精選版 日本国語大辞典 「大村純忠」の意味・読み・例文・類語
おおむら‐すみただ【大村純忠】
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戦国末期の大名。肥前高来(たかく)(長崎県)の領主有馬晴純(ありまはるずみ)(1483―1566)の次男として生まれ、1538年(天文7)大村(長崎県)の領主大村純前(すみさき)(?―1551)の養子となり、1550年家督を継ぐ。純前の実子貴明(たかあき)(1534―1583)は庶子であったため、武雄(たけお)(佐賀県)の後藤純明(ごとうすみあき)(?―1553)の養子となった。この相続事情は家臣団の分裂をきたす原因となった。1561年(永禄4)修道士ルイス・デ・アルメイダが領内の横瀬浦を訪れたのを機にキリスト教およびポルトガル貿易にひかれ、この地を開港場とし、当時日本布教の最高責任者であったコスメ・デ・トルレスを好遇し、1563年には受洗してバルトロメオと称した。キリシタン大名の最初である。以後、積極的に布教保護の方針を進め、反対派によって横瀬浦が焼打ちされると、1565年には福田港を開きポルトガル船の誘致に努め、1570年(元亀1)には長崎開港をみるに至り、やがて同地は伝道と貿易の中心地となった。1580年(天正8)には長崎周辺の土地をイエズス会に寄進し、またバリニャーノの企画した少年遣欧使節を派遣したが、この間龍造寺(りゅうぞうじ)氏からの圧迫甚だしく、1584年以降一時完全に領主権を喪失するに至った。しかし、龍造寺隆信(たかのぶ)が有馬・島津の連合軍に敗れ戦死したため、その支配から解放された。やがて豊臣秀吉(とよとみひでよし)が島津氏征討のため九州に出陣すると、純忠は秀吉の下知に従い、これにより旧領を安堵(あんど)され、豊臣政権下の一大名となったが、この直前1587年5月25日(天正15年4月18日)没した。
[箭内健次 2018年3月19日]
(宮崎賢太郎)
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1533~87.4.18/5.18
戦国期~織豊期の肥前国の武将。父は有馬晴純(はるずみ)。幼名勝童丸。法名理専(りせん)。丹後守・民部大輔。1538年(天文7)大村純前(すみあき)の養子となり,50年同家を相続するが,襲封後も純前の実子後藤貴明(たかあきら)を擁する一派などと抗争が続く。南蛮貿易を積極的に行い,63年(永禄6)に洗礼をうけ最初のキリシタン大名となったが,改宗を不満とする謀反がおき追放された。その後,有馬晴純の援助で復帰。80年(天正8)に竜造寺隆信の軍事的圧迫に屈服し,一時領国主の地位を失い逼塞(ひっそく)させられるなど,統治は終始不安定であった。82年,甥千々石(ちぢわ)ミゲルを遣欧使節の一員として派遣。86年子喜前(よしあき)に家督を譲り,翌年大村坂口館で死没。
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…九州の諸大名は金や軍需品などの獲得のためにポルトガル船の寄港を望み,宣教師の領内布教を許した。1563年(永禄6)肥前の大村純忠は改宗して最初のキリシタン大名となり(霊名バルトロメイ),長崎の地をイエズス会に寄進した。豊後の大友宗麟(義鎮)は78年(天正6)に改宗しフランシスコと称したが家運はすでに傾いていた。…
…秀吉の突然の禁令の背景には,長崎,茂木が教会領となっていたことへの反発があったと考えられている。1580年肥前の領主大村純忠・喜前(よしあき)父子は長崎,茂木をイエズス会に寄進し,その土地所有権,行政権,裁判権とポルトガル船の停泊税が会の手に渡り,大村氏の手にはわずかに入港船の貿易税徴収権が留保されるにとどまった。秀吉の念頭には,寺内町という独自の都市領域を持ち,自宗以外の寺社を破却し〈百姓ノ持タル国〉を現出して天下統一に最大の抵抗を試みた石山本願寺と一向一揆の影が去りやらず,このような外国の宗教領主の存在を容認することはできなかった。…
… 九州の諸大名は鉄砲や硝石等の武器弾薬を入手して貿易の利を得ようとし,キリシタン宣教師にキリスト教の布教を許すなどして自領内へのポルトガル商船誘致に努めた。とくに肥前大村の領主大村純忠はみずからキリスト教に改宗し,イエズス会の要請をいれて,70年(元亀1)長崎港を開いた。翌年ポルトガル商船がはじめて長崎に入港し,同地は一寒村から貿易都市として発展していくが,ポルトガル人の長崎貿易は1638年(寛永15)までしか続かなかった。…
※「大村純忠」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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