日本大百科全書(ニッポニカ) 「大日本生産党」の意味・わかりやすい解説
大日本生産党
だいにほんせいさんとう
1931年(昭和6)6月に結成された全国的な国家主義政党。黒竜会の内田良平(りょうへい)(総裁に就任)と吉田益三(ますぞう)が中心となり、同年11月開かれた第1回大会には黒竜会、日本国民党など19団体が参加。最初「大日本主義」を掲げていたが、32年1月急進愛国党(津久井竜雄(つくいたつお))や一部労働組合が加盟後、「金融寡頭政治の打破」など国家社会主義政策を採用。労働組合に働きかけて大日本生産党職業組合連合会などの下部組織をつくり、中小企業、借地借家人の組織化や農民運動にも力を入れるなど、当時の右翼運動のなかでは異彩を放っていた。31年12月、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)から提携の申入れがあり、内田総裁が訪日した代表ドン・ガドと会見したことなども注目すべきであろう。しかし33年の神兵(しんぺい)隊事件で党幹部多数が逮捕されたことなどから運動は沈滞した。42年解党して思想団体大日本一新会となり、46年(昭和21)1月GHQ(連合国最高司令部)の覚書で解散。性格は変わったが、同党の流れをくむ戦後右翼に、54年結成された大日本生産党(現総裁鴨田徳一)と、吉田益三が56年に組織した国民同志会(現会長吉田尚正)がある。
[大野達三]
『木下半治著『日本のファシズム』(1977・国書刊行会)』▽『大日本生産党編『生産党の記録』(1952・民族公論社)』