「日本書紀」には神武天皇即位三一年の四月、天皇が間
との記事があり、続いて、
と、ヤマト地方についての神話上の別称を記す。もちろん、国成立後の大和国全域をさすものではない。また神武紀によれば、この地方には
国成立以前、大和には六
大化の改新で国郡制による大倭国が成立する。「続日本紀」には天平九年一二月(七三八)「大養徳」と改称の記事があり、同一九年には「大倭」、天平勝宝元年(七四九)には「大和」と記す。「大和」の表記は平安時代には一般化するが、「倭」は中国的な表現であり、
奈良県の歴史で最大の事象は、古代に大和朝廷がこの地方に勃興し、初期の帝都が数世紀にわたって奈良盆地、とくに東南部に存在したことである。大和朝廷自身の記録である「古事記」「日本書紀」によれば、その始祖神武天皇(神倭磐余彦)は西方九州から東へ進み、生駒山地を西から大和へ進入しようとして、土着の豪族登美の長髄彦に妨げられ、針路を変えて南方熊野地方に上陸し、吉野山地を北進して宇陀に入り、西進して
以後奈良盆地(国中地方)南部の葛城・
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五畿内(きない)の一部。近畿地方の中央やや南寄り、現在の奈良県全体を含む地域の旧名。古代には奈良盆地内のみを意味し、吉野、宇智(うち)、宇陀(うだ)、東山中(ひがしさんちゅう)は、その後に繰り込まれたが、この地が大和政権発生の本源地であることから、日本全体を意味することばともなっている。
日本の統一政権である大和政権は、4~5世紀のころ、盆地の南東部、磯城(しき)、磐余(いわれ)、飛鳥(あすか)の地を中心として発展したが、朝鮮半島を経て中国の文化や仏教を受容(538)して以来、その基礎を固め、飛鳥文化を現出し、飛鳥寺、法隆寺など多くの寺院も建造された。その後、中国の都城制を採用して藤原京(694)をつくり、さらに北部の奈良の地に平城京(710)を築き、唐文化に倣って華麗な天平(てんぴょう)文化を開花させ、東大寺、興福寺など南都七大寺の文化が栄えた。784年(延暦3)都が長岡京、ついで平安京に移ると、奈良は南都とよばれ、皇室や藤原氏の故地として、伝統的文化を色濃く伝え、南都六宗を奉ずる仏教王国として特異な存在を続けた。なかでも興福寺は春日(かすが)神社の神威を借り、衆徒・国民などの兵力を養って他の寺社を圧迫し、国司を追放し、多数の荘園(しょうえん)を擁するに至った。かくて南都は平安末期に平家と争い、その焼打ちにより大打撃を受けたが、皇室、藤原氏、源頼朝(よりとも)らの援助によって立ち直り、やがて国内にも寺社の庇護(ひご)によって多くの地元産業を発生させた。一方吉野山には平安中期以来、修験(しゅげん)宗が興隆し、熊野地方と結ぶ宗教上の聖地となった。南北朝時代、京都の武家方に対する南朝の半世紀にわたる対峙(たいじ)は、この宗教的・経済的背景があったからである。
室町時代に入ると、旧来大寺院の制肘(せいちゅう)下にあった各所の郷村には、地侍(じざむらい)を中心とする民衆勢力が台頭し、幕府や寺院の統制力が失われるに乗じてしだいに成長を遂げ、徒党を結び相互に争うに至った。筒井(つつい)、古市(ふるいち)、十市(といち)、越智(おち)、箸尾(はしお)などはもっとも有力なものである。やがて国内へも他の諸宗教宗派が浸潤し、中央政界の雄たる細川、畠山(はたけやま)氏、さらに下って三好(みよし)三人衆や松永久秀(ひさひで)の侵入があり、対内対外の抗争動乱の時代が続いた。しかし1568年(永禄11)織田信長が京都に進駐すると、筒井順慶(じゅんけい)は巧みにこれと提携し、松永久秀を討滅し、国内諸党をも圧服し、信長の大和代官となった。織田氏が滅ぶと大和一国は豊臣(とよとみ)政権の直轄領となり、秀吉の実弟秀長(ひでなが)が郡山(こおりやま)城に入り、河内(かわち)、和泉(いずみ)をもあわせて100万石を治めた。ついで、文禄(ぶんろく)検地では大和一国は44万石と査定された。
関ヶ原の戦いが終わり江戸時代を迎えると、初期の大名の改易・断絶・国替を経て、国中は七大名のほか直轄領、旗本・御家人(ごけにん)の知行所(ちぎょうしょ)、寺社の朱印料など100近い給地に細分されるという複雑な支配様相となっている。しかし長い平和な時代のなかで、街道は大坂への諸道をはじめ、京街道、伊勢(いせ)街道、阿保(あお)街道、また吉野川沿いの道も整備され、それにつれて都市も、奈良、郡山、今井をはじめ八木、桜井、三輪(みわ)、丹波市(たんばいち)、田原本(たわらもと)、竜田(たつた)、高田、御所(ごせ)、新庄(しんじょう)、五條(ごじょう)、下市(しもいち)、上市(かみいち)、吉野、松山など地方の大集落も発展した。地元の産業は中期ごろからしだいに活気を呈し、米、種油、奈良晒(さらし)、木綿、材木、茶、薬種、酒、素麺(そうめん)、煙草(たばこ)、紙、葛粉(くずこ)などが生駒(いこま)、金剛(こんごう)の山脈を越え、大和川の川舟を利用して大坂その他の地方へ輸出された。奈良、吉野、長谷(はせ)寺、當麻(たいま)寺などへの観光旅行が盛行したのも中期ごろからである。後期になるとやや沈滞ぎみとなるが、伊勢参宮への数度のお陰参りも暴発的に起こっている。
1863年(文久3)夏には天誅(てんちゅう)組が蜂起(ほうき)して、平和な国中を震撼(しんかん)させたが、概して平穏に明治維新を迎えた。1871年(明治4)まず幕府直轄領が新政府に収められ、各藩もついで廃され、一括して奈良県となった。その後76年に至り堺(さかい)県に合併され、さらに81年大阪府下に入ったが、多大の不便を生じたため、地元では独立の運動が起こり、87年奈良県の再設置が認められた。
[平井良朋]
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倭国・大倭国とも。畿内の国。現在の奈良県。「延喜式」の等級は大国。「和名抄」では添上(そうのかみ)・添下・平群(へぐり)・広瀬・葛上(かずらきのかみ)・葛下・忍海(おしのみ)・宇智・吉野・宇陀・城上(しきのかみ)・城下・十市(とおち)・山辺・高市(たけち)の15郡からなる。国府は葛上郡,高市郡と移り,平安中期以降は平群郡(現,大和郡山市),国分寺は東大寺(現,奈良市),国分尼寺は法華寺(現,奈良市)におかれた。一宮は大神(おおみわ)神社(現,桜井市)。「延喜式」の調は銭のほか,箕と鍋などの土器。ヤマト王権の所在地として古くから開け,694年(持統8)には藤原京,710年(和銅3)には平城京がおかれた。平安時代以降,奈良は南都とよばれ,南都七大寺や春日大社などの社寺の町として栄えた。鎌倉・室町時代は興福寺の勢力が強く,守護職を掌握した。戦国期には松永・筒井・越智氏らが割拠。江戸時代は小大名領・幕領・寺社領があった。1868年(明治元)奈良府や藩・県が成立。71年の廃藩置県ののち奈良県が成立。
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…関ヶ原の戦後,はじめ大久保長安配下の奉行衆が奈良支配にあたったが,1613年(慶長18)よりかつて興福寺の被官であった中坊氏が起用され,これ以後奈良奉行の職名がおこった。しかし中坊氏の時代には,中世において大和支配の権を有していた春日社・興福寺対策にその主要な任務があり,民政上の権限は確立しておらず,また大和国内の幕領代官をも兼任するなど,制度的には過渡的な段階にあった。64年(寛文4)土屋利次の奉行就任以降,奈良奉行と代官の職掌は分離され,奈良および大和一国の民政一般を管掌するようになり,奉行所機構も整備されて制度的確立を見た。…
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