大正時代の社会運動家、無政府主義者。明治18年1月17日香川県に生まれる。名古屋陸軍幼年学校を退校して上京、1905年(明治38)東京外国語学校卒業。1904年幸徳秋水(こうとくしゅうすい)、堺利彦(さかいとしひこ)らが興した平民社を訪ね、以後研究会に出席、1906年2月、日本社会党に参加し、電車賃値上げ反対運動で先頭にたって起訴され、収監される。1907年2月、日刊『平民新聞』に「欧洲社会党運動の大勢」を発表、直接行動派の立場を明らかにし、幸徳をしのぐアナキズム理解者となる。同年3月『平民新聞』に掲載された、クロポトキンの翻訳「青年に訴ふ」が同年4月、新聞紙条例違反となり起訴され収監、1908年1月の金曜会屋上演説事件で再度入獄する。同年6月の赤旗事件では、堺、荒畑寒村(あらはたかんそん)、山川均(ひとし)らとともに2年半の懲役刑を受ける。獄中でクロポトキンの影響から脱し、出獄後は大逆(たいぎゃく)事件後の「冬の時代」下、堺の時機待機論を批判して、1912年(大正1)10月、荒畑と文芸思想誌『近代思想』を創刊、生の拡充と創造を説き、社会的個人主義を確立していく。1914年9月「知識的手淫(しゅいん)」と自嘲(じちょう)して『近代思想』を廃刊し実際運動に踏み切るが、月刊『平民新聞』、第二次『近代思想』は連続して発禁となる。このころ神近市子(かみちかいちこ)と結ばれ、ついで伊藤野枝(いとうのえ)とも結ばれるが、このような恋愛関係は新旧の同志からも批判を受け、1916年11月には神奈川県葉山(はやま)の日蔭茶屋(ひかげちゃや)で神近に刺されるという事件を引き起こす。
1917年12月『文明批評』を創刊、同月、東京・亀戸(かめいど)に転居。1918年5月、和田久太郎(わだきゅうたろう)、久板卯之助(ひさいたうのすけ)とともに『労働新聞』を創刊。1919年10月には第一次『労働運動』を創刊してサンジカリズム運動の先頭にたつ。1920年8月、日本社会主義同盟の発起人になり、ボリシェビキ派と協同するが、ロシア革命評価などをめぐってしだいに批判を強め、1922年9月の日本労働組合総連合大会では自由連合論を支持してボル派と激しく対立。翌大正12年9月16日、関東大震災の戒厳令下、甘粕正彦(あまかすまさひこ)憲兵大尉らにより伊藤野枝、甥(おい)の橘宗一(たちばなむねかず)とともに勾引(こういん)、虐殺された。
[荻野富士夫]
『『大杉栄全集』全12巻・補巻1(1963~65・現代思潮社)』▽『大沢正道著『大杉栄研究』(1971・法政大学出版局)』▽『秋山清著『大杉栄評伝』(1976・思想の科学社)』▽『冨板敦編著『大杉栄年譜』(2022・ぱる出版)』
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無政府主義の社会運動家,理論家。香川県丸亀に職業軍人の子として生まれる。1901年名古屋の陸軍幼年学校中退。05年東京外国語学校仏語科卒業。在学中,足尾鉱毒事件に関心をもち,平民社に出入りする。06年東京市電値上反対事件で入獄し,獄中では〈一犯一語〉主義で外国語を独学する。同年,黒板勝美,千布利雄らと〈日本エスペラント協会〉を創立する。堀保子と結婚。幸徳秋水の影響で無政府主義者となり,直接行動論の立場をとる。08年赤旗事件で入獄。獄中で大逆事件の容疑をかけられるも免る。〈冬の時代〉にたえきれずに荒畑寒村と12年《近代思想》を創刊し,文壇の一権威と評された。13年,サンジカリズム研究会を開催し,活動を活発化していく。また,神近市子,伊藤野枝と恋愛関係におちいり,16年神奈川県葉山町の日蔭茶屋で神近に刺される。その後,保子と別れ,野枝と一緒になる。18年亀戸の労働者街に移住し,野枝と《文明批評》(1~3月)を,和田久太郎,久板卯之助らと《労働新聞》(4~7月)を創刊。第1次大戦後,労働運動が高まっていくなかで,自主自活的労働の促進を目的とする《労働運動》を19年に近藤憲二,和田,久板らと創刊する。また〈演説もらい〉(演説会への殴り込み)を中心に活動を行う。20年コミンテルンの極東社会主義者大会に出席のため上海へ密航する。アナ・ボル論争では組合の自主性を尊重する立場から,自由連合論を支持する。22年国際無政府主義大会(ベルリン)に出席のため日本を脱出,23年パリ郊外サン・ドニでのメーデー集会で,日本のメーデーについて演説した後,検束され国外追放となり帰国。関東大震災に際し,麴町憲兵隊に拘引され,虐殺された(甘粕事件)。その思想はコミンテルンなど他からの指導による運動でなく,〈あくまでも労働者自身〉による労働運動にあり,また,創刊した雑誌名(《近代思想》《文明批評》など)からも推察できるように,大正初期にあって最も〈近代〉を体現していた。
著書に《正義を求める心》《自由の先駆》《自叙伝》など,訳書にクロポトキン《一革命家の思出》,ダーウィン《種の起源》など。《大杉栄全集》11巻(1963-64)がある。
執筆者:亀嶋 庸一
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大正期の無政府主義者,革命家,評論家
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(小松隆二)
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1885.1.17~1923.9.16
大正期の無政府主義の社会運動家・思想家。香川県出身。陸軍幼年学校中退。東京外国語学校在学中に平民社に出入りし社会主義に傾倒,無政府主義者として大正初年からきびしい弾圧下に活発に活動。ボリシェビキに反対し,革命をめぐり堺利彦・山川均(ひとし)らボリシェビキ派とアナ・ボル論争を展開。関東大震災の混乱のなか,憲兵大尉甘粕(あまかす)正彦らに惨殺された。
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…この後に直接的テロ行動と,アナルコ・サンディカリスム運動との一時期が続くが,19世紀末におけるアナーキズム理論の集大成者はクロポトキンであり,彼は〈無政府共産制〉という標語で平等思想を徹底させ,明治・大正期の日本にも影響を与えた。 日本では明治30年代末に煙山専太郎や久津見蕨村によって無政府主義の紹介がなされているが,社会運動の中でそれを推進したのは,クロポトキンとも文通して1908年に《麵麭(パン)の略取》を翻訳公刊した幸徳秋水や大杉栄らである。このグループは1907年以来〈直接行動派〉と呼ばれるが,20年代初頭のアナ・ボル論争を経て勢力は衰退し,大正末から昭和初めにかけては無産運動の周辺部にとどまった。…
…第1次世界大戦後,日本の社会運動内部に生まれたアナルコ・サンディカリスムとボリシェビズムの2潮流による思想上,運動上の対立。大戦後労働運動が高揚し,そのなかに1920年ころから大杉栄らのアナルコ・サンディカリスムの思想が強い影響力をもつようになった。一方1917年におこったロシア革命の研究が山川均らによってすすめられ,ボリシェビキの影響もみられるようになった。…
…関東大震災後の1923年9月16日に東京憲兵隊麴町分隊長甘粕正彦らが無政府主義者大杉栄らを計画的に殺害した事件。大震災による戒厳令のもとで亀戸事件など軍隊・警察による社会主義者迫害が続いたが,甘粕は東京憲兵隊特高課の森慶次郎曹長と大杉を探索し,この日大杉が妻伊藤野枝と神奈川県鶴見に弟の勇を見舞い,7歳のおい橘宗一をつれて帰宅するところを東京憲兵隊本部に連行し,3人を絞首し,死骸を構内の古井戸に埋めさせた。…
…また結婚問題を通じて家族制度の矛盾を痛感し,平塚らいてうを中心とする青鞜社に参加,著作活動で〈新しい女〉の一人となった。1915年後期《青鞜》を主宰,アナーキストの大杉栄に近づき弱者の正義に生きようと,16年,夫と子を捨て世間の非難をこえて彼と同棲し,《文明批評》《労働運動》などを共に編集する。また労働運動にも参加,赤瀾会の結成に加わった。…
…1914年《東京日日新聞》の記者になったころから社会主義者と交流。多角恋愛に悩んで,16年葉山日蔭茶屋で大杉栄を傷害,2年の刑を受けた。出獄後は文筆生活に入り,《女人(によにん)芸術》に参加したほか,35年には夫の鈴木厚と《婦人文芸》を創刊。…
…他方,明治後半より大正年代にかけて,当時のいわゆる社会主義者たちが進化論に関心を寄せた。幸徳秋水,大杉栄,堺利彦,山川均らであり,大杉は《種の起原》の翻訳もした(1914以降)。だが生存競争説は,社会主義への攻撃の論拠にも使われた。…
…その後,幸徳らの流れは同年6月から森近運平編集の《大阪平民新聞》(後《日本平民新聞》と改題)に受け継がれたが,08年5月(第23号)をもって廃刊。また,大杉栄と荒畑は14年10月15日に月刊《平民新聞》を発行したが,毎号発売禁止という過酷な弾圧にあい翌15年3月の第6号で廃刊した。【有山 輝雄】。…
…また堺や山川均,荒畑寒村らも《社会主義研究》や《新社会》を発刊して,〈我々の旗印とは何ぞや,曰くマルクス主義である〉と宣言(1919)し,労農ロシアのボリシェビズムへと向かった。一方,大杉栄は荒畑寒村とともに雑誌《近代思想》を創刊(1912)し,アナルコ・サンディカリスムの立場から新しい思想的啓蒙を行っていたが,クロポトキンの《相互扶助論》の訳出をはじめ,アナーキズムを広める活動を行った。こうして,1921年前後に両者の対立は〈アナ・ボル論争〉として激化し,労働運動にも大きな影響を与えたが,やがて堺や山川らは国際共産主義運動と結びついて日本共産党を結党し,〈アナ・ボル論争〉もボリシェビズムが勝利して,日本のマルクス主義の基調となった。…
…大正デモクラシーの思潮の中から,芸術の民衆化,あるいは民衆の芸術参加という課題が浮かび,〈民衆芸術とは一般平民のための芸術〉と規定した本間久雄の論文〈民衆芸術の意義及び価値〉(1916)が論議の発端になった。安成貞雄,加藤一夫,大杉栄,平林初之輔,生田長江などが発言したが,本間が民衆を教化する芸術を論じたのに対し,急進的な大杉は〈民衆によって民衆の為に造られ而して民衆の所有する芸術〉と規定して,労働階級の政治的自立と芸術的自立の同時達成を主張し,両者の論旨が有効にかみあうまでにいたらず,論議は労働文学や民衆詩などと一つになって,大正末年のプロレタリア文学をめぐる大渦の中に吸収されていった。ロマン・ロラン《民衆芸術論》の刊行(1917,大杉栄訳)は一つの収穫であった。…
…そこから彼は,代議政治による〈民衆的監督〉の制度化,普通選挙,責任内閣制の実現等をねばり強く追求し,他方で枢密院,貴族院,軍部等の非立憲的勢力の政治介入を極小化しようとした。だが山川均や大杉栄ら,大逆事件後の〈冬の時代〉をくぐってきた社会主義者などは,これを天皇主権論との対決を回避した微温な妥協理論だと批判した。他方,吉野の中に偽装せる共和主義者を見てとって,弾圧・抹殺を試みた司法官僚や軍関係者らの動きもあった。…
※「大杉栄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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