大和国(読み)ヤマトノクニ

デジタル大辞泉 「大和国」の意味・読み・例文・類語

やまと‐の‐くに【大和国】

大和

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日本歴史地名大系 「大和国」の解説

大和国
やまとのくに

〔国名〕

「日本書紀」には神武天皇即位三一年の四月、天皇が腋上わきがみのほほま(現御所市)で国を見渡し、

<資料は省略されています>

との記事があり、続いて、

<資料は省略されています>

と、ヤマト地方についての神話上の別称を記す。もちろん、国成立後の大和国全域をさすものではない。また神武紀によれば、この地方にはやまと国・葛城国・つげ国があった。ヤマトの表記は夜摩等・野末登等々のさまざまな一字一音表記のもの以外に、古く大倭・倭(古事記)、山門・日本・大日本・大国・東(日本書紀)、山常・山跡・和・大和(万葉集)など、なんらかの意味を含むものがある。

国成立以前、大和には六あがたがあり(延喜式)、各県に県神社があった。この神社を結ぶ線が初期の固有名詞的なヤマトの地域かと考えられ、さらに「和名抄」に載る大和おおやまと郷の地、また国神を祀る倭の大国魂おおくにたま神社(天理市の→大和神社付近が中心かと思われる。「日本書紀」神武紀に「倭国磯城邑」、崇神紀に「倭の笠縫邑」「倭国の域の内」「倭の香山」、「古事記神代巻に「吾を倭の東の山の上にいつき奉れ」、「万葉集」に「青丹よし奈良を過ぎ、小楯大和を過ぎ」とあり、「姓氏録」に「大和国真穂御諸山」とみえ、これらからも古いヤマトの地域が想像される。しかし本来のヤマトはヤマモトと同義語で山のある所(麓)を意味し、奈良県下には約三〇のヤマト地名がある。

大化の改新で国郡制による大倭国が成立する。「続日本紀」には天平九年一二月(七三八)「大養徳」と改称の記事があり、同一九年には「大倭」、天平勝宝元年(七四九)には「大和」と記す。「大和」の表記は平安時代には一般化するが、「倭」は中国的な表現であり、は和に通じることから用いられたものであろう。古代の大和国府は「和名抄」に「国府在高市郡行程一日」とあるが、正確な跡地は比定できない。

古代

奈良県の歴史で最大の事象は、古代に大和朝廷がこの地方に勃興し、初期の帝都が数世紀にわたって奈良盆地、とくに東南部に存在したことである。大和朝廷自身の記録である「古事記」「日本書紀」によれば、その始祖神武天皇(神倭磐余彦)は西方九州から東へ進み、生駒山地を西から大和へ進入しようとして、土着豪族登美の長髄彦に妨げられ、針路を変えて南方熊野地方に上陸し、吉野山地を北進して宇陀に入り、西進して橿原かしはらに至り、即位したという。これらのことは歴史学的には当然明らかでないが、神話として伝承の重みを伝えている。

以後奈良盆地(国中地方)南部の葛城・磯城しき・飛鳥などの地方におおむね四世紀から八世紀初頭まで(一時難波・山城・近江など)に都があった。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大和国」の意味・わかりやすい解説

大和国
やまとのくに

五畿内(きない)の一部。近畿地方の中央やや南寄り、現在の奈良県全体を含む地域の旧名。古代には奈良盆地内のみを意味し、吉野、宇智(うち)、宇陀(うだ)、東山中(ひがしさんちゅう)は、その後に繰り込まれたが、この地が大和政権発生の本源地であることから、日本全体を意味することばともなっている。

 日本の統一政権である大和政権は、4~5世紀のころ、盆地の南東部、磯城(しき)、磐余(いわれ)、飛鳥(あすか)の地を中心として発展したが、朝鮮半島を経て中国の文化や仏教を受容(538)して以来、その基礎を固め、飛鳥文化を現出し、飛鳥寺、法隆寺など多くの寺院も建造された。その後、中国の都城制を採用して藤原京(694)をつくり、さらに北部の奈良の地に平城京(710)を築き、唐文化に倣って華麗な天平(てんぴょう)文化を開花させ、東大寺、興福寺など南都七大寺の文化が栄えた。784年(延暦3)都が長岡京、ついで平安京に移ると、奈良は南都とよばれ、皇室や藤原氏の故地として、伝統的文化を色濃く伝え、南都六宗を奉ずる仏教王国として特異な存在を続けた。なかでも興福寺は春日(かすが)神社の神威を借り、衆徒・国民などの兵力を養って他の寺社を圧迫し、国司を追放し、多数の荘園(しょうえん)を擁するに至った。かくて南都は平安末期に平家と争い、その焼打ちにより大打撃を受けたが、皇室、藤原氏、源頼朝(よりとも)らの援助によって立ち直り、やがて国内にも寺社の庇護(ひご)によって多くの地元産業を発生させた。一方吉野山には平安中期以来、修験(しゅげん)宗が興隆し、熊野地方と結ぶ宗教上の聖地となった。南北朝時代、京都の武家方に対する南朝の半世紀にわたる対峙(たいじ)は、この宗教的・経済的背景があったからである。

 室町時代に入ると、旧来大寺院の制肘(せいちゅう)下にあった各所の郷村には、地侍(じざむらい)を中心とする民衆勢力が台頭し、幕府や寺院の統制力が失われるに乗じてしだいに成長を遂げ、徒党を結び相互に争うに至った。筒井(つつい)、古市(ふるいち)、十市(といち)、越智(おち)、箸尾(はしお)などはもっとも有力なものである。やがて国内へも他の諸宗教宗派が浸潤し、中央政界の雄たる細川、畠山(はたけやま)氏、さらに下って三好(みよし)三人衆や松永久秀(ひさひで)の侵入があり、対内対外の抗争動乱の時代が続いた。しかし1568年(永禄11)織田信長が京都に進駐すると、筒井順慶(じゅんけい)は巧みにこれと提携し、松永久秀を討滅し、国内諸党をも圧服し、信長の大和代官となった。織田氏が滅ぶと大和一国は豊臣(とよとみ)政権の直轄領となり、秀吉の実弟秀長(ひでなが)が郡山(こおりやま)城に入り、河内(かわち)、和泉(いずみ)をもあわせて100万石を治めた。ついで、文禄(ぶんろく)検地では大和一国は44万石と査定された。

 関ヶ原の戦いが終わり江戸時代を迎えると、初期の大名の改易・断絶・国替を経て、国中は七大名のほか直轄領、旗本・御家人(ごけにん)の知行所(ちぎょうしょ)、寺社の朱印料など100近い給地に細分されるという複雑な支配様相となっている。しかし長い平和な時代のなかで、街道は大坂への諸道をはじめ、京街道、伊勢(いせ)街道、阿保(あお)街道、また吉野川沿いの道も整備され、それにつれて都市も、奈良、郡山、今井をはじめ八木、桜井、三輪(みわ)、丹波市(たんばいち)、田原本(たわらもと)、竜田(たつた)、高田、御所(ごせ)、新庄(しんじょう)、五條(ごじょう)、下市(しもいち)、上市(かみいち)、吉野、松山など地方の大集落も発展した。地元の産業は中期ごろからしだいに活気を呈し、米、種油、奈良晒(さらし)、木綿、材木、茶、薬種、酒、素麺(そうめん)、煙草(たばこ)、紙、葛粉(くずこ)などが生駒(いこま)、金剛(こんごう)の山脈を越え、大和川の川舟を利用して大坂その他の地方へ輸出された。奈良、吉野、長谷(はせ)寺、當麻(たいま)寺などへの観光旅行が盛行したのも中期ごろからである。後期になるとやや沈滞ぎみとなるが、伊勢参宮への数度のお陰参りも暴発的に起こっている。

 1863年(文久3)夏には天誅(てんちゅう)組が蜂起(ほうき)して、平和な国中を震撼(しんかん)させたが、概して平穏に明治維新を迎えた。1871年(明治4)まず幕府直轄領が新政府に収められ、各藩もついで廃され、一括して奈良県となった。その後76年に至り堺(さかい)県に合併され、さらに81年大阪府下に入ったが、多大の不便を生じたため、地元では独立の運動が起こり、87年奈良県の再設置が認められた。

[平井良朋]


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百科事典マイペディア 「大和国」の意味・わかりやすい解説

大和国【やまとのくに】

旧国名。和州とも。畿内の一国。現在の奈良県。もと倭,大倭,大養徳などと書き,大和朝廷を構成する豪族らの本拠。都も7世紀まではほぼ奈良盆地南部の飛鳥(あすか)にあり,次いで藤原京平城京と盆地を北上,784年,山城(やましろ)国の長岡京に去る。《延喜式》に大国,15郡。平安期以後は南都諸大寺や貴族の荘園が占め,特に興福寺が有力,鎌倉・室町時代も幕府の勢力及ばず。戦国期には筒井・松永氏らが活躍したが,織田信長が平定。江戸時代は郡山藩ほか小藩に分封。→飛鳥浄御原宮春日大社東大寺
→関連項目池田荘近畿地方小東荘朝鮮式山城奈良[県]奈良奉行平野殿荘大和猿楽

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藩名・旧国名がわかる事典 「大和国」の解説

やまとのくに【大和国】

現在の奈良県全域を占めた旧国名。古くは「大倭(やまと)国」と記し、737年(天平(てんぴょう)9)に「大養徳(やまと)国」と改めたが、747年(天平19)に「大倭国」に戻された。「大和国」の表記は757年(天平宝字(てんびょうほうじ)1)ごろから。律令(りつりょう)制下で畿内(きない)を形成する5国の一つで、「延喜式」(三代格式)での格は大国(たいこく)だった。国府は現在の高市(たかいち)郡高取(たかとり)町、のち大和郡山(やまとこおりやま)市今国府(いまごう)町におかれ、国分寺は奈良市東大寺で、全国の総国分寺も兼ねた。古くから大和朝廷の本拠地として飛鳥を中心に開け、中国文化や仏教を受容、飛鳥寺(あすかでら)法隆寺など多くの寺院が築造された。ついで藤原京平城京が築かれて天平文化が花開き、東大寺、興福寺など七大寺(しちだいじ)の文化が栄えた。長岡(ながおか)京平安京に遷都されたあとも、有力な社寺が多く存在し、南都とよばれた。鎌倉時代から室町時代を通して守護はおかれず、興福寺が大和を支配した。興福寺の衆徒らは武士化して勢力を伸ばし、筒井(つつい)氏、十市(とおち)氏、箸尾(はしお)氏らと相争ったが、織田信長(おだのぶなが)が平定。江戸時代には奈良奉行のほか郡山(こおりやま)藩など7藩がおかれた。1871年(明治4)の廃藩置県により奈良県となった。その後1876年(明治9)に堺(さかい)県に編入され、1881年(明治14)に大阪府下に入ったが、地元の運動の結果、1887年(明治20)に奈良県が再設置された。◇和州(わしゅう)、また倭州(わしゅう)ともいう。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大和国」の意味・わかりやすい解説

大和国
やまとのくに

現在の奈良県。畿内の一国。大国。「やまと」は『日本書紀』では「倭」「大倭」「日本」の文字も用いられ,『続日本紀』によると天平9 (737) 年から 10年間「大養徳国」と書かれた。大和朝廷発祥の地とされ,九州と並んで早くから開けた地方であった。『日本書紀』には闘鶏 (つげ) の国造,『旧事本紀』には大倭国造のほかに葛城国造があり,また古典には県主 (あがたぬし) として菟田 (うた) ,春日,層冨 (そお) ,山辺,十市,高市,磯城 (しき) の名がみえている。また吉野はのちに郡となっているが『万葉集』には吉野国とあり,『続日本紀』には芳野監 (げん) がおかれているので大和国とは別の行政区画の時期があったとみられる。『延喜式』神名帳には 286座 (216社) の神社があり,128座は大社である。特に大神 (みわ) 神社は当国の一宮として崇敬された。同じ『延喜式』には郡として添上 (そふのかみ) ,添下 (そふのしも) ,平群 (へくり) など 15郡を,『和名抄』には 89郷,田1万 7905町を載せている。奈良時代までの都であったため一般の国と異なる点が多く,平安時代以降においても奈良は南都と称された。国府は大和郡山市今国府町とも考えられるが,明らかでない。国分寺は僧寺として東大寺,尼寺として法華寺とされているが問題もある。鎌倉~室町時代を通じて他の国々と異なり守護は任じられなかった。これは旧都であったというほかに興福寺の勢力が強大であったためである。中世には当国の守護職は興福寺が把握し,一国支配権を確立していた。この態勢をくずしたのが織田信長,豊臣秀吉で,秀吉は弟秀長を大和郡山 100万石に封じ大和のほかに紀伊,和泉を支配させた。江戸時代には高取2万 5000石に植村氏,郡山 15万石に柳沢氏,そのほかには柳生に柳生氏,小泉に片桐氏,柳本に織田氏,芝村に織田氏,櫛羅に永井氏などがあり幕末にいたった。明治4 (1871) 年の廃藩置県後,各藩は県となったが,同年 11月には合併して奈良県となった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「大和国」の解説

大和国
やまとのくに

倭国・大倭国とも。畿内の国。現在の奈良県。「延喜式」の等級は大国。「和名抄」では添上(そうのかみ)・添下・平群(へぐり)・広瀬・葛上(かずらきのかみ)・葛下・忍海(おしのみ)・宇智・吉野・宇陀・城上(しきのかみ)・城下・十市(とおち)・山辺・高市(たけち)の15郡からなる。国府は葛上郡,高市郡と移り,平安中期以降は平群郡(現,大和郡山市),国分寺は東大寺(現,奈良市),国分尼寺は法華寺(現,奈良市)におかれた。一宮は大神(おおみわ)神社(現,桜井市)。「延喜式」の調は銭のほか,箕と鍋などの土器。ヤマト王権の所在地として古くから開け,694年(持統8)には藤原京,710年(和銅3)には平城京がおかれた。平安時代以降,奈良は南都とよばれ,南都七大寺や春日大社などの社寺の町として栄えた。鎌倉・室町時代は興福寺の勢力が強く,守護職を掌握した。戦国期には松永・筒井・越智氏らが割拠。江戸時代は小大名領・幕領・寺社領があった。1868年(明治元)奈良府や藩・県が成立。71年の廃藩置県ののち奈良県が成立。

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世界大百科事典 第2版 「大和国」の意味・わかりやすい解説

やまとのくに【大和国】

旧国名。和州。現在の奈良県。
【古代】
 畿内に属する大国(《延喜式》)。添上(そふのかみ),添下,平群(へぐり),広瀬,葛上(かつらぎのかみ),葛下,忍海(おしうみ∥おしみ),宇智(うち),吉野,宇陀(うだ),城上(しきのかみ),城下,高市(たけち),十市(とおち),山辺(やまのべ)の15郡に分かれていた。大和国を地形的にみると,奈良盆地(国中),大和高原(東山中),宇陀,吉野の4地域に分かれる。奈良盆地には13郡が設置され,添上郡と山辺郡の東半部が大和高原に及んでいた。

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世界大百科事典内の大和国の言及

【奈良奉行】より

…関ヶ原の戦後,はじめ大久保長安配下の奉行衆が奈良支配にあたったが,1613年(慶長18)よりかつて興福寺の被官であった中坊氏が起用され,これ以後奈良奉行の職名がおこった。しかし中坊氏の時代には,中世において大和支配の権を有していた春日社・興福寺対策にその主要な任務があり,民政上の権限は確立しておらず,また大和国内の幕領代官をも兼任するなど,制度的には過渡的な段階にあった。64年(寛文4)土屋利次の奉行就任以降,奈良奉行と代官の職掌は分離され,奈良および大和一国の民政一般を管掌するようになり,奉行所機構も整備されて制度的確立を見た。…

※「大和国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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