた。759年(天平宝字3)には将軍以下の俸料(ほうりよう)と付人の給付が陸奥の国司と同じと決められた。…
…北から東,南東部まで陸奥国に接し,陸奥国とともに奥羽(おうう)と総称され両国の一体関係は強かった。政治的には721年(養老5)以来陸奥按察使(むつのあぜち)の統轄下に属し,軍制上も陸奥多賀(たが)城のちには胆沢(いさわ)城に置かれた鎮守府の指揮下にあった。この地方が史上最初にあらわれるのは,658年(斉明4)越(こし)の国守阿倍比羅夫(あべのひらふ)の北航に際し齶田(あきた∥あいた),渟代(ぬしろ)に郡(評)(こおり)を置いたという《日本書紀》の記事である。…
※「多賀城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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