大部荘(読み)おおべのしょう

百科事典マイペディア 「大部荘」の意味・わかりやすい解説

大部荘【おおべのしょう】

播磨国賀東(かとう)郡の荘園。現兵庫県小野市一帯。奈良東大寺領。1147年垂水荘など三荘の東大寺領と交換して新たに東大寺に与えられたもので,所属をめぐる国衙(こくが)(国衙・国府)との相論(そうろん)を経て1162年寺領として確定。治承の兵火(1180年)で焼けた東大寺再興のため,1190年大勧進重源(ちょうげん)に与えられ,彼によって荘内に浄土寺が創建された。一時宋人の鋳物師陳和卿(ちんけい)にあてがわれたが,1197年から東大寺東南院の管轄となり,以後同院派遣の荘官による在地支配が行われた。1215年地頭が設置されて寺家との紛争を繰り返し,浄土寺時衆(じしゅう)の荘務押領(おうりょう)や公文(くもん)王氏一族の内紛などで荘内は動揺,南北朝ごろから守護赤松氏の勢力が荘内に及び,土一揆も発生して応仁・文明の乱後は有名無実化した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大部荘」の意味・わかりやすい解説

大部荘
おおべのしょう

兵庫県小野市付近にあった東大寺領荘園。成立は1147年(久安3)であるが、長く無主の荒野となっていたものを、東大寺の復興造営に従事していた勧進上人(かんじんしょうにん)俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)に与えられたのを契機に、1192年(建久3)東大寺領として境界が確認された。重源が設けた播磨別所(はりまのべっしょ)である小野市浄谷(きよたに)町の浄土寺は大仏様(天竺(てんじく)様)の名建築として著名。1294年(永仁2)大部荘の年貢を東大寺に送らないため、同荘雑掌(ざっしょう)を解任された近辺の志染保(しじみほ)雑掌垂水繁昌(たるみはんじょう)が、数百人の武装した悪党(あくとう)を率いて荘内に乱入した事件や、1454年(享徳3)同荘の地主高利貸しである百姓五郎左衛門が荘内外の地下人(じげにん)に殺害された享徳(きょうとく)の大部荘土一揆(どいっき)は有名。

[小西瑞恵]

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世界大百科事典 第2版 「大部荘」の意味・わかりやすい解説

おおべのしょう【大部荘】

播磨国加東郡(現在の兵庫県小野市一帯)にあった東大寺領荘園。1145年(久安1)に立荘され,47年にそれまで東大寺が播磨にもっていた石塩生荘(のち赤穂荘),粟生荘,垂水荘の3荘と交換して東大寺領となる。その後,東大寺は交換した3荘を手放さず,国衙と紛争がおこり,62年(応保2)5月に東大寺領として確定。治承・寿永内乱で東大寺が焼かれると,当荘は90年(建久1)東大寺大勧進俊乗房重源(ちようげん)に与えられ,重源の申請で宋人の鋳物師陳和卿(ちんなけい)にあてがわれた。

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世界大百科事典内の大部荘の言及

【播磨国】より

…荘園は8世紀中ごろから発生し,東大寺領の垂水荘,石塩生荘など,多くの大寺が播磨に荘園をもった。平安時代では藤原氏の所領の有年荘,美福門院領の矢野荘,東大寺領の大部(おおべ)荘などが著名である。【直木 孝次郎】
【中世】

[鎌倉時代]
 播磨は1184年(元暦1)源義経が三草山(みくさやま)の戦で平資盛を敗走させてから源氏の支配下に入り,源頼朝は梶原景時を下して播磨その他を守護させた。…

※「大部荘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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