たい‐せん【大川】
※清原国賢書写本荘子抄(1530)一〇「
名川は
天下して大川也」 〔易経‐需卦〕
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デジタル大辞泉
「大川」の意味・読み・例文・類語
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大川
おおかわ
淀川の一分流(新淀川開削までの淀川本流)の名称で、都島区の毛馬閘門から北区中之島の東端で土佐堀川と堂島川に分岐するまでの約四・四キロをいう。上流から毛馬橋・都島橋・源八橋・桜の宮橋・川崎橋・天満橋・天神橋が架かり、天満橋の上流で左岸に寝屋川を合せる。毛馬閘門周辺は公園化されており、その他両岸には毛馬公園・桜之宮公園・南天満公園などがあり、それぞれ市民の憩の場となっている。また桜之宮公園の対岸(右岸)には明治四年(一八七一)に開局された造幣局があり、構内の桜並木は「通りぬけ」として市民に親しまれている。
大川の称は江戸時代から淀川の異称・通称として用いられているが、具体的にどの辺りをよぶかは一定していなかったようである。いちばん広くとるのは明暦―寛文年間(一六五五―七三)の近世大坂地図で、長柄(中津川分岐点)以南を大川とする。これに対し「摂津名所図会大成」は、同じく異称である天満川の項に「天満ばし、天神ばし、なには橋等の三大橋下をながるゝ大川なり、世俗すべて淀川と称すれどもくわしくハ山城の淀より当摂津の長柄までを淀川といひ、長柄より下ハ天満川なり、難波ばしより下を大川といひ(下略)」という。
大川
おおかわ
[現在地名]東部町大字和 上大川・下大川
北国脇往還海野宿より、海善寺村・中曾根村等を経て、烏帽子岳山麓の東田沢村へ通ずる道と、上田城下より禰津へ通ずる道の交わる一帯の集落。金原川が東を流れている。永禄八年(一五六五)一一月、諏訪大社上社の武田信玄による造営再興次第に海野之分として「正物合壱斗四升三合田数五段半大河之分」として大川がみえている。今、上大川と下大川に分れている。元和八年(一六二二)仙石氏の上田領石高帳(重田家文書)には「百拾弐貫四百文高弐百七拾七石六斗弐升八合 大川赤石村」と記され、江戸初期正保四年(一六四七)信濃国絵図高辻(県宝、上田市立博物館蔵)には現下大川のやや東より一帯を大川村と記し、村高「高弐百七拾七石余」。
大
川
おおつちがわ
下閉伊郡川井村の小国との境、土坂峠(標高七五八メートル)を源として、金沢・大槌地区を貫いて北西から南東に流れ大槌湾に入る。金沢辺りでは金沢川、大槌では大槌川とよぶ。延長一二・五キロ。下流域では古くから鮭留漁業が行われ、安永六年(一七七七)には四日町の忠左衛門が五ヵ年御礼銭六二五貫文で、天明九年(一七八九)には盛岡八幡町儀右衛門が一ヵ年御礼銭一五〇貫文・御役塩引五〇本・筋子二樽で願出て許されている(雑書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
大川
おおかわ
香川県東部,大川平野の中部に位置し,津田川上・中流域を占める地域。旧町名。 1955年富田村と松尾村が合体して大川村となり,1961年町制。 2002年4月津田町,志度町,寒川町,長尾町と合併し,さぬき市となる。播磨灘に注ぐ津田川上・中流域を占める。南部の山地の大部分は花崗岩類からなる。中心集落の田面 (たづら) を中心として,大正初年に輸出用貝ボタンの製造を開始して以来ポリエステルボタンや手袋の主産地で,ボタンは海外に輸出される。四国随一の規模をもつ富田茶臼山古墳は国指定史跡。津田川上流に大川ダム,弥勒池周辺に自然休養村,このほか国の重要文化財である旧恵利家住宅などがある。北部を長尾街道が通る。
大川
おおかわ
福島県南西部,福島・栃木県境の荒海山に源を発し,会津盆地で日橋川と合する阿賀野川の上流部。上・中流部は深い峡谷で,下郷町域の楢原郷,九々布郷,湯野原郷では台地を深く刻み,各所に比高 100mあまりの絶壁をつくり,奇岩景勝の地をなす。天然記念物に指定されている「塔のへつり」の奇岩は特に有名。川沿いに会津鉄道,日光街道 (国道 121号線) が通る。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
普及版 字通
「大川」の読み・字形・画数・意味
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報