北桑田郡・船井郡・亀岡市・京都市を貫流する、京都で最大級の河川。源流は丹波高地東辺地域の京都市左京区
古代は
大堰川の名称は五世紀以降渡来人の入植者である秦氏が葛野郡に大堰を築いて用水開発を行ったことによるという。その伝承を秦氏本系帳(政事要略)に「造葛野大堰、於天下誰有比検、是秦氏率催種類所造構之」と記す。この大堰は「雑令」集解古記に「葛野川堰」とみえ、実在が確認される。水量豊富であったため丹波よりの諸物資の輸送、流域の農業用水、漁業などに広く利用された。
長岡京・平安京の造営に当たっては、天然の材木が大堰川の水運を利用して多量に京都へ運ばれたが、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
京都市北西部から南丹市の旧園部町,旧八木町と亀岡市を経て,保津峡(この部分は保津川とも呼ばれる)に入るまでの河川。保津峡の出口嵐山から下流は桂川と名を変えて淀川に合流する。丹波高地南東部の流水を集める河川で,全長83km。源流は京都市左京区花背(はなせ)地区で,弓削川,細野川,園部川,犬飼川などの支流を有する。上中流には周山盆地,宇津峡,園部盆地,琉璃渓(名)があるが,下流の亀岡盆地は流域最大の沖積平野で,約2000haの水田が開ける。しかし保津峡が狭いため大量の水が流れず,盆地底は逆流によるはんらん,浸水を受けやすい。山陰本線開通(1899)前の大堰川は,上流の山林で生産される木材のいかだ流しをはじめ,京都と丹波を結ぶ物資輸送路として重要な役割を果たした。また河谷沿いに陸路も山陰道,周山街道,若狭街道があって,日本海沿岸地域と京都を連絡し,亀岡(亀山),園部には城下町が発達した。
執筆者:服部 昌之
名称の大堰は,秦氏の系譜を記したと思われる〈秦氏本系帳〉によれば,秦氏が一族をあげて葛野(かどの)川に取水堰を築いたといい,〈葛野大堰〉と呼んだ。これによって秦氏は5世紀後半に流域の開発に成功し,そのために大堰は記念すべき施設となり,川の名称も大堰川と呼ばれるようになった。しかし大堰の名称はしばしば文献に見えるものの,大堰(大井)川の名称はあまり見えず,桂川,葛野川が一般的であったらしい。大堰そのものの位置は不明であるが,渡月橋のすぐ上流あたりと思われる。平安時代に平安京近郊として遊覧の地となった大井川はこの付近で貴賤の人々が船遊びなどに興じた。いま車折(くるまざき)神社の祭礼として行われる三船祭は,そのさまを再現したものである。
執筆者:井上 満郎 長岡京,平安京の造営にあたり大堰川上流の山国,弓削の材木をいかだに組んで流したが,このいかだ輸送は中世も続き1220年(承久2)には川関,小塩保に御問が,1497年(明応6)には嵯峨に問丸が存在した。織豊期になると材木の需要が急増し,豊臣秀吉は1588年(天正16)宇津,保津,山本などの筏士に朱印状を与えてこれを保護した。一方開削工事も積極的に行われ,山国郷では97年(慶長2)から2回にわたって大工事を施し,角倉了以は1606年保津峡の開削を完成した。筏問屋は1597年保津村に14軒,山本村に3軒存在し,同じころ嵯峨,梅津,桂の材木屋は三問屋仲間を結成した。この両者は1676年(延宝4)に売買協定を結んでお互いの直売を禁じたが,利害が相反するため紛争が絶えなかった。いかだによって輸送される材木は年間60万~70万本と推定され,材木の運上は亀山藩が宇津根(亀岡市)で,筏上荷の薪木把物については角倉家が嵯峨運上所で,いずれも1/20の現物で徴収した。漁業ではアユ漁が盛んで,網役(近世は網株ともいう)は毎年5月から7月までに生アユ約800~1000疋と,8月の御霊会に塩アユ400疋を禁裏に献上する代償として,献上後の自由販売権と大堰川の漁業権を与えられた。網役の家は中世には山国,黒田で70軒余あったが,89年(元禄2)には40軒となり,1792年(寛政4)には網株所持者44人であった。網株の譲渡や密漁をめぐって訴訟事件などが絶えず起こったが,網株の制度は明治維新まで存続した。
執筆者:野田 只夫
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京都府中部を流れる川。延長108キロメートル。丹波(たんば)高地の東縁、京都府・滋賀県境にある三国岳(959メートル)付近に発して西流し、南丹(なんたん)市の旧園部(そのべ)町付近で南東に転じて亀岡盆地を貫流したのち、亀岡盆地と京都盆地の間の山地を保津川(ほづがわ)となって流れ、京都盆地では保津川から桂川(かつらがわ)となり、淀(よど)川に合流する。上流の南丹市日吉(ひよし)町上世木(かみせぎ)に天若ダム(あまわかだむ)が設けられた。慶長(けいちょう)年間(1596~1615)の角倉了以(すみのくらりょうい)の保津峡改修により、丹波地方からの物資の輸送路として栄えた。しかし山陰本線や国道9号の開通によって輸送路としての価値は失われ、筏(いかだ)流しもみられなくなったが、それにかわって観光客のための保津川下りはにぎわっている。
[織田武雄]
大井川とも。京都市西郊を流れる桂川(葛野(かどの)川)のうち,嵯峨から松尾にかけての流域。上流は保津川。嵐山・小倉山・渡月橋(とげつきょう)などがあり,平安遷都直後から著名な景勝地であった。桓武天皇以降たびたび行幸があり,また藤原道長など平安貴族が遊覧したことでも知られる。「秦(はた)氏本系帳」によれば,秦氏の祖がここに葛野大堰を築いて一帯の水田を開発したという。平安初期には大井津があり,平安京の経済拠点ともなった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
※「大堰川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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