大堰川(読み)オオイガワ

デジタル大辞泉 「大堰川」の意味・読み・例文・類語

おおい‐がわ〔おほゐがは〕【大堰川】

京都府桂川上流の称。
桂川の嵐山渡月橋付近から桂橋までの称。船遊びが行われた。[歌枕]
「―うかべる舟の篝火に小倉の山も名のみなりけり」〈後撰・雑三〉

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日本歴史地名大系 「大堰川」の解説

大堰川
おおいがわ

北桑田郡・船井郡・亀岡市・京都市を貫流する、京都で最大級の河川。源流は丹波高地東辺地域の京都市左京区広河原ひろがわらに発し、片波かたなみ灰屋はいや小塩おしお弓削ゆげ明石あけし細野ほその木住こずみ田原たわらなどの諸川を合わせつつ北桑田・船井両郡の南部を西流して殿田とのだ(船井郡日吉町)に至り、さらに園部そのべ七谷ななたに犬飼いぬかい愛宕谷あたごだに曾我谷そがだになどの諸川を合わせながら亀岡盆地を東南流し、保津ほづ峡の山間部を曲折して嵐山あらしやま(現京都市西京区)に至る。嵐山より京都盆地西部をやや東南に屈折しながら南流し、下鳥羽しもとば(現京都市伏見区)に至ってかも川を合わせ、淀川に注ぐ。全長約一〇七・八キロ。

古代は葛野かどの(河)と通称し(「山城国風土記」逸文、「日本後紀」延暦一八年一二月四日条ほか)、また大堰(秦氏本系帳、「日本後紀」延暦一八年八月一二日条ほか)大井おおい(弘法大師弟子伝)・大堰川(河)(「日本紀略」延長四年一〇月一〇日条ほか)・西河(「三代実録」貞観二年九月一五日条ほか)かつら(「三代実録」仁和三年八月二〇日条ほか)などとも記される。流域によって呼称が異なり、嵐山付近および上流では大堰川・大井川と書き、また保津川とも書く。嵐山下流ではかつら(葛)川と通称するが、梅津うめづ(現京都市右京区)付近では梅津川ともよんだ。

大堰川の名称は五世紀以降渡来人の入植者である秦氏が葛野郡に大堰を築いて用水開発を行ったことによるという。その伝承を秦氏本系帳(政事要略)に「造葛野大堰、於天下誰有比検、是秦氏率催種類所造構之」と記す。この大堰は「雑令」集解古記に「葛野川堰」とみえ、実在が確認される。水量豊富であったため丹波よりの諸物資の輸送、流域の農業用水、漁業などに広く利用された。

長岡京平安京の造営に当たっては、天然の材木が大堰川の水運を利用して多量に京都へ運ばれたが、山国やまぐに(庄)弓削ゆげ(庄)(現北桑田郡京北町)では禁裏御料地の指定を受け、「五三寸三尋木」(正治二年正月付「三十六名八十八家私領田畑配分並官位次第」坂上谷家文書)を筏に組んで流した。貢租材木のほか交易用の材木も京都に集中し、「類聚三代格」によれば「公私交易之榑」(延暦一〇年六月二二日付太政官符)とか、「民間売買檜」(同一五年九月二六日付太政官符)と称して不正な取引や不当な価格を禁止している。また急激な材木の伐採は、水防工事施工にもかかわらず度々洪水を起こしている。「日本紀略」延暦一九年(八〇〇)一〇月四日条によれば、諸国の役夫一万人を動員して築堤・修復に当たっている。


大堰川
おおいがわ

保津ほづ川の下流、嵯峨(北岸)・松尾(南岸)を流れる辺り、嵐山の麓、渡月橋の付近をいう。今日ではこの川全体を桂川とよぶが、かつてはこの下流、桂辺りからを桂川といった。大井川とも記される。

古来、著名な歌枕で、「能因歌枕」「五代集歌枕」「和歌初学抄」「八雲御抄」「和歌色葉」など歌学書がこぞってあげる。「筏あり」「鵜川立つ」などと注にみえる。平安時代には行幸・御幸も度々で、貴族の舟遊びも盛んに催されたが、特に名高いのは延喜七年(九〇七)九月一〇日の宇多法皇御幸と、長保元年(九九九)九月一二日の御堂関白藤原道長の大堰川遊覧である。

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改訂新版 世界大百科事典 「大堰川」の意味・わかりやすい解説

大堰川 (おおいがわ)

京都市北西部から南丹市の旧園部町,旧八木町と亀岡市を経て,保津峡(この部分は保津川とも呼ばれる)に入るまでの河川。保津峡の出口嵐山から下流は桂川と名を変えて淀川に合流する。丹波高地南東部の流水を集める河川で,全長83km。源流は京都市左京区花背(はなせ)地区で,弓削川,細野川,園部川,犬飼川などの支流を有する。上中流には周山盆地,宇津峡,園部盆地,琉璃渓(名)があるが,下流の亀岡盆地は流域最大の沖積平野で,約2000haの水田が開ける。しかし保津峡が狭いため大量の水が流れず,盆地底は逆流によるはんらん,浸水を受けやすい。山陰本線開通(1899)前の大堰川は,上流の山林で生産される木材のいかだ流しをはじめ,京都と丹波を結ぶ物資輸送路として重要な役割を果たした。また河谷沿いに陸路も山陰道,周山街道,若狭街道があって,日本海沿岸地域と京都を連絡し,亀岡(亀山),園部には城下町が発達した。
執筆者:

名称の大堰は,秦氏の系譜を記したと思われる〈秦氏本系帳〉によれば,秦氏が一族をあげて葛野(かどの)川取水堰を築いたといい,〈葛野大堰〉と呼んだ。これによって秦氏は5世紀後半に流域の開発に成功し,そのために大堰は記念すべき施設となり,川の名称も大堰川と呼ばれるようになった。しかし大堰の名称はしばしば文献に見えるものの,大堰(大井)川の名称はあまり見えず,桂川,葛野川が一般的であったらしい。大堰そのものの位置は不明であるが,渡月橋のすぐ上流あたりと思われる。平安時代に平安京近郊として遊覧の地となった大井川はこの付近で貴賤の人々が船遊びなどに興じた。いま車折(くるまざき)神社の祭礼として行われる三船祭は,そのさまを再現したものである。
執筆者: 長岡京,平安京の造営にあたり大堰川上流の山国,弓削の材木をいかだに組んで流したが,このいかだ輸送は中世も続き1220年(承久2)には川関,小塩保に御問が,1497年(明応6)には嵯峨に問丸が存在した。織豊期になると材木の需要が急増し,豊臣秀吉は1588年(天正16)宇津,保津,山本などの筏士に朱印状を与えてこれを保護した。一方開削工事も積極的に行われ,山国郷では97年(慶長2)から2回にわたって大工事を施し,角倉了以は1606年保津峡の開削を完成した。筏問屋は1597年保津村に14軒,山本村に3軒存在し,同じころ嵯峨,梅津,桂の材木屋は三問屋仲間を結成した。この両者は1676年(延宝4)に売買協定を結んでお互いの直売を禁じたが,利害が相反するため紛争が絶えなかった。いかだによって輸送される材木は年間60万~70万本と推定され,材木の運上は亀山藩が宇津根(亀岡市)で,筏上荷の薪木把物については角倉家が嵯峨運上所で,いずれも1/20の現物で徴収した。漁業ではアユ漁が盛んで,網役(近世は網株ともいう)は毎年5月から7月までに生アユ約800~1000疋と,8月の御霊会に塩アユ400疋を禁裏に献上する代償として,献上後の自由販売権と大堰川の漁業権を与えられた。網役の家は中世には山国,黒田で70軒余あったが,89年(元禄2)には40軒となり,1792年(寛政4)には網株所持者44人であった。網株の譲渡や密漁をめぐって訴訟事件などが絶えず起こったが,網株の制度は明治維新まで存続した。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「大堰川」の意味・わかりやすい解説

大堰川【おおいがわ】

京都府の丹波高地東縁に発し淀川に合流する川。長さ83km,流域面積770km2。亀岡盆地以南を保津(ほづ)川嵐山以南を桂川と呼ぶ。嵐山以南を古代には葛野(かどの)川といい,流域は早くから開発されていて弥生時代の遺跡や古墳が多い。5世紀以降は渡来人の入植者である秦(はた)氏によって開発が進められ,〈葛野大堰(葛野川堰)〉が築造された。中世には流域両岸の諸荘園を灌漑(かんがい)する目的で桂川用水が開削されている。水量豊富であるため水運の便に恵まれ,平安京造営以後丹波から黒木,薪炭などの諸物資が運ばれ,集散地として桂津,梅津など多くの津が発達,特に梅津は材木の津として賑わい,多くの木屋が存在した。この水運の活発な動きは近代にまで至るが,江戸時代初めの角倉了以による保津峡改修後は高瀬舟の通航が可能になり,また筏(いかだ)による木材搬出がいっそう盛んになった。中流部の河谷を山陰本線が通じる。
→関連項目亀岡[市]亀山京都[府]京北[町]日吉[町]八木[町]

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大堰川」の意味・わかりやすい解説

大堰川
おおいがわ

京都府中部を流れる川。延長108キロメートル。丹波(たんば)高地の東縁、京都府・滋賀県境にある三国岳(959メートル)付近に発して西流し、南丹(なんたん)市の旧園部(そのべ)町付近で南東に転じて亀岡盆地を貫流したのち、亀岡盆地と京都盆地の間の山地を保津川(ほづがわ)となって流れ、京都盆地では保津川から桂川(かつらがわ)となり、淀(よど)川に合流する。上流の南丹市日吉(ひよし)町上世木(かみせぎ)に天若ダム(あまわかだむ)が設けられた。慶長(けいちょう)年間(1596~1615)の角倉了以(すみのくらりょうい)の保津峡改修により、丹波地方からの物資の輸送路として栄えた。しかし山陰本線や国道9号の開通によって輸送路としての価値は失われ、筏(いかだ)流しもみられなくなったが、それにかわって観光客のための保津川下りはにぎわっている。

[織田武雄]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「大堰川」の解説

大堰川
おおいがわ

大井川とも。京都市西郊を流れる桂川(葛野(かどの)川)のうち,嵯峨から松尾にかけての流域。上流は保津川。嵐山・小倉山・渡月橋(とげつきょう)などがあり,平安遷都直後から著名な景勝地であった。桓武天皇以降たびたび行幸があり,また藤原道長など平安貴族が遊覧したことでも知られる。「秦(はた)氏本系帳」によれば,秦氏の祖がここに葛野大堰を築いて一帯の水田を開発したという。平安初期には大井津があり,平安京の経済拠点ともなった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大堰川」の意味・わかりやすい解説

大堰川
おおいがわ

京都府中部の川。淀川水系の一部。丹波山地の東部付近に源を発し,西流したのち南東へ転じて亀岡盆地を貫流,亀岡盆地の出口から下流は保津川となり,さらに嵐山からは桂川となる。全長 83km。鉄道開通までは丹波の木材などの輸送路に使われた。かつて亀岡盆地ではしばしば氾濫を起した。上流の世木ダムなどの完成により現在は灌漑のほか,発電にも利用。

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旺文社日本史事典 三訂版 「大堰川」の解説

大堰川
おおいがわ

京都市西端,嵯峨の嵐山の麓を流れる川
上流は亀岡盆地を流れる保津川,渡月橋から下流を桂川と呼び,淀で淀川に合流。平安時代,貴族は風光をめでて舟遊びをした。江戸初期,角倉了以 (すみのくらりようい) が保津峡谷を改修し舟運を開いた。

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世界大百科事典(旧版)内の大堰川の言及

【桂川】より

…京都市南西部を流れる川。大堰(おおい)川の下流で,保津峡の出口嵐山から南流して淀川に入るまでの区間をさす。延長約22km。…

※「大堰川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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