精選版 日本国語大辞典 「大名屋敷」の意味・読み・例文・類語
だいみょう‐やしき ダイミャウ‥【大名屋敷】
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参勤交代によって江戸に参勤する大名に与えられた屋敷。初めは標準とか基準といったものはなく、幕府も屋敷地の下付(かふ)を申請した大名に対して任意に屋敷地を与えた。ところが、1635年(寛永12)の改訂「武家諸法度(ぶけしょはっと)」において、参勤交代が制度化し、諸大名の江戸屋敷の設置が一般化すると、計画的な屋敷割りが必要となり、しだいに屋敷地の再配置が行われるようになった。幕府は政治機構の整備に対応して、江戸城を完成する一方、外郭(そとくるわ)の西の丸下は老中・若年寄(わかどしより)などの官邸街に、神田橋門内から道三堀(どうさんぼり)のあたり竜(たつ)ノ口(くち)にかけては、大老・老中などの屋敷や伝奏(てんそう)屋敷のような官庁街にしたため、丸ノ内、霞(かすみ)ヶ関、永田町一帯が大名の屋敷街となった。
[藤野 保]
1657年(明暦3)の江戸大火を契機に、幕府は江戸の都市計画をたて、江戸城内にあった御三家(ごさんけ)(尾張(おわり)、紀伊、水戸)をはじめ、幕府の重臣の屋敷を城外に移すとともに、大名屋敷を上(かみ)屋敷、中(なか)屋敷、下(しも)屋敷の三つに分け、上屋敷は西の丸下、丸ノ内や外桜田に集めておいて、登城や勤番に便利なようにし、中屋敷は外堀の内縁に沿った範囲に配置し、下屋敷は新しく江戸近郊(四谷(よつや)、駒込(こまごめ)、下谷(したや)、本所(ほんじょ)など)に与えた。上屋敷は居屋敷ともいい、大名とその妻子が住んだ。中屋敷はのち大名世嗣(せいし)の邸宅となり、下屋敷は別荘としての役割を果たしたが、大名によっては数か所もっている者もあった。
[藤野 保]
大名屋敷には、大名の妻子のほかに、幕府や諸大名の応接にあたる家臣が常住した。一般にその長を留守居(るすい)または江戸家老といい、藩の職制上重要な位置を占めた。しかも、参勤中になると、大名とともに国元から江戸勤番の家臣が住み、これに女中、中間(ちゅうげん)、小者(こもの)を加えると、大名屋敷の人数は多数に上った。毛利(もうり)氏の大名屋敷には、留守居のほかに、藩主の参勤に随行し、絶えずその左右にあって政務を行う重職に当役(とうやく)があり、その下に裏判(うらはん)役(享保(きょうほう)年間廃止)、用談役、手元役(てもとやく)、右筆(ゆうひつ)役、用所役、矢倉頭人(やぐらとうにん)、公儀人が置かれ、これを国元の国相府(こくしょうふ)に対して行相府(ぎょうしょうふ)とよんだ。これだけの多数の家臣団が江戸という大都会で消費生活を営んだため、大名屋敷の出費は巨額となり、大名行列に要する費用と相まって、大名財政の窮乏をきたす主因となった。大名屋敷でのやりくりは、諸大名の経済生活のなかで重要な課題の一つとなった。
[藤野 保]
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近世の江戸における大名の邸宅。藩庁の所在地でもあり,江戸藩邸ともいう。本来的には参勤交代と大名妻子江戸居住の強制によって制度化された,幕府に対する一種の証人屋敷である。各大名は複数の屋敷をもつのが普通で,上屋敷・中屋敷・下屋敷・蔵屋敷などの区別があった。上屋敷は藩主の居宅,中屋敷は上屋敷が被災した場合の予備邸,下屋敷は荷揚げ場や倉庫の敷地,遊興のための広大な庭園などとして用いられた。これらの屋敷には藩主やその家族のほかに多数の藩士が住んだ。居住する藩士には江戸に常住する定府(常府)の者と,藩主の参勤に随行して1~2年で帰国する者があり,総数は多い藩で5000人にも及んだ。
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