百科事典マイペディア 「大部荘」の意味・わかりやすい解説
大部荘【おおべのしょう】
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
兵庫県小野市付近にあった東大寺領荘園。成立は1147年(久安3)であるが、長く無主の荒野となっていたものを、東大寺の復興造営に従事していた勧進上人(かんじんしょうにん)俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)に与えられたのを契機に、1192年(建久3)東大寺領として境界が確認された。重源が設けた播磨別所(はりまのべっしょ)である小野市浄谷(きよたに)町の浄土寺は大仏様(天竺(てんじく)様)の名建築として著名。1294年(永仁2)大部荘の年貢を東大寺に送らないため、同荘雑掌(ざっしょう)を解任された近辺の志染保(しじみほ)雑掌垂水繁昌(たるみはんじょう)が、数百人の武装した悪党(あくとう)を率いて荘内に乱入した事件や、1454年(享徳3)同荘の地主、高利貸しである百姓五郎左衛門が荘内外の地下人(じげにん)に殺害された享徳(きょうとく)の大部荘土一揆(どいっき)は有名。
[小西瑞恵]
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
…荘園は8世紀中ごろから発生し,東大寺領の垂水荘,石塩生荘など,多くの大寺が播磨に荘園をもった。平安時代では藤原氏の所領の有年荘,美福門院領の矢野荘,東大寺領の大部(おおべ)荘などが著名である。【直木 孝次郎】
【中世】
[鎌倉時代]
播磨は1184年(元暦1)源義経が三草山(みくさやま)の戦で平資盛を敗走させてから源氏の支配下に入り,源頼朝は梶原景時を下して播磨その他を守護させた。…
※「大部荘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
送り状。船荷証券,海上保険証券などとともに重要な船積み書類の一つで,売買契約の条件を履行したことを売主が買主に証明した書類。取引貨物の明細書ならびに計算書で,手形金額,保険価額算定の基礎となり,輸入貨...
9/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新