精選版 日本国語大辞典 「大奥」の意味・読み・例文・類語
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徳川将軍家の夫人の居住区。武家の夫人の居所を奥と汎称(はんしょう)する。大奥は徳川将軍家に限って用いられていた。江戸城本丸(ほんまる)、西の丸、二の丸に、それぞれ大奥とよばれる区画があり、いずれも各御殿の北側に設けられていたので「北御殿(きたのごてん)」とよばれていた。本丸の御殿の建坪は1万1373坪(約3万7530平方メートル)で、そのうち大奥は6318坪(約2万0850平方メートル)を占めていた(1845)が、1863年(文久3)の焼失後は再建されなかった。西の丸の大奥は758坪4合(約2500平方メートル)であった(1864)。
本丸御殿は将軍夫妻の居所であるが、家政や政治向きの事務処理機関も含まれているので、儀式向きの部屋や、客間や事務所のある部分を「表(おもて)」、将軍の居間にあたる部分を「中奥(なかおく)」(「ちゅうおく」とも)、夫人の居間にあたる部分を「大奥」と区別していた。
大奥の管理事務所として「御広敷(おひろしき)」が付属していて、そこには男の役人が勤務した。中奥と大奥との間は銅塀で仕切られており、1か所あるいは2か所の「御錠口(おじょうぐち)」が通じているだけである。そこを通って大奥に入れる男性は将軍だけであり、御広敷の役人も通れなかった。
[進士慶幹]
大奥での諸事は、夜間の警備までもが女(おんな)奉公人で処理されていた。寛永(かんえい)(1624~1644)のころ、3代将軍徳川家光(いえみつ)の乳母(うば)春日局(かすがのつぼね)によって、大奥女中の職制が整えられたといわれている。家光が没したとき、3700余人の女中たちに暇(いとま)が出され、尼になった女中たちが100余人もあったといわれるから、その規模が察せられよう。家光以後、歴代の将軍は、公家(くげ)や親王家の娘を夫人としている(「御台所(みだいどころ)」「御台様(みだいさま)」という)ので、それに従って江戸に下ってきたお付きの女中たちが大奥に入り、京都風の生活様式が持ち込まれ、江戸幕府の大奥風が形成されていった。
大奥の部屋は、御台所用の御休息の間(35畳)をはじめ、主要なものだけでも60余間(ま)あり、1間は2~5室をもって形成されていた。寝室用の切形の間(10畳)、将軍お成りの際の寝所蔦(つた)の間(15畳)、式日用としての御座(ござ)の間(上段30畳、下段20畳)、御小座敷(おこざしき)、御対面所、御化粧の間、御納戸(おなんど)、呉服の間、御清(おきよ)の間、さらに御膳所(ごぜんしょ)、溜(たまり)の間、御三(おさん)の間(飯炊き下女の詰めている部屋)などに分かれる。
女中には御台所付きと将軍付きとがあるが、役職名や人員はほぼ同じである。公家出身の3人の上﨟(じょうろう)をはじめ、7人の御年寄、御客会釈(おきゃくあしらい)、中年寄、御中﨟、御小姓(おこしょう)、御錠口詰など27階層に分かれ、20位の御切手(おきって)以上が御目通(おめどお)りに出られる役向き(御目見(おめみえ)以上)で、それ以下は御目見以下の役であった。大奥の奉公は一生奉公をたてまえとしたが、御小姓以下は願いによって御暇(おいとま)を与えられた。旗本の娘が大奥奉公にあがるのが本来であるが、庶民の娘でも、旗本を仮親にし、出入り商人などの手づると御中﨟以上の人たちの斡旋(あっせん)で奉公に出て、それが一つの履歴となった。「一引き、二運、三器量」というように、奉公の女中たちは御中﨟以上のだれかを世話親(せわおや)とし、その引きによって昇進の度合いが異なった。御台所をはじめ側室(そくしつ)方は、自分のほうから差し出した女中を将軍が寵愛(ちょうあい)することによって、自派の勢力を大きくしようと、京都をはじめ各所から美女、才媛(さいえん)を連れてくるようなことが行われていた。
[進士慶幹]
大奥の経費は莫大(ばくだい)なもので、江戸末期には、女中方の給料を別にして、年間約2万両(金1両は約6~7万円。1984年での換算)といわれている。それだけに大奥は隠然たる勢力として、「表」の政治向き、人事などにも陰から容喙(ようかい)し、大きな影響を与えていた。7代将軍徳川家継(いえつぐ)のときに、大奥に表の粛正の手が入り、御年寄の絵島(えじま)を中心とする疑獄事件が起き、1500人にも上る連座者を出しているのは、幼将軍の大奥という特殊な条件のもとに行われた表の攻勢といえよう。幕政立て直しを図り、財政の健全化や風紀の粛正などを指標とした、寛政(かんせい)の改革の松平定信(まつだいらさだのぶ)や、天保(てんぽう)の改革の水野忠邦(みずのただくに)が、その改革の実を十分にあげえなかったのも、大奥の強い反対にあったためであるという。また、女性ばかりの集団という点から、風紀上の乱れも多かった。
[進士慶幹]
『永島今四郎・太田贇雄著『千代田城大奥』(1892・林書房/改題復刻版『江戸城大奥』1968・新人物往来社)』▽『池田晃淵著『大奥の女中』(1894・冨山房)』
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江戸城の本丸・西丸などで,将軍やその父・世子の妻妾が生活していた場所。本丸の場合は,幕府の政治機構がおかれていた表,将軍が日常生活を送る中奥(なかおく)に対していう。御錠口(おじょうぐち)から北側が中奥で,中奥と大奥の間には上御鈴廊下があり,将軍だけが通行できた。その際には鈴のついた紐をひいて知らせる。大奥の内部は,妻妾の居室である御殿向(ごてんむき)・奥女中の居室である長局(ながつぼね)向・御広敷向の三つにわかれ,御広敷向のみ大奥の事務を担当する武士が勤務していたが,御殿向・長局向は将軍以外男子禁制であった。大奥には,将軍の妻妾のほか,上臈(じょうろう)を筆頭に御年寄・中年寄・御客会釈(あしらい)・中臈などの大奥女中がおかれた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…本丸の主要な建物は天守閣(1657年以後なし)と本丸御殿である。本丸御殿はその用途により表,中奥,大奥に3区分されていた。表は謁見などの儀式を行う広間と,日常諸役人が詰めて執務する諸座敷からなり,幕府の中央政庁にあたる。…
…江戸幕府の職名。大奥の管理・警衛にあたる御広敷向の役人のうち,警衛を主とした役人。責任者は番頭で留守居支配,200石高,役料200俵,人数は9人,交代制で昼夜詰切りで勤務した。…
…また,伝承された住宅建築の数も多くなり,具体的な状態がよくわかるようになる。当時,支配体制を確立した上層武士階級の住居には,儀式や政務など政治的機能が持ちこまれ,その機能に対応して,表(儀式的空間),中奥(政務空間),大奥(私的空間)の空間が統合される形になった。表の建築は,前代に完成した書院造の殿舎形式が重んじられ,多数の人々と対面できる大広間を中心に,2~3の書院を連ねる形式を採っている。…
…元来は身分の高い女官の称であるが,江戸時代には幕府の大奥女中の職名の一つ。上﨟年寄,大上﨟,小上﨟などがあった。…
…とくに1837年(天保8)家斉が将軍職を次男家慶に譲っても引き続き幕政の実権を握り,いわゆる大御所政治を実施した時期がもっともはなはだしかった。家斉の大奥生活を中心とした華美・驕奢に象徴されるような側近による幕政の私物化は,幕府財政の行詰りをいっそう深刻化した。貨幣悪鋳などによる安易な切抜け策は金融市場の拡大に資するところがあったが,他方,商業高利貸資本と政治との癒着に拍車を加えた。…
…三卿の家政組織もほぼ大名家に類似し,用人が設けられて家政庶務を担当したが,その多くは幕臣の出向であった。幕府には単に用人という職名・職種はないが,側(そば)用人は将軍側近の最上首として政務に関する上申・令達に当たり,広敷(ひろしき)用人(将軍に正夫人のあるときは御台所(みだいどころ)用人)は大奥の役人の長として大奥の事務を統轄したほか,大名家へ嫁した将軍の娘の世話をする姫君用人,将軍の側室の世話をした女中用人などがあった。【辻 達也】。…
※「大奥」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
少子化とは、出生率の低下に伴って、将来の人口が長期的に減少する現象をさす。日本の出生率は、第二次世界大戦後、継続的に低下し、すでに先進国のうちでも低い水準となっている。出生率の低下は、直接には人々の意...
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