精選版 日本国語大辞典 「大工」の意味・読み・例文・類語
だい‐く【大工】

おおい‐たくみ おほい‥【大工】
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木造建築の職人。5世紀には木工(こだくみ)とよばれた。8世紀ごろ、大工(だいこう)とは技術官人の最高者の職名であり、木工・鍛冶(かじ)や壁塗(左官)職のそれぞれに大工(だいこう)が存在した。11世紀になって木工は独立した職人となって、年間のうち一定期間を上番して労務にあたるところから番匠(ばんじょう)ともよばれた。そして、16世紀に入ってから、一般に木工・番匠を大工と呼び習わすようになった。このころより建築技術は長足の進歩を遂げ、まず木割(きわり)術(建築各部材の大きさの割合を決める工法。つまり柱の径、柱間などを基準にして部材の大きさを決定する)が確立された。さらに、18世紀には、立体幾何の図式解法である規矩(きく)術が体系づけられ、それに伴い工作法も一段と高度化し、必然的に専門の家大工、宮大工、船大工、車大工、水車大工、機大工などに分化していった。
家大工は数も多く、大工といえば家大工が代表格であったが、19世紀になると有力な大工の親方や棟梁(とうりょう)が請負師の職も兼ねるようになったため、一般の大工の仕事は賃仕事でしかなくなった。さらに、近代に至って請負師を源流とする建設業者により、大工をはじめとする建設職人は下職または下請けといった立場に置かれた。これにより住宅の注文建築は激減し、さらに第二次世界大戦後に至り、新しい建築工法、新建材の誕生、電動工具の開発などによって、木割・規矩術を生かした伝統的建築はほとんどみることができなくなってきている。
宮大工は、17世紀以前、社寺の建築・改築を主なる業として、このほかに一般の住宅建築も行っていた。それが近世以後は住宅専門の家大工と分離し、社寺専門となった。社寺の建築においては、伝統を守らなければならず、やたらに新しい工法を取り入れることは許されない。今日、彼らは、文化財である社寺の修理・改築等を受け持つが、工具は伝統の槍鉋(やりがんな)、両刃(銀杏(いちょう)刃)、鑿(のみ)、手斧(ちょうな)などを使い、用材もヒノキを主とし、ケヤキ、クスノキ、スギ、マツなどに限定されている。このように宮大工に関しては、伝統技術は現在も後の世代に受け継がれており、その存在は貴重といえよう。
船大工は、古代・中世における造船技術の停滞を打ち破って、近世に大和(やまと)型とよぶ準構造船をつくった。大和型とは、肋(ろく)材は未熟・幼稚な代物であったものの、横木(ぬき)が船体補強の役割を果たす、当時としては注目に値する造船技術の粋といえた。大型荷船としては千石船があり、このほかに川船、関船(せきぶね)(軍船)、荷船など中小型船もつくった。用材は海船と川船では違い、前者の場合はクスノキ・ケヤキを、後者ではマキを中心に使用し、ヒノキ・スギは両方に使ったとする。技術面では、当然、木割・規矩術に頼ったが、宮大工のように厳しい制約はなく、外来のコンパスも大いに利用した。
19世紀後半以後、大型船は木造鉄船を経て鉄鋼船となったため、船大工は木造の中小荷船、漁船、川船などをつくるのみとなった。さらに現代に至ると、中小型船も原動機付きとなり、船大工に対する新規注文はばったりとだえた。しかも、彼らには宮大工のように文化財補修というような仕事もないため、伝統的技術は衰退の一途をたどっている。
[遠藤元男]
『西和夫著『江戸時代の大工』(1980・学芸出版社)』▽『西岡常一・青山茂著『斑鳩の匠・宮大工三代』(1977・徳間書店)』▽『須藤利一編「船」(『ものと人間の文化史 1』1968・法政大学出版局)』
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…建築の分野に限定しても住宅産業の市場規模は14兆円(1982年度)に達しており,関連分野を含めればその規模はさらに大きくなる。日本においては,住宅の生産と販売は,従来大工の棟梁,あるいは比較的零細な工務店が鳶職,屋根職,建具工,ガラス工その他の専門的技能者を下職(したしよく)として配下に組織するという生業的な形で行われていた。1960年代以降は,大手企業による建売住宅やマンションの供給が住宅建設において重要な役割を果たすようになっており,業界構造が変化してきている。…
…門記集(門),社記集(鳥居,神社本殿,玉垣,拝殿等),塔記集(塔と九輪),堂記集(寺院の本堂,鐘楼,方丈等),殿屋集(主殿,塀重門,能舞台等)の5巻から成り,それぞれの木割と,和歌山天満宮,出雲大社などの見聞録とを記す。吉政の奥書には,大工は五意(式尺の墨(すみかね),算合,手仕事,絵用,彫物)に達者でなければならぬと書かれ,木割をよく知り,積算,手仕事ができ,絵心があって彫刻も上手だというのが,大工の理想像であったことが知られる。【西 和夫】。…
…この弘法大師がまた聖徳太子と混同して語り伝えられ炭焼きも太子様を信仰した。 関西以西では木樵,木挽,炭焼きのほかに大工,左官,石屋,桶屋などの職人ももっぱら太子様を信仰し,太子講を組んでまつりをした。これは農村の大師講すなわちダイシコウと区別してタイシコウと呼ばれ,祭日も大師講とちがっているのが普通である。…
…近世の都市において手工業技術者である職人の集住する町。近世初頭の城下町建設期に,領主は築城などの土木建築工事や武器武具類の製作修理など,主として軍事上の必要から大工,左官,鍛冶屋をはじめとする手工業者を城下に集住させる必要があった。そのため,御用手工業者の棟梁には領内における営業権など種々の特権を与え,1町ないし数町の土地を拝領させ,国役(くにやく)または公役としてそれぞれに仕事を請け負わせた。…
…石川県白山山麓の山村では,嫁入前の娘たちが京都や大阪へ女中奉公や子守りとして数年間出稼ぎし,ここで結婚のための仕度金をつくり,行儀を見習う習慣があり,これをしないと一人前の娘とみなされなかった。 出稼ぎ職人として有名なのは,会津,筑波,信州などの屋根葺き職人や杜氏,鍛冶屋,石屋,大工などである。杜氏は酒の醸造にたずさわる職人で,雪国や山国の冬期間の出稼ぎ者が多かった。…
…中世では武家の一門など血縁集団や,一国・一郡といった地域集団,また寺社の衆徒などを統率する人物をいった。中世末から近世にかけ大工・左官をはじめとする職能集団の指導的人物を指すようになる。
[武家の棟梁]
棟梁の中で歴史学上もっとも重要なのは,武家の棟梁で,源義家が〈武士の長者〉(《中右記》)と呼ばれたのは同じ意味である。…
※「大工」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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