紀元前四千年紀から前二千年紀の間、黄河下流域で栄えた中国新石器時代晩期の文化。山東省泰安(たいあん)市大汶口鎮と寧陽(ねいよう)県堡頭(ほとう)村にまたがる大汶口遺跡の墓葬を標式とする文化で、竜山(りゅうざん)文化に先だち仰韶(ぎょうしょう)文化より新しい。1950年代初期にすでにこの文化の遺跡は発見されていたが、竜山文化との類似性から、その位置づけが定まらず、60年代になって山東竜山文化とは別系統の文化とされ、続いて70年代後半に入って、山東竜山文化は大汶口文化を継承したものであることが確認された。この文化は山東省中部を中心に山東半島および江蘇(こうそ)省北部と河南省の一部にも分布し、山東竜山文化の分布と完全に重なっている。大汶口遺跡では、仰臥(ぎょうが)伸展葬を中心に成人男女合葬がみられ、また抜歯、頭骨の人工変形や墓にブタの頭骨の供献、手に獣牙(じゅうが)を持ち腰部に亀甲(きっこう)を置く埋葬が注目されている。
この文化は早・中・晩期の三段階に区分されており、早期と晩期では社会的発展に顕著な差違がみられる。早期の墓葬は、小さな竪穴土壙(たてあなどこう)墓が中心で副葬品も少ない。土器は手作りを主とする紅陶(こうとう)が大多数を占める。中期の墓は、中型・大型の土壙墓と木槨(もっかく)墓が登場し、規模と構造上の差と副葬品の量的差違が顕著となる。晩期になると大型墓はたいてい木槨を使用し、大量の土器のほかに玉(ぎょく)・トルコ石製品、精巧な彫刻のある象牙(ぞうげ)製品の副葬やブタの頭骨の供献などが特定の墓葬に限られ、社会階層に不平等が発生して、貧富の差が生じたことを示している。また、土器も紅陶が少なくなり黒陶や灰陶が増加し、ろくろの使用が始まって、土器製作における専業化がかなり進行していることをうかがわせる。彩陶は早期から存在するが、全体からみると各段階の出土は少なく、晩期には特定の墓葬にのみ限られ、最後には消失してしまう。江蘇省北部に分布する青蓮岡(せいれんこう)文化の江北類型の文化内容は、大汶口文化のそれと基本的に一致するものが多く、大汶口文化に帰属させる見解が有力である。
[横田禎昭]
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…このように,地勢や気候からみて,山東は華北平原のなかで最も安定した自然条件をもつ地域であるといえよう。
【斉魯文化】
[大汶口文化と竜山文化]
新石器時代,黄河中下流域には多様な文明が形成されたが,山東では約5000年前,大汶口(だいぶんこう)文化(泰安県大汶口遺跡を代表遺跡とする)と呼ばれる進んだ文化が,ほぼ山東全域に広がっていた。この文化は,同時期に西の中原地方にみられる仰韶文化とはやや性格を異にし,むしろ江南地方から淮河(わいが)下流域にみられる青蓮崗文化と共通するところが多く,山東より沿海に長江(揚子江)下流域まで続く,一連の文化が形成されていたと考えられる。…
…これらの文化でみられる稲作,養蚕,家畜飼育などは,河姆渡文化でみられたものをより充実し複雑な姿にしたもので,長江下流域を中心にひとつのまとまった文化圏が形成されていることを示す。ほぼ同時期に,江蘇北部より山東にかけて展開する青蓮崗文化,大汶口文化とは,共通する面も多いが,性格を異にするところも多く,一定の交流はありながらも,畑作を基盤とする文化と,稲作を基盤とする文化の基本的相違がより明確になりつつあることをうかがわせる。
[百越文化]
中原で新石器文化より青銅器文化への移行がすすみ,夏・殷・周の統一王朝が成立した時期,その影響は南方にも及んだ。…
※「大汶口文化」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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