デジタル大辞泉 「大阪」の意味・読み・例文・類語
おおさか【大阪/大坂】[地名]
大阪府中部の市。府庁所在地。指定都市。古代の
古代、大和から河内へ越える坂。古代交通の要路。
「御杖をもちて―の道中の大石を打ち給へば」〈記・中〉
[補説]大阪市の24区
旭区、阿倍野区、生野区、北区、此花区、城東区、住之江区、住吉区、大正区、中央区、鶴見区、天王寺区、浪速区、西区、西成区、西淀川区、東住吉区、東成区、東淀川区、平野区、福島区、港区、都島区、淀川区
書名別項。→大阪
「小坂(おざか)」が「大坂(おおざか)」になったことについて、「碩鼠漫筆」には蓮如上人が明応五年(一四九六)に本願寺を建立した際、「小坂の号を祝ひ更め、始めて大坂と呼びしにはあらじか」とあり、「筱舎漫筆」には秀吉が築城した時、「小坂にてはふにあひなればとて、大坂とあらためたまひしものなるべし」といったとある。
近畿地方の中央低地の西部にあり、北は京都府、東は奈良県、南は和歌山県、西は兵庫県に接し、南西部は大阪湾に臨む。古来、水陸交通の要地にあって、早くから先進地域をなし、現在も商工業が発達し、東の東京都と並び、西日本の中枢的地位を占めている。「大坂」の地名は、室町時代中期に石山御坊(のちの石山本願寺)を創建した蓮如上人(れんにょしょうにん)の『御文(おふみ)』にみえるのが最初で、古名は難波(なにわ)といった。「大阪」の字を用いるようになったのは江戸後期からで、明治以降行政地名となった。府の面積は埋立地造成により増加し、1988年(昭和63)には香川県を抜いて都道府県最下位を脱し、人口は東京都、神奈川県に次ぎ第3位にあり、人口稠密(ちゅうみつ)地域をなしている。面積1905.32平方キロメートル、人口883万7685(2020)。府庁所在地は大阪市。
府下の人口増加率の推移をみるに、日本の高度経済成長期の1960~1965年の20.9%の大幅増加を頂点に増加率は低下傾向をたどり、阪神・淡路大震災の影響で1995年(平成7)にプラスになった以外、1989年以降、2000年まではマイナスとなっている。これは、人口の自然増が縮小する一方、経済成長の低調が社会増の減少につながったものである。また、人口の都市別増減の推移をみるに、大阪市を中心に隣接の守口、門真(かどま)、東大阪市などで人口減少を生じている反面、大阪市から20~40キロメートル圏内にある大阪狭山(おおさかさやま)、交野(かたの)、和泉(いずみ)、泉佐野、箕面(みのお)などの各市では人口増加をみ、いわゆる人口のドーナツ現象が顕著となっている。
2020年10月時点では33市5郡9町1村からなっている。
[位野木壽一・安井 司]
瀬戸内陥没地帯の一部をなし、中央部に大阪平野と大阪湾の窪地(くぼち)帯があり、その北部、東部、南部を山地、西部を淡路島で囲まれた一大海盆状の地形である。
北部の山地は、剣尾山(けんびさん)(784メートル)、妙見山(みょうけんさん)(660メートル)など古生層からなる隆起準平原で、南端は箕面断層崖(がい)で境する。東部の山地は南北に縦走する生駒山地(いこまさんち)と金剛山地(こんごうさんち)からなる。基盤はおもに片状花崗岩(かこうがん)であるが、褶曲(しゅうきょく)運動に断層を伴う傾動地形を示し、生駒山地は西側に生駒断層崖、金剛山地は東側に葛城(かつらぎ)断層崖の急崖をなす。生駒、金剛両山地間には第三紀中新世の火山の名残(なごり)である二上山群(にじょうさんぐん)(最高517メートル)がある。南部には中生代和泉(いずみ)砂岩層からなる和泉山脈がある。褶曲に断層運動が加わり、とくに南側は紀ノ川河谷に急崖を示す中央構造線が通る。これらの山地は景勝と眺望に恵まれ、北部は明治の森箕面国定公園に、東部と南部の一部は金剛生駒紀泉国定公園に指定されている。山麓(さんろく)には300~100メートルの千里丘陵(せんりきゅうりょう)、枚方丘陵、河泉丘陵(かせんきゅうりょう)などがあり、丘陵に接続して50~20メートル級の台地が段丘状に存在する。
中央部の大阪平野は、更新世(洪積世)の入り海(河内湾)が淀川(よどがわ)、大和川(やまとがわ)などの諸河川の運搬土砂で堆積(たいせき)した氾濫原(はんらんげん)である。海岸線もこれらの河川の三角州と沿岸潮流による砂浜海岸であったが、近年堺(さかい)・泉北臨海工業地帯など、埋立てによる人工的海岸に変貌(へんぼう)した。
[位野木壽一・安井 司]
瀬戸内式気候帯に属し、一般に気候温和である。大阪市の年平均(1981年~2010年の平均値、以下同)気温は16.9℃で、月別平均気温では1月の6.0℃が最低で、8月の28.8℃がもっとも高い。山地部と平野部の気温差は相当にあり、北摂山地の能勢(のせ)では冬季に0℃以下になることも多く、寒冷気候を利用して寒天(かんてん)製造が行われた。大阪市の年降水量は1279ミリメートルで、比較的少ない。月別平均は12月の43.8ミリメートルが最少、6月の梅雨期が184.5ミリメートルで最高である。盛夏には晴天が続き、干魃(かんばつ)をもたらすことがある。風向は地域により相違があるが、大阪市域では西風と北東風が卓越する。とくに夏季の晴天日は日中に海軟風、夜間に陸軟風となり、その交代時には朝凪(あさなぎ)・夕凪の無風状態を生じ、蒸し暑い。また、西風によるスモッグ現象も、臨海工業地域のみならず内陸部でも悩みとなっている。
[位野木壽一・安井 司]
府下での旧石器時代遺跡は、発掘ブームで爆発的に増加している。その代表的遺跡としては、交野台地上の神宮寺遺跡、二上山麓の新池遺跡、道明寺台地の国府遺跡(こういせき)があり、握斧(あくふ)型石器、ナイフ型石器類が洪積層中から発掘された。これらから旧石器時代に二上山の安山岩を原石とした石器が、生駒山麓から枚方、交野の丘陵、台地方面にも広がり、先史人の活動の舞台となっていたことがうかがえる。府下最古級の土器(縄文土器)の出土品には神宮寺遺跡や穂谷遺跡(ほたにいせき)の押型文土器、国府遺跡や錦織遺跡(にしごりいせき)の羽状文や爪形文(つめがたもん)土器などがあり、国府遺跡では70体余の人骨を発掘した。また大阪市内の森の宮遺跡(もりのみやいせき)からは貝塚とともに人骨を出土した。この縄文後期~弥生(やよい)時代の貝塚からは、下部の海水産のマガキから上部の淡水産のセタシジミの貝殻層の出土がみられ、古大阪湾(河内湾)がしだいに潟湖(せきこ)(河内潟)に移行し、大阪平野の形成が進んでいったことを物語っている。農耕文化を示す弥生時代の遺跡は、台地末端地から高位沖積地に広がり、代表的なものに瓜生堂(うりゅうどう)、池上曽根、四ツ池、安満(あま)などの遺跡がある。これらのなかには、農業共同体が進み大規模な集落をなすものも現れている。農耕の開発とそれに伴う灌漑(かんがい)施設事業の大規模化とともに村落国家の出現をみ、それらが統合されて大和朝廷への統一へと進んでいった。それを象徴する豪族の古墳群は、丘陵・台地面に広く分布し、応神天皇陵(おうじんてんのうりょう)(誉田山古墳(こんだやまこふん)が指定される)を中心とする古市古墳群(ふるいちこふんぐん)、仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)(大山古墳(だいせんこふん)が指定される)を中心とする百舌鳥古墳群(もずこふんぐん)などの大王陵の古墳群が築造された。この古墳最盛期の3~5世紀には朝鮮との往来も盛んとなり、渡来人が多く大阪地方に定住し、文字、仏教などの文化面をはじめ機織(はたおり)、窯業(ようぎょう)などの産業、灌漑などの土木技術を伝えた。
飛鳥(あすか)時代、奈良時代になると、中国からの大陸文化の輸入も盛んになり、難波津(なにわづ)はその門戸として繁栄を極めた。『日本書紀』によれば、応神天皇の難波大隅宮(なにわおおすみのみや)、仁徳天皇の難波高津宮(なにわたかつのみや)、さらに孝徳天皇(こうとくてんのう)の難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)の造営をみ、奈良時代になると聖武天皇(しょうむてんのう)の難波宮などの遷都が行われた。また難波から飛鳥への官道には、聖徳太子創建と伝える四天王寺や野中寺(やちゅうじ)、また交野台地には百済寺(くだらでら)などの建立をみた。当時大阪平野の開発は一段と進み、646年(大化2)班田法の施行に伴う条里制が全国に先駆けて行われた。律令(りつりょう)体制のもとに摂津(せっつ)、河内(かわち)、和泉(いずみ)の3国が定められ、それぞれに国府や国分寺、同尼寺などが置かれた。
平安時代中ごろになると、難波津の繁栄も、淀川河口の土砂の堆積が進んで港の機能を失い、しだいに衰退に向かい、わずかに四天王寺、住吉大社の門前町として余命を保っていた。そのころから地方武士の台頭をみ、河内国では源頼信(みなもとのよりのぶ)、頼義(よりよし)、義家(よしいえ)らの河内源氏が輩出し、その後裔(こうえい)源頼朝(よりとも)に至って鎌倉幕府の成立をみた。
[位野木壽一・安井 司]
鎌倉末期から南北朝時代にかけては、南朝の主柱楠木正成(くすのきまさしげ)・楠木正行(くすのきまさつら)の一族が河内国赤坂、千早城(ちはやじょう)を根拠として、北条氏さらに北朝の足利(あしかが)氏と戦い、難波をはじめ摂津、河内の地方は戦乱のため荒廃に帰した。
室町時代中期ごろ、大内、細川、三好(みよし)氏ら守護大名の庇護(ひご)を受けた堺(さかい)が港都として栄え、ことに1469年(文明1)遣明船(けんみんせん)の渡来から海外貿易の拠点となり、さらに南蛮船の往来をみるようになった。宣教師フランシスコ・ザビエルのキリスト教伝播(でんぱ)や鉄砲製造、更紗(さらさ)の技術の導入など南蛮文化の開花をみた。当時の堺は市街の周囲を堀で囲み、行政は36人の会合衆(えごうしゅう)による自治制がとられた。
一方、大坂も1496年(明応5)浄土真宗中興の英僧蓮如(れんにょ)上人が石山御坊を建立し、石山寺内町(じないまち)が形成された。宗勢が隆盛するにつれて天下統一を目ざす織田信長と衝突し、11年にわたる石山合戦となった。のち信長と和睦(わぼく)した宗徒は大坂を退去し、かわって1583年(天正11)羽柴秀吉(はしばひでよし)(豊臣秀吉(とよとみひでよし))がここに大坂城を築城した。城下町は整備され、政治の中心地になるとともに、堺の商人を移住させて商都の基盤も確立した。
[位野木壽一・安井 司]
大坂の陣(1614~1615)で豊臣氏が滅亡した後は松平忠明(まつだいらただあきら)による戦後の復興が行われたが、忠明移封後は大坂は堺とともに江戸幕府直轄の天領となり、商都としての経営が進められた。ことに淀川の中之島(なかのしま)、堂島(どうじま)を中心に諸国各藩の蔵屋敷が設けられ、全国の米をはじめ特産物の集散が行われ、大坂は「天下の台所」と称された。巨利を博した豪商は、大阪平野の新田開発にも投資し、鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)の開発した鴻池新田をはじめ各地に新田の開発をみた。また文化面でも、西山宗因(にしやまそういん)、井原西鶴(いはらさいかく)、近松門左衛門などを輩出し、町人文化の華を咲かせた。
地方では、交通路の整備が進み、守口、枚方などの宿場町、池田、佐野(和泉)の市場町、また特産木綿の集散地としての堺、貝塚、八尾(やお)、平野などの町々が発達した。幕府は摂津、河内、和泉の凝集力を恐れて分割統治を図った。在地大名領として明治の廃藩置県まで残ったのは、摂津の麻田藩(あさだはん)(1万石)、高槻藩(たかつきはん)(3万6000石)、河内の狭山藩(さやまはん)(1万1000石)、丹南藩(たんなんはん)(1万石)、和泉の岸和田藩(5万3000石)、伯太藩(はかたはん)(1万3500石)の6小藩にすぎない。そのほかは在外大名領(飛地(とびち)領)、旗本領、宮家・堂上家(公家)領、寺社領に細分割していた。
[位野木壽一・安井 司]
1871年(明治4)の廃藩置県で大坂三郷(さんごう)と摂津国東半部は大阪府に、河内国と和泉国の2国は堺県となった。その後堺県は当時の奈良県を合併したが、1881年には大阪府が堺県を合併して広域となり、1887年には奈良県が分離独立して、ほぼ現状に近い府域となった。さらに1889年市町村制の施行により府域は大阪、堺の2市と12町320村になった。
産業面では、明治初年に大阪に造幣寮(現造幣局)、造兵司(後の造兵廠(ぞうへいしょう))、さらに堺に紡績所などの官営工場が設けられて近代工業の初めとなり、これらに刺激を受けて紡績工業を中心に民間の近代工場がおこった。1868年には大阪開港、1874年には大阪―神戸間に鉄道が開通し、近代交通の発達に助長されて、大阪市は近代商工業都市として発展するに至った。また民間鉄道の目覚ましい発達は大阪市周辺に衛星都市を誕生させ、農村地帯の都市化が進んだ。
1914年(大正3)に始まる第一次世界大戦は大阪府にも戦時景気をもたらし、工業は好況を呈した。阪神工業地帯を中心に、大阪府は東洋のマンチェスターとよばれ、戦後も軍需景気、輸出景気は続き、関東大震災の復興事業などもあって繁栄を続けた。しかし、1918年ごろから物価が急騰し、府民の生活を脅かし、6000人参加の大阪鉄工所ストなどのストライキや米騒動を引き起こした。農村部では中河内郡を中心に小作争議が繰り返された。
1931年(昭和6)の満州事変、それに続く第二次世界大戦によって大阪府の産業は重工業中心となり、ますます軍需産業色を濃くした。1945年から本格的な空襲が行われ、大阪市、堺市などは焦土と化した。戦後、朝鮮戦争を契機に、大阪産業は復興したが、東京の復調に比して経済の回復は遅れた。この対策として、1955年(昭和30)に堺臨海工業地域、1957年に泉北臨海工業地域の造成が始まり、約10年の歳月を要して南北12キロメートルに及ぶ工業地帯の完成をみた。また大阪市に散在していた中小工場の集中化、協業化を図るため、大阪市の近郊の枚方市(ひらかたし)、和泉市(いずみし)、東大阪市などの工業適地に移動させた。1960年代の高度成長の波は府の産業を発展させるとともに、大阪市の近郊に人口集中化をもたらした。府はその対応策として大阪市の北方15キロメートルの千里丘陵を開発して大規模な千里ニュータウンを造成、また堺市南部の泉北丘陵にも泉北ニュータウンを建設した。
1970年には近畿開発に寄与するものとして日本万国博覧会が開催された。千里丘陵を会場とし、道路や地下鉄が整備されるなど、地域開発を進展させた。跡地は万博記念公園となり、国立民族学博物館をはじめとして多くの文化施設がつくられた。その後も、関西文化学術研究都市の建設、国際花と緑の博覧会(1990)、関西国際空港の開港(1994)など、大きなプロジェクトが遂行されている。なお、2018年(平成30)現在、大阪市を中心に府下に33市を数える衛星都市をもつ大阪大都市圏を形成するに至っている。
1995年1月17日早朝に発生した「阪神・淡路大震災」(1995年2月14日閣議で呼称決定、気象庁命名は「兵庫県南部地震」)は、マグニチュード7.3の都市直下型内陸地震で、淡路島北部から神戸・大阪にわたる諸都市を直撃し、甚大な災害をもたらした。その被害は、1923年(大正12)の関東大震災に次ぐものといわれる。
大阪地方では、震度5を記録し、兵庫県に隣接する池田市、豊中市、大阪市の淀川河口などの低地で、死者30人、重軽傷者3589人、家屋の全半壊8116戸に上る被害があった。しかし、反面比較的被害の軽かった府下では一時被災者を受け入れ、府人口の微増があり、また大阪市などでは、流通・経済の面で神戸などの肩代りをし、関西経済の低落を支え、被災地の復興に貢献した。
[位野木壽一・安井 司]
古来、日本の先進地域として開かれた大阪府は、農業、漁業などの第一次産業でも優位な地位を占めていたが、近世以来の大阪市の商都としての経済活動は、第二次産業としての工業の発展を促し、さらに明治以降の近代工業化は、大阪市を国内第二の商工業都市とした。またその影響下に府下に衛星工業都市を生み出し、阪神工業地帯を形成した。現在では京浜、中京工業地帯の都県と並ぶ工業府で、農林漁業は渋滞または衰退傾向をたどっている。
[位野木壽一・安井 司]
古来、大阪平野は農業の先進地としても知られ、明治以降も近郊農業が盛んであったが、産業の高度化と都市化の急激な進展で農地は蚕食され、農家も変質してきた。2010年(平成22)の経営耕地面積は9409ヘクタールで、1970年(昭和45)当時の2分の1以下に減少している。農家も年ごとに減り、2万6360戸で府の全世帯数の0.7%にすぎない。農家のうち専業農家は10.6%で第2種兼業農家が29.2%を占める。1戸当り経営耕地面積も平均36アールと零細化してきた。しかし専業農家では、大阪市場に近い地の利を生かして特色ある農産物の栽培がみられる。おもなものに泉州のタマネギ、キャベツ、南河内のナス、キュウリ、堺、茨木(いばらき)市などの軟弱野菜(ミツバなど)の水耕栽培や神立(こうだち)(八尾市)のキク、和泉市のスイセン、泉大津市の観賞用植物、池田市の盆栽、植木などの園芸栽培、さらに柏原(かしわら)市付近の山麓のブドウ、河泉丘陵のミカンなどが有名である。
[位野木壽一・安井 司]
大阪府の山地は比較的浅く、林野面積は約5万7000ヘクタールにすぎず、林家数は2887戸で、そのうち4.5%が農家林家で、95.5%が非農家林家である(2010)。林相は北摂山地のアカマツ、ナラ、クヌギ、クリ、タケ、南東の金剛山地、南の和泉山脈のスギ、ヒノキ、クロマツが主である。クリは「銀寄(ぎんよ)せ」の名で知られ、ナラ、クヌギの製炭は茶道用の「菊炭(きくずみ)」として市場価値が高い。
[位野木壽一・安井 司]
大阪湾に面し、かつては内海性漁業で知られ、近世にはイワシで干鰯(ほしか)を生産し、肥料として全国に販路をもっていた。しかし明治以降沿岸に阪神工業地帯の出現、さらに第二次世界大戦後は臨海工業地の造成で、漁業海域は狭められ、かつ海水汚濁などの環境悪化により衰退の一途をたどっている。しかし泉州南部海岸では伝統の漁業を踏襲し、漁業経営体数589経営体(2013)、2015年の漁獲量は約1万7000トンに上る。漁獲物はコノシロが増え、イワシ類、イカナゴ、アジ、エビ類などがある。このほか溜池(ためいけ)を利用したフナ、コイの養殖がみられる。
[位野木壽一・安井 司]
阪神工業地帯の中核をなす本府の工業は、事業所数2万3564(2006年工業統計従業員4人以上)、従業者数51万7935人、製造出荷額等は16兆6478億円に上り、出荷額では全国の5.3%を占める。工業を業種別にみると、事業所数では金属製品(21.0%)をはじめ、一般機械、プラスチック製品、印刷などの順で、重化学工業が71.8%に対し、軽工業が28.2%である。出荷額等では、一般機械(14.4%)を筆頭に、化学、金属製品、鉄鋼、石油・石炭、電気機械、食料品などの順で、重化学工業が84.0%に対し、軽工業は16.0%を示す。総括して本府は軽工業と重化学工業の集結した総合型工業地域といえる。しかし工場規模からみると、小規模(29人以下)の工場が87.7%を占めるのも特色である。これは、近代工場の発達に、明治・大正期は地場産業の繊維、雑貨などを主体とし、昭和期、ことに第二次世界大戦後は金属、機械、化学などの重化学工業が計画的に導入されたことを物語る。府下の工業地域を大別すると、大阪市地域、大阪北部地域(淀川(よどがわ)の北部地域)、大阪東部地域(淀川と大和川(やまとがわ)間、河内平野(かわちへいや))、大阪南部地域(大和川以南、泉州地域)の4地域に区分される。
大阪市地域は、事業所数において府下の34.4%、出荷額の24.1%を占めて府の中枢的地位にあるが、近年都市公害などで工場の郊外移転をみ、その地位は低下の傾向にある。
大阪北部工業地域は、池田市の酒、能勢町(のせちょう)の木炭などの在来工業を除いては、東海道本線や昭和初期敷設の産業道路沿いに発達した内陸工業地である。おもなものに吹田市(すいたし)のビール、島本町(しまもとちょう)のウイスキー、池田市の酒醸造、ほか製菓、乳製品などの食料品工業や、高槻市(たかつきし)、茨木市、豊中市の電気機器工業、吹田市、摂津市の化学、金属工業や池田市の自動車工業などがある。中規模の工場が多く、出荷額は府の14.5%に上る。
大阪東部工業地域は、かつて地場産業として河内木綿の農村工業や古大和川筋(すじ)の染色、晒(さらし)工業、また生駒山麓(いこまさんろく)の水車谷を利用した製粉、伸線業のみられた地域であった。明治以降大阪市内の東部工業地区(城東工業地区)の影響を受け、隣接の東大阪、八尾(やお)、守口、門真(かどま)などの諸都市が衛星工業都市として発達した。とくに門真市、守口市は松下電器産業(現、パナソニック)、三洋電機の二大電気機器メーカーの拠点として知られ、一帯はそれらの下請関連業が多い。ついでミシンなどの機械工業、針金、鉄索などの伸線業、鋳物などの金属業、ゴム、樹脂加工品などの雑工業が東大阪市に、また八尾市、柏原市の古大和川床にはアルミ、紡績、染色、晒工業のほか、八尾市の特産ブラシ生産などがある。枚方(ひらかた)市には近年衣料、家具、機械の工業団地が出現した。この地域の事業所数は府の34.0%を占めるが、中小規模工場が多く、出荷額は28.9%にとどまっている。
大阪南部工業地域は、堺市を筆頭に泉州海岸に並ぶ高石(たかいし)、泉大津、和泉(いずみ)、岸和田、貝塚、泉佐野の諸都市と、内陸の河内長野、富田林(とんだばやし)市などを含む。中心の堺市は、中世から鉄砲、刃物や織物、緞通(だんつう)、線香などの伝統工業が盛んで、そのほか泉州沿岸の諸都市も和泉木綿の産地として知られ、内陸の諸都市も製材、竹細工の在来産業があった。明治初年の堺市の近代紡績工業導入以来、在来の和泉木綿の近代化と転換が進み、堺市の敷物、和泉市の織布、泉大津市の毛布、岸和田市、貝塚市の紡績、泉佐野市のタオルなどの繊維特産品を製造し、総称して「泉州紡織工業地帯」を形成、日本有数の繊維地帯となった。第二次世界大戦後、臨海埋立て事業が行われ、ここに鉄鋼、造船、機械、金属、精油、石油化学などの重化学工業や木材、食品工業などのコンビナートが形成された。大工場が林立し、従来の中小規模の繊維を中心とする地場産業と対照的な地域となった。大阪市地域に次ぎ、阪神工業地帯の一中核を占めている。
近年、大阪市や堺市などの中小工場過密地では、都市公害や交通渋滞を避け、郊外適地に工場を集団移転し、工業団地を形成する傾向がある。当初は1961年(昭和36)大阪市東区(現、中央区)谷町筋(たにまちすじ)の既製服問屋が関連下請工場と枚方市に大阪紳士服団地をつくったのに始まり、軽工業部門は内陸、丘陵地に工業団地を形成した。これに対し、1966年大阪鉄工金属団地が岸和田臨海造成地に設立されたのに始まり、多くの重化学部門は大阪湾岸造成地に移転した。このため、大阪市工業地域の地位は相対的に低下し、大阪東部、南部地域の地位が高まってきた。
[位野木壽一・安井 司]
大阪市を中心に西日本の交通の要衝地をなしている。JRは、1874年(明治7)大阪―神戸間に開通したのに始まり、今日では東海道本線、東海道・山陽新幹線、関西本線、片町線(かたまちせん)(学研都市線)、JR東西線(1997年開通)、阪和線、関西空港線(1994年開通)などが通じる。また大阪市内では大阪環状線、桜島線(ゆめ咲線)が走り、市営の地下鉄、バスとともに市内交通の重要機関となっている。私鉄の発達も目覚ましく、1885年阪堺(はんかい)鉄道(現、南海電気鉄道)をはじめとして、阪神電鉄、阪急電鉄、京阪電鉄、近畿日本鉄道の五つの私鉄が通じ、京都、神戸、奈良、和歌山など近畿の主要都市や、伊勢(いせ)、吉野、高野山(こうやさん)などの観光地と結んでいる。そのほか、北大阪急行、阪界電気軌道、泉北高速鉄道、水間鉄道がある。大阪国際空港と南茨木(みなみいばらき)を結ぶ大阪高速鉄道(大阪モノレール線)は1997年(平成9)に門真市まで延伸開業(本線)。1998年には国際文化公園都市線(彩都線)も開業した。また大阪市の港湾地区には中央線(旧、テクノポート線)、南港ポートタウン線(旧、ニュートラムテクノポート線)が走る。
道路は、江戸時代の重要街道の京街道、山陽街道は現在国道1号、2号、奈良街道は同25号、紀州街道は同26号となり、主要道路の役割を継承している。また1970年(昭和45)開催の万国博覧会を契機に、大阪三大環状線と十大放射路が大阪市を中心に整備された。さらに名神、阪神、大阪湾岸線の各高速道路や、中国、近畿、西名阪、阪和自動車道などが走っている。
海上交通は、1868年(明治1)に開港した大阪港が中心である。同港は阪神工業地帯を背景にした内外物資を取り扱う貨物港の性格が強い。旅客輸送は従来瀬戸内航路に限られていたが、最近南港のフェリー埠頭(ふとう)の完成で四国、九州への旅客輸送も増大した。大阪港に次ぎ、堺泉北港や岸和田港(阪南港と総称する)は、臨海工業造成地に付設された工業港で、化学工業製品や鉱産品・林産品の輸移出入港の役割を果たしている。大阪湾南端の深日港(ふけこう)(岬(みさき)町)は淡路島とフェリーで結んでいたが、関西国際空港の開港に伴い、航路の出発点が泉佐野港に移された。
航空には、大阪国際空港、関西国際空港、八尾空港がある。大阪国際空港域は、伊丹(いたみ)市(兵庫県)、豊中市、池田市にまたがる。1939年(昭和14)、当時の伊丹村(現、伊丹市)に大阪第二飛行場として設置されたので通称伊丹空港ともよばれる。その後幾多の変遷を経て、1959年(昭和34)大阪国際空港となり、全国の主要都市、さらにアジアを中心とし世界各国と結ばれていた。しかし、空港の拡張と周辺の市街化が進むにつれて、騒音公害が激化した。その解決策として、関西国際空港が1994年(平成6)9月4日開設された。同空港は、泉州沖5キロメートルに造成された空港島にある。騒音公害を防ぐとともに、昼夜24時間運航可能な日本初の本格的な空港で、国内各地を結ぶ国内線はもちろん、世界27か国、68主要都市(2010)を結ぶ国際線が就航している。2007年第二滑走路の完成により、新しい空の玄関として、本府のみならず関西一円の経済発展の基盤となる。なお、関西国際空港の開港により、大阪国際空港は国内線用として利用され、一般に大阪空港とよばれている。八尾空港は八尾市に所在し、小型機用の商業空港としての役割を果たしている。
[位野木壽一・安井 司]
近世以来、大坂は京都とともに「上方(かみがた)」とよばれ、江戸と対照的な地位にあった。その伝統は今日でも、教育・文化に特色ある性格を発揮している。
[位野木壽一・安井 司]
江戸時代、大坂の学問所の開設は町人の力に負うことが多かった。1717年(享保2)に住吉郡平野郷につくられた郷学含翠堂(がんすいどう)も郷内の有力者の出資によるもので、陽明学、古学、朱子学を教え、明治初年の学制公布まで続いた。1724年に開設した中井甃庵(なかいしゅうあん)の漢学塾の懐徳堂(かいとくどう)も好学の大坂商人らの出資によるものであった。大槻玄沢(おおつきげんたく)門下の橋本宗吉(はしもとそうきち)は大坂で医業を営むとともに蘭学(らんがく)を教え、多くの門下生を集めた。門下に中天游(なかてんゆう)がおり、彼に蘭学を学んだ緒方洪庵(おがたこうあん)は1838年(天保9)に適々斎塾(てきてきさいじゅく)を開いた。医業のかたわら蘭学を教え、約20年間に3000人余の塾生を育成した。国指定史跡の「緒方洪庵旧宅および塾」(大阪市中央区北浜)は1843年に移転したときの建物である。適々斎塾の蘭学を源流とし、1880年(明治13)に発足した府立大阪医学校は、大阪医科大学、大阪帝国大学医学部を経て、現在大阪大学医学部となっている。阪大にはこのほか理、工、法、文、経、歯、薬、基礎工学、人間科学、外国語の学部があり、千里丘陵に立地する。このほか国立大学に大阪教育大学、公立大学に大阪府立大学、大阪市立大学がある。私立大学には、関西法律学校を前身とする関西大学のほか、近畿大学など、総計54校、また短期大学31校(2012)があり、このほか多くの高専、高校が整備されている。大学の傾向としては、多種多様化したなかでも、商、経、工学系など実学的大学が多い。
マスコミも西日本の中枢として重要な地位を占めている。1876年(明治9)創刊の『大阪日報』は1888年『大阪毎日新聞』となり、『朝日新聞』は1879年に大阪で創刊したのに始まる。『産経新聞』も1933年(昭和8)大阪で創刊された『日本工業新聞』を前身とする。現在ではこのほか『読売新聞』『日本経済新聞』などが大阪に本社を置いている。このほか『大阪新聞』などの地元新聞やスポーツ新聞などがあり、総発行部数約405万部(2006)に上り、東京都に次いでいる。
放送面は、日本放送協会(NHK)大阪放送局が1925年(大正14)ラジオ放送したのに始まる。民間放送には毎日放送、朝日放送、関西テレビ、読売テレビ、テレビ大阪などがある。
文化施設としての公民館、図書館、博物館、美術館などは、大阪市を中心に各衛星都市にみられる。1996年(平成8)には東大阪市に府立中央図書館が開館した。「大阪市」の項に記述するもののほか、万国博覧会場跡の記念公園内の国立民族学博物館、大阪府立中央図書館国際児童文学館、大阪日本民芸館や、豊中市の日本民家集落博物館、池田市の逸翁美術館(いつおうびじゅつかん)、堺市博物館、泉北考古資料館(泉北すえむら資料館に名称変更。2016年閉館)、忠岡(ただおか)町の正木美術館、和泉(いずみ)市の久保惣記念美術館(くぼそうきねんびじゅつかん)、箕面市の箕面公園昆虫館、河南(かなん)町の大阪府立近つ飛鳥博物館などがある。
[位野木壽一・安井 司]
府民の生活文化に関しては、昭和の初期までは摂河泉の旧国ごとに、その自然環境と歴史を背景にして、食住の生活、民俗芸能、伝説や文化遺産、特産物などに地域色を色濃くみせていたが、第二次世界大戦中の経済統制や戦後の都市化の進展で生活文化の近代化と画一化が急激に進み、地方色は薄れてきた。そのなかにも文化の伝統は根強く息づいている。ここではそれらにつき、大阪市域、北摂地域、河内地域、和泉地域の4地域に分けて記す。
(1)大阪市域 古代難波宮(なにわのみや)と難波津、中世石山本願寺の寺内町、近世大坂城下町としての商都、さらに近代商工業都市となった大阪市は、生活文化もそれらの文化の累積のうえに成り立っている。なかでも今日に生きているものは、江戸期の浪華商人(なにわしょうにん)の活躍と、そこから生まれた町人文化である。浪華商人のルーツは、豊臣(とよとみ)時代の町屋(まちや)の形成の際に誘致した堺商人と、江戸初期に移住した京伏見商人(ふしみしょうにん)とからなり、その後近江商人(おうみしょうにん)その他各国の商人の融合で上方文化と風習を生み出した。都心部の旧大坂三郷には船場(せんば)の方形型町割、下船場の長方形型の京町割が残っている。商家の食住の生活にも、「大阪市」の項に述べるように、土蔵造りの中二階、奥行の深いいわゆる鰻(うなぎ)住居で、表には格子戸(こうしど)と屋号入りののれんをかける。のれんは商家の信用のシンボルとして誇ってきた。食生活は質素に、倹約と勤勉を旨としてきた。西鶴(さいかく)の『日本永代蔵』にも「金銀を神仏」と崇(あが)める風潮は、「現世利益(げんせりやく)」の社寺詣(まい)りや祭礼を盛んにし、また縁起をかつぐ気風をも生み出した。商家の神棚には京伏見の稲荷(いなり)を祀(まつ)り、年中行事の正月明けは、十日戎(とおかえびす)に始まり、福笹(ふくざさ)を求めて店頭に飾った。夏の天満天神祭(てんまてんじんまつり)や陶器祭、冬の神農祭(薬種神)などの祭礼も商売繁盛を祈念しての祭りが多い。縁起をかつぐ風習も、ミナミの道頓堀(どうとんぼり)に架かる「戎橋(えびすばし)」は、もと「操(あやつ)り橋」であったものが、南の今宮戎神社(いまみやえびすじんじゃ)への参詣(さんけい)通路に架かるところから戎橋となり、その西に架かる「大黒橋」も、もと「難波橋」が、戎、大黒の二福神にあやかって並称されるようになったもの。大阪名産の粟おこし(あわおこし)は、もと糒(ほしいい)を原料としたといわれ、塩こんぶやかまぼこ類は生活の実用性から生まれたものである。四天王寺の聖霊会舞楽(しょうりょうえぶがく)と住吉大社の住吉の御田植(おんだうえ)はともに国の重要無形民俗文化財に指定されている。
(2)北摂地域 北摂山地と山麓(さんろく)平野部からなるこの地域は、中世以来山地は山岳信仰の対象に、平野は京都に隣接して京文化の影響を受けてきた。山地の東、高槻市の奥山にある天台宗神峰山寺(かぶざんじ)は8世紀に開成皇子(光仁天皇の皇子)の開基と伝えられ、箕面の山腹にある勝尾寺(かつおじ)とともに名刹(めいさつ)として知られる。さらに西にある妙見(みょうけん)山上には日蓮宗(にちれんしゅう)の関西での拠点である妙見堂が祀られている。本堂は中世末に城主能勢頼次(のせよりつぐ)が守護仏北辰妙見大菩薩(ほくしんみょうけんだいぼさつ)を祀ったもので、当時領内の真言宗の領民を強制的に日蓮宗に改宗させたところから、「イヤイヤ法華(ほっけ)」と悪評されたが、のちに妙見参りの盛んになるにつれ、他宗の参詣人も一時日蓮宗徒となる「百日法華」の風習が行われた。山間の河谷や小盆地は、大阪地方の小秘境地をなす。茨木市の千提寺(せんだいじ)や下音羽(しもおとわ)はキリシタン大名高山右近(たかやまうこん)の治下にあって、領民のなかにはキリスト教を信奉する者もおり、同教弾圧下にも「隠れキリシタン」として、仏教徒を装いながら厨子(ずし)にキリスト像を秘蔵してきた。妙見山の北にある能勢の小盆地は、この山地の代表的山村で、寒冷地のため第二次世界大戦前まで「大阪の北海道」といわれた。民家の形式も、屋根はかや葺(ぶ)き、屋上には千木(ちぎ)が棟飾りとして並ぶ。多くは入母屋(いりもや)型ながら入口は妻入りで、内部の一方は土間で農具と山仕事の用具、奥に厩(うまや)とへっつい(かまど)があり、片方に座敷と納戸(なんど)、台所が並ぶ。丹波(たんば)高原一帯にみられる形式である。特産として、近世以来「能勢の三白、三黒」といわれ、米、白酒、寒天の三白、炭、栗(くり)、黒牛の三黒が特産であった。米は棚田式水田で栽培され、長谷(ながたに)地区では灌漑のため山の傾斜面に横穴式井戸(俗称がま)を掘った。
平野部は山麓に西国街道(さいごくかいどう)(古代の山陽道)が通り、沿道付近には京寄りから、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)を祀る水無瀬神宮(みなせじんぐう)(島本町)、歌人伊勢(いせ)の隠棲(いんせい)した伊勢寺や能因法師塚(高槻(たかつき)市)、大陸渡来の呉織(くれはとり)、穴(綾)織(あやはとり)の工人を祀る呉服神社(くれはじんじゃ)、伊居太神社(いけだじんじゃ)(池田市)などがある。
民家は、近世の西国街道の芥川宿(あくたがわしゅく)や郡山宿(こおりやましゅく)(本陣は国指定史跡)など街村に特色のある京風のべんがら塗りの家屋がみられる。池田市の愛宕火祭(あたごひまつり)は、8月24日夜五月山(さつきやま)山腹に「大」と「大一」の火文字を現し、その火を大松明(おおたいまつ)につけて、鉦(かね)を鳴らして街中を走り、火除(ひよ)け祈願をする祭りで、「がんがら火」ともいう。京の大文字の送り火に似た祭りである。
(3)河内地域 河内は大和国(やまとのくに)に隣接し、生活文化にも大和と深い関係をもってきた地域である。河内平野の北部は、近世中期大和川の付け替えで干拓新田となった低湿地帯で、水にかかわる歴史と伝説と生活を生んできた。集落は昔から洪水対策として、微高地の自然堤防を利用した堤防集落が多い。民家は、盛り土の上に母屋、納屋をつくり、母屋に続いて石積みの高い段蔵(だぐら/だんぐら)とよぶ蔵を設けている。段蔵は二階式にし、下には米、みそなどを備蓄し、上は蔵座敷(くらざしき)として貴重な家財を置き避難所としてきた。収穫した稲や特産の蓮根(れんこん)の運搬には水路を田舟(たぶね)で行き来し、ハス田での蓮根掘りには田下駄(俗称ナンバ)を用いた。
河内平野の南部と二上(にじょう)山麓一帯は、大和とともに、日本の先史・古代史の舞台であった。天皇陵の多い古市古墳群(ふるいちこふんぐん)には、日本武尊(やまとたけるのみこと)の御魂(みたま)が白鳥となって飛来した神話にまつわる白鳥御陵(日本武尊陵、前の山古墳が指定される)と白鳥神社(以上、羽曳野(はびきの)市)がある。二上山麓は大和の飛鳥(あすか)に対して「近つ飛鳥」とよばれ、聖徳太子御廟(ごびょう)のある叡福寺(えいふくじ)(上の太子、太子町)がある。竹内街道(たけのうちかいどう)沿いの野中寺(やちゅうじ)(中の太子、羽曳野市)や勝軍寺(しょうぐんじ)(下の太子、八尾市)とともに「河内三太子」とよばれ民間の太子信仰の中心となっている。
藤井寺市の道明寺は、菅原道真(すがわらのみちざね)の祖先土師(はじ)氏の氏寺で、尼僧のつくる「道明寺糒(ほしい)」の名産がある。また隣接する道明寺天満宮は菅公の命日(3月25日)には菜種御供(なたねごく)の行事があり、菜種色の団子を供えてのち、厄除(やくよ)けとして参詣人に配る風習がある。
南部河内の集落には条里制地割に沿う条里集落が残り、民家には大和棟の家がみられる。大和棟は急勾配(きゅうこうばい)の切妻の屋根で、かや葺きの両端には2列の丸瓦(まるがわら)、屋上は大雁振瓦(がんぶりがわら)を置き優雅な中国大陸風の風情で、大和地方からこの地に分布する。富田林市や八尾市久宝寺(きゅうほうじ)の集落のなかに、周りを堀と竹林の土居(土塁)で囲んだ寺内町がある。戦国時代に真宗の門徒が御坊(ごぼう)を中心に集団で形成した自衛的役割をもった集落である。
河内地方の農家では朝食に茶粥(ちゃがゆ)を食べる風習があったが、これも大和の茶粥の伝播といわれている。枚岡神社(ひらおかじんじゃ)(東大阪市)の正月行事に粥占いがあり、その年の豊凶を占う。また、夏の盆踊りに集落ごとに催される河内音頭(おんど)と踊りは、本来念仏踊を基調としたゆったりとした踊りと語り音頭であった。
(4)和泉地域 和歌山県と境する和泉山脈と河泉丘陵・台地(山手側)、さらに海岸平野(浜側)はそれぞれの特色をもちつつ、関連した生活文化圏をつくっている。山手側の和泉山脈は山岳信仰と仏教の習合によって成立した修験道(しゅげんどう)の霊場となった所である。奈良時代役小角(えんのおづぬ)の開祖という葛木山(葛城山)(かつらぎさん)はいまの金剛山(こんごうさん)をさし、それに連なる和泉の山々には法華経(ほけきょう)二十八品(ぽん)にかたどった葛城二十八宿の行者堂が所々に設けられた。なかでも犬鳴山(いぬなきさん)七宝滝寺(しっぽうりゅうじ)、牛滝山(うしたきさん)大威徳寺、岩湧(いわわき)山の岩湧寺などには、壮大な堂塔のほかに行者の滝や行者場があり、修験者のみならず、いまも民間信仰の対象となっている。
丘陵・台地は国内有数の溜池(ためいけ)の多い地帯である。雨が少なく、小河川のみのこの地域では、水田の灌漑水は古くから溜池や湧泉(ゆうせん)に頼ってきた。記紀にある日本最古の溜池の高石池、茅渟池(ちぬいけ)のほか、奈良時代に行基(ぎょうき)の築造した久米田池、光明皇后(こうみょうこうごう)ゆかりの光明池など溜池に関する記録、伝承が多い。また湧泉に対する水の信仰も深く、和泉(いずみ)府中(ふちゅう)(国府所在地)の「和泉(にぎいずみ)の井」が国名の起源になったことは有名で、現在泉井上神社(いずみいのうえじんじゃ)に水の神として祀られている。このほか和泉市の「葛葉(くずのは)の清水」や「桑原(くわばら)の井」も世に知られている。ことに後者は井中に雷神を閉じ込めた伝説をもち、雷除けのクワバラの呪文(じゅもん)はここに由来するとの伝承がある。干魃(かんばつ)の際の雨乞(あまご)い行事は、かつては前出の山々の寺院で行われるほか、村々の神社の境内でも、雨乞いの「こおどり」(鬼面、天狗面(てんぐめん)をつけ太鼓、鉦(かね)、音頭にあわせて祈りながら踊る)が盛んに行われた。現在残るものとしては、桜井神社(堺市)で行われる「上神谷のこおどり(にわだにのこおどり)」が有名で、国の選択無形民俗文化財に指定されている。山手の台地を通る熊野街道は紀州熊野三山参りの道で、平安末期の往還は「蟻(あり)の熊野詣」といわれる盛況を呈した。道中九十九王子神社が設けられ、和泉国にも堺王子、厩戸王子(うまやどおうじ)などの王子神社が置かれ、そこに布施屋(ふせや)や「佐野の市(いち)」などの集落が生じた。
浜側は、堺をはじめ紀州街道沿いに集落が発達している。堺の街並みは往時の環濠(かんごう)都市のおもかげを一部とどめている。富商の多かった堺の民家は「京の着倒れ、大阪の食い倒れ」に対して「堺の建て倒れ」といわれるほど建築に凝った。本瓦葺きの屋根に土蔵壁と袖壁(そでかべ)をもつ中二階、「おだれ」(軒先)のある重厚な構造で、国の重要文化財指定の建築物もみられる。本瓦葺きの屋根をもつ民家は、堺のみでなく紀州沿道の旧城下町岸和田やその他の町々や漁村また山手側の農村の旧家にも多くみられ、これが泉州の民家の特色となっている。
泉州の祭りは、秋祭を主に、旧町村の氏神を中心に行われ、若者たちがふとん太鼓を担ぐ祭りと、だんじりを曳(ひ)く祭りの2様式が多くみられる。なかでも岸和田市の地車祭(だんじりまつり)(9月)は豪快さで知られる。また堺市の「堺まつり」(10月第3日曜、あるいは土曜・日曜)は南蛮行列を連ねて往年の南蛮文化を誇る祭りとしてにぎわう。
[位野木壽一・安井 司]
信州の本多善光(ほんだぜんこう)が、崇神排仏の争いから堀江(大阪市西区)の「阿弥陀池(あみだいけ)」に捨てられた百済(くだら)伝来の仏像を拾い上げ、郷里の長野に祀(まつ)った。それが善光寺の起源と『善光寺本地(ほんじ)』に伝えている。淀川右岸の江口には遊女の里があった。江口の遊女と西行法師(さいぎょうほうし)とのかかわりあいは『撰集抄(せんじゅうしょう)』『古事談』などにみえる。それをもとにしたのが世阿弥(ぜあみ)の謡曲『江口』である。「茨木童子(いばらきのどうじ)」は茨木の水尾(みずお)の生まれで、人の血の味を知ってから鬼形となり、酒呑童子(しゅてんどうじ)の片腕として悪名を天下にとどろかせたという。能勢(のせ)町大里には「名月姫」の屋敷跡がある。能勢家包(いえかね)に嫁いだ姫を見そめた平清盛(たいらのきよもり)が側室にしようとしたが、輿(こし)が名月峠に差しかかったとき姫は自害し、貞節を守ったという。淀川下流の三国(みくに)の巌氏(いわし)の碑は、「長柄橋(ながらばし)の人柱」の冥福(めいふく)を祈って建てられたものである。人柱になるのは母子が多いが、この橋の人柱は男である。門真(かどま)市の淀川にある茨田の堤(まんだのつつみ)の人柱も、「武蔵(むさし)の強頸(こわくび)」とよぶ男だった。もう1人、茨田の連(むらじ)袗子(ころもこ)も人柱に選ばれたが、川の神のお告げを疑い、試しにひさごを水に浮かべた。が、沈まずに流れたのを見て人柱にならなかったという。和泉市の「葛葉(くずのは)」は信太妻(しのだづま)ともよばれる異類婚姻譚(たん)である。この伝説を取り入れたのが竹田出雲(たけだいずも)の浄瑠璃(じょうるり)『蘆屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)』である。説経節や謡曲『弱法師(よろぼし)』によって親しまれた「俊徳丸」も継子(ままこ)伝説で、天王寺(てんのうじ)が主要な舞台になっている。観世元雅(かんぜもとまさ)作の謡曲が成立する以前、語り物が先行していたらしい。『神道集』に摂津「芦刈明神事(あしかりみょうじんじ)」の本地物語がある。貧しさのゆえに別れた妻に未練があり、探し当てたところ、妻は長者の妻になっていた。芦売りに身を落としていた夫は恥ずかしさの極みに息絶えたという。この物語が「芦刈」の伝説として東大阪市日下(くさか)に根づいた。謡曲『芦刈』はこの伝説によるものという。また、「呂宋助左衛門(るそんすけざえもん)」が堺の納屋衆(なやしゅう)とよばれた貿易商だったことが『太閤記(たいこうき)』にみえている。珍貴な品を献上して秀吉の寵(ちょう)を得たが、居宅に贅(ぜい)を尽くしたかどで怒りを買い、海外に脱出した。その後、カンボジア国王に信任されて活躍したと伝えられる。
[武田静澄]
『牧村史陽著『大阪ガイド』(1961・東京法令出版)』▽『大阪自然科学研究会編『大阪の自然』(1966・六月社)』▽『『大阪百年史』(1968・大阪府)』▽『大阪府教育委員会編『大阪の文化財』(1970・大阪府)』▽『大阪高等学校地理研究会編『大阪――その風土と生活』(1973・二宮書店)』▽『日本地誌研究所編『日本地誌15 大阪府・和歌山県』(1974・二宮書店)』▽『『大阪府史』1~7巻、別巻(1978~1991・大阪府)』▽『井上薫編『大阪の歴史』(1979・創元社)』▽『『角川日本地名大辞典 大阪府』(1983・角川書店)』▽『『日本歴史地名大系28 大阪府の地名』全2冊(1986・平凡社)』▽『津田秀夫責任編集『図説 大阪府の歴史』(1990・河出書房新社)』▽『藤本篤他著『大阪府の歴史』(1996・山川出版社)』▽『平山輝男他編『大阪府のことば』(1997・明治書院)』
大阪府の中央部西寄り、淀川(よどがわ)河口にあって大阪湾に臨む。府庁所在地。古来、交通の要衝にあって港都として発達した。近代商工業の中心都市として西日本の中枢的地位を占める。なお、大阪の地名は、15世紀末に石山別院を建立した蓮如上人(れんにょしょうにん)の『御文(おふみ)』に「大坂」とあるのが初見と伝えられ、江戸後期には「大坂」「大阪」の字の混用がみられる。明治以降行政名として「大阪」の字を用いるようになった。
市制施行は1889年(明治22)で、近世以来の大坂三郷(さんごう)の区域を東、西、南、北の4区に区画した。当時の市域は15.3平方キロメートル、人口47万2247。その後近代商工業の発達に伴って、1897年に第一次拡張として周縁地域の東成(ひがしなり)、西成(にしなり)両郡の28か町村の全部または一部を編入。1925年(大正14)の第二次拡張には東成、西成両郡の残部44か町村を編入して、東淀川、西淀川、東成、住吉(すみよし)、西成の5区を設け、さらに旧来の4区を細分画して天王寺(てんのうじ)、浪速(なにわ)、港、此花(このはな)区の4区を増設して計13区とし、面積181.7平方キロメートル、人口211万4804となる。1932年(昭和7)旭(あさひ)、大正の2区を増設、1943年行政区画改正で大淀、福島、都島(みやこじま)、城東、生野、阿倍野(あべの)、東住吉の7区増設。1955年(昭和30)茨田(まつた)、巽(たつみ)の2町、加美(かみ)、長吉(ながよし)、瓜破(うりわり)、矢田(やだ)の4村編入。1974年区画一部分割で淀川、鶴見(つるみ)、住之江(すみのえ)、平野(ひらの)の4区新設。1989年(平成1)合区により北と大淀が北区、東と南が中央区となり、全24区。面積225.32平方キロメートル(境界は一部未定)、人口275万2412、人口密度1平方キロメートル当り1万2216(2020)。
市の人口推移をみると、日本の経済高度成長期を迎えた1960年代に市の人口は急増して1965年には約316万人に達した。しかしそれ以後は減少傾向を示し、1970年298万人、1975年278万人、1985年264万人、1995年260万人となった。2005年には増加に転じ(263万人)、2010年には約267万人となった。2020年を境に減少に転じることが見込まれている(大阪市「大阪市の将来推計人口(令和元年度)」)。
[位野木壽一]
人口増減の状況を区別でみると、中心部とそこに隣接する区で増加が、反面、周辺区で減少が見込まれている。
[編集部]
市域の地形は、大別して台地と沖積地からなる。台地は市の中央部東寄りに、南北に延びる上町台地(うえまちだいち)とその南東に雁行(がんこう)する我孫子台地(あびこだいち)とがある。上町台地は、大阪城から南へ住吉大社あたりまで延長約12キロメートルの古期洪積台地である。我孫子台地は、北は御勝山古墳(おかちやまこふん)から南へ大和川(やまとがわ)に至る延長約8キロメートルの新期洪積台地である。
沖積地は、淀川と大和川の土砂の堆積(たいせき)によって形成されたデルタで、市域の大部分を占める。大阪の発展の原動力となった淀川は、市域の北東端で神崎川(かんざきがわ)を分かち、毛馬(けま)から向きを南に変えて天満川(てんまがわ)となり、大阪城下で寝屋川(ねやがわ)を合流して西へ曲流し、中之島(なかのしま)を挟んで堂島川(どうじまがわ)と土佐堀川に分かれ、さらに下流では安治川(あじかわ)、尻無川(しりなしがわ)、木津川に分流して大阪湾に流入する。これらの分流河川と結んで、近世以降、東横堀(ひがしよこぼり)、西横堀、道頓堀(どうとんぼり)、長堀(ながほり)など多くの運河が掘られて水運の便に供され、「水の都」の名を誇った。反面、氾濫(はんらん)も多く、治水対策もたびたび行われ、1910年(明治43)には放水路として新淀川が開削された。市の南境を流れる大和川は、かつては大阪城の北で淀川に合流していたが、氾濫が多く、1704年(宝永1)に現在のように付け替え工事が行われた。淀川、大和川のデルタ地域は、軟弱な砂、粘土層からなり、昭和初期以来、地下水採取による地盤沈下がおこっている。そのため市では、地下水の採取規制を行い、また工業地域では工業用水道を施設するなど対策に腐心している。
[位野木壽一]
大阪湾に接し、夏はやや暑いが相対的には温暖である。雨量は比較的少なく、晴天に恵まれ、いわゆる瀬戸内式気候の特色を示す。風は、西風、ついで北北東風が多い。このため西部の臨海工業地域や北部の淀川工業地域の工場煤煙(ばいえん)が市街地にもたらされ、大気汚染やスモッグ現象による環境悪化の要因となっている。
[位野木壽一]
大阪市域の開発は縄文時代にさかのぼる。上町台地の北東端の森の宮遺跡(もりのみやいせき)からは下部の海水産マガキ層、上部の淡水産セタシジミ層中に、縄文後期から弥生(やよい)中期にかけての土器、石器とともに人骨が出土した。当時、上町台地は岬状をなし、台地の西部は難波海(なにわのうみ)で、東部は河内湾(かわちわん)を形成していたが、河内湾は河内潟さらに河内湖に変容したことが知られる。人々の活動は上町台地を中心に我孫子台地に及んだ。我孫子台地には桑津(くわづ)、遠里小野(おりおの)、瓜破(うりわり)など弥生時代の遺跡がある。古墳もこれらの台地に茶臼山(ちゃうすやま)、帝塚山(てづかやま)、御勝山(おかちやま)の前方後円墳が立地する。
難波(なにわ)(大阪の古名)が港都として繁栄をみるのは4世紀なかばからで、大和朝廷の発展とともにその門戸として、三韓(さんかん)(朝鮮)、隋(ずい)、唐の文化を導入した。これらの使節の迎賓館として難波館がつくられ、593年(推古天皇1)には四天王寺が建立された。また記紀によれば応神天皇(おうじんてんのう)の難波大隅宮(なにわおおすみのみや)、仁徳天皇(にんとくてんのう)の難波高津宮(なにわたかつのみや)が造営され、645年(大化1)孝徳天皇(こうとくてんのう)の難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)の遷都をみた。奈良時代には聖武天皇(しょうむてんのう)が難波宮(なにわのみや)を造営し、744年(天平16)には一時的ながら帝都となった。なおこの宮跡は長く不明で「幻の宮」といわれていたが、1954年(昭和29)以来の発掘調査によって大阪城の南に続く法円坂(ほうえんざか)一帯の地域であることが確認され、現在は難波宮跡公園として保存されている。平安時代になると、淀川の土砂の堆積により港都としての地位は薄れたが、四天王寺や住吉大社の門前町として、また紀州熊野三山(くまのさんざん)詣(もう)での宿駅として余栄を続けた。しかし鎌倉末期から南北朝時代の動乱に、寺社は兵火にかかり、町は荒廃に帰した。
[位野木壽一]
大阪がふたたび歴史の脚光を浴びたのは、室町時代中期、1496年(明応5)真宗8世の蓮如上人(れんにょしょうにん)が上町台地の北端に石山別院(後の本願寺)を創建してからである。石山本願寺は周りに堀を巡らした法城、いわゆる寺内町(じないまち)として繁栄した。しかし16世紀末に織田信長と確執をおこし、11か年に及ぶ石山戦争の結果、1580年(天正8)宗徒はここを退去、町は焼失した。その後に羽柴秀吉(はしばひでよし)(豊臣秀吉(とよとみひでよし))が移り、1583年大坂城の築造にかかった。天守閣を中心に、大名屋敷は内外の堀で囲み、城下の沖積地には東横堀、西横堀、長堀、南堀(道頓堀)などを掘削して排水と水運の便を図り、ここに堺商人(さかいしょうにん)らを移して町屋とし、近世大坂の基盤を形成した。
[位野木壽一]
豊臣氏による大坂城下町の繁栄も、大坂の陣の兵火に焼失、そのあと徳川氏が大坂城を再建、松平忠明(まつだいらただあきら)(1583―1644)が入封して市街の復興に努めた。忠明が大和の郡山(こおりやま)に移封後は幕府直轄地となり、城代、東西町奉行(まちぶぎょう)が置かれた。京伏見(ふしみ)の商人を移住させ、江戸堀、京町堀などの運河の開削が行われ、城下の整備は一段と進められた。南組、北組、天満組(てんまぐみ)からなる大坂三郷(さんごう)ができ、三郷惣年寄(そうどしより)による自治的行政が行われた。淀川筋の中之島、堂島や運河沿いには諸藩の蔵屋敷が設けられ、諸国の米や特産物の取引の中心地となるなど商都として繁栄を極めた。大坂三郷の人口は最盛時には42万(1765)を数え、江戸と並ぶ大都市となった。
商都の繁栄は町人文化の隆盛をももたらした。俳諧(はいかい)の西山宗因(にしやまそういん)、浮世草子の井原西鶴(いはらさいかく)、国学の僧契沖(けいちゅう)、儒学の中井甃庵(なかいしゅうあん)(1693―1758)、浄瑠璃(じょうるり)の近松門左衛門や紀海音(きのかいおん)、義太夫節(ぎだゆうぶし)の竹本義太夫らが輩出、また経済学の山片蟠桃(やまがたばんとう)、天文暦学の麻田剛立(あさだごうりゅう)、間重富(はざましげとみ)、蘭学(らんがく)の橋本宗吉(はしもとそうきち)、医学の緒方洪庵(おがたこうあん)らの人材が出て上方(かみがた)文化の華を咲かせた。
[位野木壽一]
江戸末期の幕府の崩壊から明治維新にかけて大阪の経済は混乱に陥り、一時衰退して人口も28万になった。しかしその間にあって、近代商工業都市化への芽生えがみられた。工業では、1870年(明治3)大阪城内に造兵司(後の陸軍造兵工廠(こうしょう))が置かれ、翌1871年には川崎(北区)に造幣寮(現、造幣局)が開業し、ヨーロッパの科学技術の導入、文明開化の先駆となった。一方、商業では、1868年の開港で川口(西区)に居留地が設けられ、貿易の門戸が開かれた。また五代友厚(ごだいともあつ)らにより大阪株式取引所(のちの大阪証券取引所、現在の大阪取引所)や商法会議所(現、商工会議所)が開設され、近代商業の体制がたてられた。明治中期から、近代工業は一段と進み、1882年には大阪紡績会社が設立され、従来の手織りから機械織りに転換して生産の向上をみた。以来次々に紡績工場が設けられ、大阪は全国一の紡績工業都市となり、「東洋のマンチェスター」とよばれるに至った。
日清(にっしん)、日露戦争、大正初期の第一次世界大戦の軍需の影響を受けて、金属、機械、化学工業も勃興(ぼっこう)した。それらの工場群は淀川流域や臨海地に立地し、その吐き出す黒煙で大阪は「煙の都」とよばれた。一方、アジア方面を市場とする貿易も盛んとなり、商業も活発となった。当時、住友、鴻池(こうのいけ)銀行などの台頭、また三越(みつこし)、大丸などの百貨店の開業をみた。私鉄の発達も著しく、近郊の市街化が進んだ。
昭和期に入り、世界経済恐慌の影響、満州事変以降の戦時体制下の統制経済によって大阪の商業は抑圧され不振となったが、反面軍需の影響で工業は著しく伸び、人口も1940年(昭和15)には325万を数えた。
しかし、第二次世界大戦中の1945年3月の大空襲などで市域の27%は焼土となった。焼失倒壊家屋31万戸、死者1万余人、人口は105万に激減し、商工機能は壊滅状態となった。
戦後は、1950年(昭和25)の朝鮮戦争による特需景気を機に工業が目覚ましく復興し、商業も回復してきた。しかし戦前に比べて大阪の経済力は相対的に低下し、「大阪経済の地盤沈下」と評された。この対策として、南港造成による貿易振興や商工中小企業の近代化・合理化、都市再開発事業、地下鉄・高速道路の整備などを進め、高度経済成長期の1965年には、商工業とも戦前を凌駕(りょうが)するに至った。しかし、1973年の石油危機の影響、1990年代に至ってのバブル経済の崩壊などもあって経済は低迷し、加えて交通渋滞や都市公害問題、人口の減少傾向など、幾多の課題を抱えている。
[位野木壽一]
大阪市の産業構造をみると、2020年(令和2)の就業者数107万余のうち、卸・小売業が17.2%、製造業が13.7%、医療・福祉が12.7%で、サービス業が8.0%となっている。
[位野木壽一]
昭和初期まで、市街地周縁では近郊農業が盛んで、米のほか、ホウレンソウ、ネギ、ダイコン、ニンジンや花卉(かき)の栽培が行われたが、第二次世界大戦後の著しい都市化で農地は激減した。1980年には、市域の東・南縁辺部に430ヘクタールを残すに至った。大部分が兼業農家で、農地は伸張する市街に挟まれて、しだいに消失の運命をたどり、2021年にはわずか85ヘクタールとなっている。
[位野木壽一]
近世以来商都として発展してきた大阪は、明治以降もその伝統を継承して近代商業都市に成長してきた。商店数、年間総販売額ともに東京都に次ぐ。卸売業の販売額が多く、この卸売業の地位の高さは伝統の問屋制の力に負うものである。
商業地域の中心地は、中央区、北区、西区の3区、旧大坂三郷の地にあたる。総合商社や問屋が集中し、その年間販売額は全市の約71%を占めている。とくに船場(せんば)(中央区)、島之内(しまのうち)(中央区)、西船場(西区)、堀江(ほりえ)(西区)の一帯は同一業種の並ぶ問屋街を形成している。おもな問屋街に、中央区では道修町(どしょうまち)の薬種、本町・唐物(からもの)町・丼池筋(どぶいけすじ)の繊維、南久宝寺町(みなみきゅうほうじまち)の化粧品・小間物(こまもの)、河原(かわはら)町の家具・道具類、御蔵跡(おくらと)町の履き物、日本橋筋(にっぽんばしすじ)の電気器具、松屋町筋(まっちゃまちすじ)の菓子・玩具(がんぐ)・文房具、西区では立花通(たちばなどおり)の家具・仏壇、西横堀筋の瀬戸物街などがある。これらの問屋街地区も都市再開発が進められ、北区梅田の繊維問屋街は淀川区の新大阪繊維卸売団地(現、新大阪センイシティー)に、船場の繊維問屋の一部は箕面(みのお)市に、中央区谷町筋の既製服問屋街は枚方(ひらかた)市に移転するなど、しだいに変容を示している。
一方、銀行、証券、商社、事務所などの金融、流通管理機関は、北区の梅田、堂島(どうじま)、中之島から中央区の北浜(きたはま)、御堂筋(みどうすじ)、堺筋(さかいすじ)などに集中している。北浜には日本取引所グループ(大阪取引所)があり、一帯は証券街として、東京の兜町(かぶとちょう)と並称される。都心商店街としては心斎橋筋(しんさいばしすじ)、戎橋筋(えびすばしすじ)がある。JR、私鉄に結ばれるターミナル商店街は、梅田、天神橋筋、京橋、上本町(うえほんまち)、難波(なんば)、阿倍野橋筋(あべのばしすじ)など、駅付近に発達し、興行界、飲食店などを擁して盛り場商店街をなしている。とくに梅田を中心とする一帯は「キタ」、難波の一帯は「ミナミ」と称し、それぞれ地下商店街と結んで二大繁華街区をなしている。このほか盛り場には通天閣(つうてんかく)をもつ新世界が知られている。
大阪経済の基盤を支える大阪港の外国貿易は、2020年時点で、輸出3兆8087億円、輸入4兆5168億円である。おもな輸出品は鋼材、産業機械、再利用資材などで、輸入は衣類および同付属品、電気機械、染料・塗料などの化学工業品などである。
[位野木壽一]
市の工業は阪神工業地帯の中核をなしている。2020年時点の製造業の事業所数は4879、従業員数は11万2970人、製造品出荷額等は3兆5747億円に上る。業種別にみると、事業所数では金属製品、印刷・同関連、生産用機械器具、プラスチック製品が多いが、製造品出荷額等からみると、化学、鉄鋼、金属製品が多く、市の工業は重化学工業と軽工業からなる総合型工業であるといえる。工場を規模からみると、小規模工場が多く、300人以上の大規模工場は0.5%にすぎない。しかし製造品出荷額等からみると、大規模工場で総額の26.2%を占めている。
工場地域は北部、東部、西部の3地区に大別できる。北部工業地区は、淀川とその支流神崎川流域に発達し、淀川工業地区ともいう。明治初年に旧淀川右岸に設けられた造幣寮の影響で、その上流に金属製練所や紡績、染色、晒(さらし)工場などが立地し、神崎川流域には製薬、肥料、染料などの大規模の化学工場が進出して、現在では化学工業地区の特色を現す。
東部工業地区は平野川流域に発達し、城東工業地区ともいう。明治初年大阪城内に設置された造兵司の下請業として金属、機械部品、衣料などの小工場が立地し、その後、城北運河、城東運河(現在、新平野川)の開削に伴い、その流域一帯に広がった。金属、ミシンなどの機械器具、電気器具、出版・印刷、メリヤス、せっけん、薬品、食料品、家具、玩具、紙・樹脂加工品、レンズ・眼鏡類など多種多様である。労働力に依存した軽工業地区で、小・零細規模の町工場が多い。近年、騒音、振動などの都市公害を避けるとともに、企業の近代化を図って郊外に移転する傾向があり、印刷団地や菓子工業団地などを八尾(やお)市に設置した。
西部工業地区は、大阪湾岸に発達した臨海工業地区である。明治中期以降大阪港の築港計画の進むにつれ、水運の便に恵まれ、新田埋立地に造船、車両、鉄鋼、機械、セメント、石油化学などの大規模工場や製材工場が形成された。なかでも此花(このはな)区の住友電工、住友化学、住友金属工業(現、日本製鉄)と川崎重工、日立造船、大阪ガス(川崎重工以下3社の工場は閉鎖)は、俗に「西六社」とよばれた代表的重化学工業地であった。また、木津川下流は造船業地として知られた。大和川河口の平林地区には輸入材の大貯木池(現在、大部分は保管施設として利用されていない)と製材工場群がある。総括的に、この地区は重化学工業地区として阪神工業地帯の一核心地をなすが、反面大気汚染と地盤沈下の悩みをもち、その対策に腐心している地区でもある。2001年3月、日立造船などの跡地にユニバーサル・スタジオ・ジャパンが開園し、工業からの転換を図っている。
[位野木壽一]
国鉄(現、JR)の開通は1874年(明治7)の大阪―神戸間に始まり、現在は大阪駅を中心に東海道本線、大阪環状線、桜島線(ゆめ咲線)が通じ、市の表玄関となっている。関西本線は1889年湊町(みなとまち)を起点にして開通し、天王寺駅からは阪和線が走り、両駅は市の南の玄関をなしている。また片町線(学研都市線)は京橋駅を起点にして奈良と結ぶ。1964年(昭和39)には新幹線が通じ、新大阪駅が設置された。1997年(平成9)には片町線京橋―福知山線尼崎(あまがさき)を結ぶJR東西線が開通、片町線と連絡した。
私鉄は、南海電気鉄道の前身阪堺(はんかい)鉄道の1885年難波―大和川間開通が最初で、その後、阪神電気鉄道、京阪電気鉄道、阪急電鉄、近畿日本鉄道などの前身である諸鉄道が開通し、しだいに路線を延ばして今日の五大私鉄網をつくった。おもな路線をみると、南海電鉄は難波を起点に関西空港、和歌山および高野山(こうやさん)へ、阪神電鉄は大阪梅田から神戸へ、京阪電鉄は淀屋橋(よどやばし)から京都へ、阪急電鉄は大阪梅田から箕面(みのお)、宝塚、神戸、京都へ、近鉄は難波、上本町から奈良、伊勢(いせ)、名古屋へ、大阪阿部野橋から橿原(かしはら)、吉野へと通じている。
市内交通には、大阪シティバスと大阪市高速電気軌道(地下鉄)がある(2018年に民営化されるまでは大阪市交通局が大阪市営バス、大阪市営地下鉄として運営)。大阪シティバスは自動車交通の増大で年々乗客は減少している。地下鉄は南北を走る御堂筋線、堺筋線、四つ橋線、谷町線(たにまちせん)、今里筋線(いまざとすじせん)の5線、東西を走る中央線、千日前線(せんにちまえせん)の2線、北東に長堀鶴見緑地線(ながほりつるみりょくちせん)が通じる。また南港ポートタウンの竣工(しゅんこう)に伴い、四つ橋線と結んで新交通システムの南港ポートタウン線(ニュートラム)が登場した。なお、1903年(明治36)に開業した大阪市電は、1969年に廃止された。
国道は梅田新道の道路元標を起点にして、1号は東京、2号は北九州に結んで一大幹線道路をなし、このほか国道25号、26号などや府道大阪内環状線などが、ともに市内を環状と放射状に延びている。1962年には阪神高速道路公団が設立され、市内の旧運河や河川上を利用した高架道路を設けるなどして、渋滞緩和に努めている。
水運は大阪港が中心で、市の経済発展の基盤となっている。1868年(明治1)開港以来、幾多の変遷を経て、整備された市営港となった。
[位野木壽一]
上町台地の北部には特別史跡の大坂城跡や「幻の宮」といわれた難波宮跡(国史跡)があり、南の寺町地区には僧契沖の「契沖旧庵(きゅうあん)(円珠庵(えんじゅあん))ならびに墓」(国史跡)や勝鬘院(しょうまんいん)(愛染堂(あいぜんどう))、仏法最初の寺四天王寺や茶臼山古墳(ちゃうすやまこふん)(府史跡)などがあり、最近これらを巡る「歴史の散歩道」が設けられている。台地の南部には、帝塚山古墳(てづかやまこふん)(国史跡)や北畠親房(きたばたけちかふさ)・顕家(あきいえ)を祀(まつ)る阿部野神社(あべのじんじゃ)、摂津一宮(いちのみや)の住吉大社、後村上天皇(ごむらかみてんのう)の住吉行宮跡(すみよしあんぐうあと)(国史跡)などがある。旧大坂三郷の地には、西本願寺派の津村別院(北御堂)、東本願寺派の難波別院(南御堂)や坐摩神社(いかすりじんじゃ)(坐摩神社(ざまじんじゃ))、今宮戎神社(いまみやえびすじんじゃ)、また緒方洪庵の適塾(てきじゅく)(国史跡)などがある。北部には天満宮(てんまんぐう)や造幣寮創業当時の明治建築である泉布観(せんぷかん)があり、造幣局のサクラ並木は「桜の通り抜け」として知られる。国宝に住吉大社の本殿、四天王寺の『扇面法華経(せんめんほけきょう)』など、国の重要文化財に大阪城の大手門、四天王寺の石鳥居、泉布観などがある。大阪市の誇る人形浄瑠璃文楽(にんぎょうじょうるりぶんらく)は、太夫(たゆう)、人形遣(つか)いに重要無形文化財(人間国宝)指定の人を擁している。重要無形民俗文化財には「四天王寺の聖霊会(しょうりょうえ)の舞楽」と「住吉大社の御田植神事(おんだうえしんじ)」がある。
[位野木壽一]
図書館は、府立中之島図書館、市立中央図書館など、おもな博物館には、大阪城の近くに歴史資料展示の大阪歴史博物館、長居公園に自然科学資料を収集の自然史博物館、中之島には安宅(あたか)コレクションを収蔵する東洋陶磁美術館や市立科学館、難波には日本工芸館、天王寺公園には市立美術館と動物園、植物園などがある。大阪港に臨む天保山(てんぽうざん)ハーバービレッジには水旅館の大阪・海遊館がある。市の代表的公園には、歴史を背景とする大阪城公園や天王寺公園、住吉公園があり、水都のシンボルとして中之島公園がある。千島公園は高潮対策を兼ねた人工の昭和山(35メートル)があり、鶴見緑地(つるみりょくち)には地下鉄の廃土などを利用した鶴見新山(45メートル)と広大な森が設けられている。南港埋立地には魚つり園護岸、野鳥園などがある。浪速区に府立体育会館、港区に中央体育館、中央区に大阪城ホールがある。なお、大学は大阪市立大学(現、大阪公立大学)、国立大学法人大阪教育大学ほか多数の私立大学がある。
[位野木壽一]
近世の上方(かみがた)文化の伝統を伝えるものとして人形浄瑠璃と上方歌舞伎(かぶき)がある。人形浄瑠璃は、江戸中期に作者の近松門左衛門、語りの竹本義太夫、三味線の竹沢権右衛門(たけざわごんえもん)、人形遣いの辰松八郎兵衛(たつまつはちろべえ)らによって完成をみ、道頓堀の竹本座や豊竹座で興行、全盛を極めた。その後一時衰退したが植村文楽軒(うえむらぶんらくけん)が再興、文楽座で興行したところから人形浄瑠璃を文楽とよぶようになった。現在は国立文楽劇場で上演され、2003年(平成15)世界無形遺産に選ばれている。上方歌舞伎も近松門左衛門の脚本を坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう)らが演じた和事(わごと)で人気を博したが、現在では衰退している。大衆芸能には松竹新喜劇と上方漫才がある。前者は大正期に曽我廼家(そがのや)十郎・五郎の始めた曽我廼家喜劇の流れを継ぎ、後者は横山エンタツ・花菱(はなびし)アチャコの巧妙な大阪弁の話術で今日の隆盛をもたらした。通称「天王寺(てんのじ)村」(西成区山王1丁目)は上方演芸発祥の地として知られる。その後、大阪の漫才はますます盛んになり、上方落語とともに全国的な人気を呼んだ。千日前に上方演芸に関する資料を集めた府立上方演芸資料館(ワッハ上方)がある。
[位野木壽一]
商都大阪には、商売繁盛につながる祭りと行事がいまも受け継がれている。正月行事は福の神今宮戎神社(いまみやえびすじんじゃ)の9日(宵戎(よいえびす))、10日(本戎)、11日(残り福)で明け、14日は四天王寺の牛王宝印(ごおうほういん)を競う「どやどや」行事、2月は節分(せつぶん)の我孫子観音詣(あびこかんのんまい)り、3月は春の彼岸会(ひがんえ)、4月は22日の四天王寺聖霊会(しょうりょうえ)、5月は卯(う)の日住吉大社の卯之葉神事(うのはしんじ)と平野(ひらの)の大念仏寺(だいねんぶつじ)の練供養(ねりくよう)、6月は14日の住吉大社御田植神事がある。7月は夏祭ににぎわう月で、宝恵駕籠(ほえかご)の出る勝鬘院(しょうまんいん)の愛染(あいぜん)まつりを皮切りに、生国魂神社(いくくにたまじんじゃ)、土佐稲荷社(とさいなりしゃ)、杭全神社(くまたじんじゃ)、御霊神社(ごりょうじんじゃ)、坐摩神社(ざまじんじゃ)などの夏祭や陶器神社(とうきじんじゃ)の陶器祭が続き、その間15日には大阪開港記念の「みなとまつり」があり、25日には天満宮(てんまんぐう)の天神祭の船渡御(ふなとぎょ)で最高潮に達し、8月1日の住吉大社の川渡御で終わる。9月は秋の彼岸会、10月は中旬に誓文払(せいもんばら)い、17日には住吉大社の宝之市神事(たからのいちしんじ)、11月は道修(どしょう)町の薬種の神を祀(まつ)る少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)の神農祭(しんのうさい)、12月は歳末商戦で年を越す。
[位野木壽一]
大阪を代表する船場(せんば)には、第二次世界大戦前までは古い浪花(なにわ)の生活と風習があった。軒を並べた商家は、土蔵造袖壁(そでかべ)のある中二階建てで、表には店の屋号や商標を染め抜いたのれんが商家のシンボルとして掲げられていた。格子戸付きの間口と帳場、片側部屋と土間の奥行は深く、突き当たりには頑丈な土蔵のあるいわゆる鰻(うなぎ)住まいの構造である。ここでの主家と番頭、手代、丁稚(でっち)、小僧たち使用人の生活は、質素と倹約を旨とし、軽妙な大阪弁で商いに励み、蓄財に努めたのである。食生活についても、「朝粥(かゆ)や昼一菜に晩雑炊(ぞうすい)」といわれたほどに簡素で実用的なものであった。「大阪の食い倒れ」は、こうした内での食生活の裏腹(うらはら)として、外では美味を求めて金を惜しまなかった習性に由来するものといわれている。第二次世界大戦後の一般の生活は全国画一化の傾向にあるが、なお大阪弁と大阪の味は生きている。船場の商家では、船場汁や鰻面豆腐(うづらどうふ)(ウナギの頭と焼き豆腐の煮合せ)、身欠(みが)きにしんなど実利的なものが一部に残っている。
[位野木壽一]
『大阪市参事会編・刊『大阪市史』全8冊(1911~1913)』▽『大阪市編『明治大正大阪市史』全8冊(1933~1935・日本評論社)』▽『『昭和大阪市史』全8冊(1951~1954・大阪市)』▽『中沢誠一郎編『大阪』(1962・有斐閣)』▽『『昭和大阪市史 続編』全8冊(1964~1969・大阪市)』▽『三品彰英編『大阪――昔と今』(1964・保育社)』▽『宮本又次編『大阪の研究』全5冊(1968~1970・清文堂出版)』▽『井上薫編『大阪の歴史』(1979・創元社)』▽『『角川日本地名大辞典27 大阪府』(1983・角川書店)』▽『『日本歴史地名大系28 大阪府の地名』(1986・平凡社)』▽『『新修大阪市史』全10冊(1988~1996・大阪市)』▽『大阪府の歴史散歩編集委員会編『新版 大阪府の歴史散歩』上・下(1990・山川出版社)』▽『大阪市史編纂所編『大阪市の歴史』(1999・創元社)』
大阪府中央部にある府庁所在地。近畿地方のほぼ中央を占める大阪平野にあって,淀川河口の大阪湾岸に位置する。大阪の〈阪〉の字は,江戸時代まで坂を使うのが一般的であったが,明治以後阪に統一された。日本では東京に次ぐ経済力をもつ大都市で,西日本の地域経済活動の中枢をなし,大都市圏は大阪府下をはるかにこえて広がり,京都,神戸の都市圏と複合している。1956年9月政令指定都市となり,2010年現在は北,都島,福島,此花(このはな),中央,西,港,大正,天王寺,浪速(なにわ),西淀川,淀川,東淀川,東成(ひがしなり),生野,旭,城東,鶴見,阿倍野,住之江,住吉,東住吉,平野,西成の24の行政区からなる。市域の面積は222km2,人口266万5314(2010)。地形は,淀川と大和(やまと)川がつくった沖積低地と上町台地によって構成される。上町台地は大坂城付近から南へ向かって細長く半島状につづく台地で,淀川に臨む台地北部は,古代の難波(なにわ)京と四天王寺,中世後期の石山本願寺,近世の大坂城が立地して,大阪の長い都市史における中核をなしてきた。台地の北側と西側には,天満から船場,島之内を経て難波(なんば),粉浜(こはま)にかけて,砂州と呼ばれる微高地が帯状に伸びている。低地は淀川と大和川によって形成された沖積平野で,上町台地によって淀川・河内低地と大阪海岸低地に分けられる。東側の淀川・河内低地は,中央に縄文時代の入海のなごりをとどめる広い湖沼が18世紀初頭まであり,これに淀川の一部と旧大和川が流入していたため,きわめて低湿な土地である。また西側の大阪海岸低地は,淀川のいくつかの分流によって最も新しくつくられた土地である。ここには三角州前面に潮止め堤防を築いて干拓した新田が近世に数多く造成され,また明治後期から今日までに港湾施設と工業用地のため造成された埋立盛土地が広がっている。
1583年(天正11)の豊臣(羽柴)秀吉による大坂城築城と城下町経営は,現代都市の直接の前身をなす都市建設であった。上町台地北部と微高地の砂州地形を巧みに利用し,北組,南組,天満組からなる大坂三郷の市街地が,数多くの堀川の掘削と河川改修を進めて整備された。〈出船千艘,入船千艘〉と評された大坂は,淀川琵琶湖水運と瀬戸内水運の結節点をなして,全国の流通経済の中心となった。諸藩蔵屋敷の集中と蔵米,国産物の集散,全国市場の中心となった堂島米市場や天満(てんま)青物市場,雑喉場(ざこば)魚市場,各種の問屋仲買業などの経済活動とともに,文芸や学問の面でも町人文化の隆盛をまねいた。明治維新は大阪経済に大きな打撃を与えたが,造幣局,砲兵工厰,堺紡績所の官営工場設置が契機となり,紡績業をはじめとする繊維工業,次いで金属,機械,化学の大規模工場による生産活動が盛んとなり,工業都市として急成長をみせて日本経済をリードした。また明治初めから大正初めにかけては私鉄,国鉄の放射状交通網が発達し,人口と市街地の急速な膨張をまねいた。第1次世界大戦後は繊維・雑貨中心の軽工業から重化学工業へと産業構造を大きく変化させ,また1960年代以降は,都心地区の高層化と地下街,数多くの堀川の埋立て,東海道新幹線(のち山陽新幹線に接続)の開業,地下鉄,高速道路の延伸と新設,大阪南港の造成,オーサカビジネスパーク建設,ウォーターフロント再開発など,急激な都市景観の変貌が進んだ。
地方自治体としての大阪市は,1889年に誕生して東,西,南,北の4区で構成され,人口47万人であった。市域は97年,1925年,55年と3回にわたって拡張されて現在に至り,行政区も13区,15区,22区,26区と増加したが,89年には合区があり24区となった。しかし面積は全国の百万都市ないし政令指定都市の中では川崎市などとともに狭小である。人口は1940年の325万人が最大で,第2次大戦直後の110万人から65年の315万人へと回復したが,その後は職住分離が進んで市外への転出者が多くなり,漸減傾向を示している。都市の内部構造は,梅田,曾根崎付近の北と,難波,心斎橋筋,道頓堀付近の南の二つの繁華街を結ぶメーンストリートの御堂筋を南北軸としてほぼ楕円状に広がり,中央,西,北,浪速の4区にまたがる。淀川下流,堂島川と土佐堀川の間の中州である中之島付近には市役所,裁判所などの官公庁や金融機関,ホテルが,またその南に続く北浜の証券街,道修(どしよう)町の薬品,本町(ほんまち)と丼池(どぶいけ)筋の繊維などの卸売問屋街が集中するビジネス地区となっている。その周辺の大阪環状線の内側一帯は商業・工業・住宅ないし住宅・工業の混合地区で,さらにその外側は,大阪港を中心とする臨海地,西淀川・淀川・東淀川各区の神崎川沿岸,東部の城東・東成各区などが,阪神工業地帯の中核をなす工業地区である。南東部の住吉・東住吉・平野各区は,住宅・マンションが多い住宅地区である。
大阪は近畿圏と西日本の中心都市であり,京阪神大都市圏の中核都市である。しかし東京における中枢管理機能の顕著な集中傾向は,全国規模での大阪の比重を相対的に低下させ,大阪経済の地盤沈下が目立つようになった。高度経済成長期の産業と人口の急激な集積によって,職住の極端な分離と住環境の悪化,公害と交通難の激化,公園,緑地,レクリエーション・文化施設の不足など,過密過大型の都市問題が他都市よりもとくに深刻になっている。
執筆者:服部 昌之
近世日本最大の商工業都市。古代には難波宮がおかれるなど歴史は古いが,地名の初見は1496年(明応5),真宗の蓮如が〈摂州東成郡生玉之庄内大坂トイフ在所〉に坊舎を営んだと記したものである。1532年(天文1)真宗の本山である本願寺が山城山科からこの地に移り,石山本願寺と唱えた。大坂の都市的前史はこの寺内町にあった。80年織田信長のために本願寺は石山を退城したが,83年羽柴秀吉は賤ヶ岳合戦ののち,天下統一の拠点として大坂城と城下町の建設にのりだす。当時の大坂は東横堀川以東の上町台地辺をさし,船場,天満とは別であった。上町台地は大坂城総構のうちに含まれ,城と武家屋敷が多く,三の丸工事で町屋1万7000戸が移転されたことからみれば,町屋も含まれていた。船場は町屋であるが,天満は天満宮門前町,さらに本願寺の移転でその寺内町(1585-91)を核として発達した町であった。天下人の城下として諸侯の屋敷が並び,参勤の武士人口も多かった。また城下町繁栄のため地子免許の恩典を与えられ,近畿各地から商工業者が移住させられた。秀吉の死後も大坂は一定の経済的地位をもったが,1615年(元和1)豊臣氏滅亡により転機がおとずれる。
徳川幕府は松平忠明を城主として復興に当たらせるが,19年彼を郡山に移し,幕府直轄地として再建にのりだす。大坂城は西日本諸大名に命じ,20年から38年(寛永15)まで大工事をおこなった。都市大坂については松平忠明の時代から計画がすすめられており,まず大坂城を中心に幕府の軍事・行政機構をおいた。さらに上町台地の南方に寺町をおき,天満では淀川沿いの東部地域に川崎東照宮,九昌院,町奉行所与力屋敷,北限には寺町と与力・同心屋敷を東西に長く連ねて外郭防衛線とした。船場,天満は町屋地域であるが,さらに旧三の丸の空地に伏見町人を移住させた。被差別民を渡辺村や四ヵ所非人として市外隣接地に集め,渡辺村にはなお数度の移転を強制するなど,さまざまな差別をおこなった。当時は大坂,天満と併称される例もあるが,やがて大坂三郷として南,北,天満が定着した。南,北は本町筋で分かち,南限は道頓堀,北限は大川,それに天満郷が加わった。この三郷が3組として市政の単位となったが,一時期伏見組がおかれ4組であった。幕府は大坂城に城代・定番の武士をおき,東・西町奉行に市政をみさせた。また有力町人を惣年寄として三郷に配し,各町の年寄とともに市政を担わせた。町人の負担では,地子は豊臣時代の古町5000石,のち松平忠明による増高とあわせ1万1183石3斗9升8合余となり,地子はその80%を1石銀20匁替として銀178貫934匁3分7厘4朱と定めた。しかし1634年3代将軍家光によって免除された。だが公役として御用人足賃銀などや町役として道路,橋梁の建設・修復など多額の負担をおこなった。
大坂の発展はいくつかの時期で画することができる。豊臣政権期,秀頼城下町期,元和・寛永期と前期の中でも区分できるが,この時期は城下町であり,徳川直轄地になっても大坂城再建に投下した費用は巨額で,領主経済によって支えられた面が大きい。また都市建設による土木・建築の盛況もみられた。しかし大坂城建設が終わり,寛永末年の大飢饉となって前期の繁栄は終わり,職人や日用などの中には職を求めて江戸などへ移住する者がいた。人口は1634年40万4929人,65年(寛文5)26万8760人と激減している。17世紀後半からは再び発展をはじめ,99年(元禄12)36万4154人となり,以後増勢は緩やかではあるが18世紀半ばまで続き,1765年(明和2)41万9863人と近世で最大となった。この発展は大坂が〈天下の台所〉となったことを示している。領主経済を支える蔵物の取扱いや財政金融をおこなうとともに,当時発展しつつあった農民経済の発展をふまえて全国経済の中心になったのである。1714年(正徳4)大坂の移出入品をみると,移入品119種・銀28万6561貫411匁,移出品95種・銀9万5799貫585匁であり,そのほかに武家荷物として蔵米112万3070石,雑穀7万2895石という巨額の物資が動いている。畿内,西日本を中心に全国各地より物資が入荷し,江戸をはじめ全国に出荷された。これはただ物資が集散する流通拠点というにとどまらず,原料が入り加工品が出ているところから,大坂が産業都市として加工業の中心であったことをも示している。事実,大坂では生活必需品の各種産業があり,油は江戸,京などの需要を賄い,木綿などの織物業,建具・家具類,金属加工では銅・鉄製品などがあり,とくに長崎貿易の輸出銅の精錬は独占的におこなわれた。この商工業を背景に,金融業も盛んとなった。大名は中之島,北浜などに蔵屋敷をおいて年貢米,特産品を売りさばいたが,このため大名財政に関係した蔵元,掛屋の豪商が輩出した。当時,日本一の豪商とうたわれた淀屋,鴻池,銅山・精錬業の泉屋などが知られた。
元禄期の発展によって,大坂市中は拡大した。貞享年間(1684-88)河村瑞賢が淀川筋を改修し安治川の開削をおこなったが,それをきっかけに元禄・宝永期に堂島,安治川や堀江,曾根崎の各新地ができた。ついで享保以降にも高津,難波の両新地ができた。大坂の町数は1651年(慶安4)213,1700年548となっている。また従来,大坂では新町遊廓が公許された遊所となっていたが,新地は繁栄策として茶屋・風呂屋株が認められて茶立女,髪結女をおいたから,新色里として発展をする。芝居は道頓堀にあったが,《難波丸》には歌舞伎,浄瑠璃,舞,説経,からくりの小屋が18名代あげられており,いろは茶屋(芝居茶屋)が繁昌した。のちには新地にも芝居が認められている。多くの名優,作者が輩出したが,義太夫節を開いた竹本義太夫,《曾根崎心中》などの作者近松門左衛門が著名である。ところで元禄末期以降には大坂の繁栄に影がみえる。元禄・宝永期における貨幣改悪,正徳・享保期(1711-36)に良質貨幣鋳造により通貨が混乱し,経済政策の転換も町人を不安にした。“心中”が流行したのもその一端である。また1705年(宝永2)淀屋が欠所となった。商業仲間の組織がすすみ,町人内部では家法をつくるなど家内部を固めようと考えるようになった。24年大坂町人5名を中心に懐徳堂が設立されたのは,こうした不安定な状況のもとで儒学による生活道徳を町人に教化しようとしたものであった。学主に三宅石庵,中井竹山らの学者があり,関係者に富永仲基,山片蟠桃らがでた。
17世紀後半から木綿,油などの仲間,江戸積二十四組問屋,また十人両替などの商業組織が成立していたが,幕府は享保改革のなかで仲間を公認し,米価調節のために堂島米相場を認めた。田沼時代にはさらに各種の仲間を奨励した。そのため大坂の商工業仲間が一般に設立され,それによる独占権が弊害を及ぼすほどになった。また幕府は新規に米,木綿などの会所設立を許可したため,既存の流通関係に混乱をもたらした。なかでも家質奥印差配所は,町人金融の担保として普及していた家質の証文に奥印をおし,一定金額を徴収しようというもので,中小町人の反発をうけて打毀が起こった。また木綿,油,干鰯(ほしか)についての仲間独占の強化は,近郊農民との鋭い対立をもたらし,1823年(文政6)摂津・河内1007ヵ村による木綿直売願,24年摂河泉3ヵ国1460ヵ村,65年(慶応1)摂河1263ヵ村油関係の国訴などがたびたびみられた。さらに都市貧民の増大により市中に打毀が起こった。天明大飢饉には大規模な打毀があったし,1837年(天保8)元与力で陽明学者大塩平八郎の蜂起は全国に衝撃を与えた。このころから大坂の市況は停滞しはじめた。天保期には大坂への物資回着が減額しているが,それは藩専売や生産地などの荷主・商人の買占めのためで,物価騰貴を引き起こした。江戸との取引も減少し,貸越しが増えている。幕府は旧来の市場統制策は不可能とみて,株仲間解散にふみきるが効果はなく,51年(嘉永4)には株仲間が再興されたが,かつての独占的地位はなくなった。なお中期以降の幕府の買米(かわせまい),御用金は巨額に上り,大坂商人の資金力に打撃を与えたものとみられる。また天保改革の中で,芝居を5座に限り,茶屋・風呂屋の転業と飯盛女付旅籠屋として3ヵ所に遊所を集めた。都市への人口流入を抑制し,帰農奨励をおこなったのも特色であった。こうしたことによって不況は強くなった。安政年間(1854-60)ロシア軍艦来港などの騒然たる世相の中で幕府は大坂繁栄策を実施し,芝居小屋の新設や13ヵ所に茶屋545軒を認めるなどしたが,人口は衰退を続けた。ただ時代の波は大坂にも洋学の種をまいた。中期にも橋本宗吉,間長涯らの町人学者がでたが,1838年緒方洪庵の開いた適塾は全国から集まった英才を育て,日本近代に大きな影響を与えた。
幕末の政争は京都を中心に起こったが,大坂城には将軍家茂が入城するなどした。1866年第2次長州征伐のため物価が騰貴し,大坂周辺で大打毀が起こり,その直後に家茂が死んだ。67年“ええじゃないか”を踊り狂うなかで,幕府は倒壊した。近代への転換は大名財政に密着した豪商にとっては困難で,多くの豪家が潰れたが,泉屋が住友財閥として展開し,鴻池などは金融資本として生きのびた。全般に大坂は商工業都市として再生し,大陸貿易などにも活路を求めて,西日本の中心となって発展した。
執筆者:脇田 修
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…25年から約10年間,第2次《三田文学》の精神的主幹として後進の育成につとめた功績は大きい。代表作には,第1次大戦末期の大阪風俗を活写した姉妹作《大阪》(1923),《大阪の宿》(1926)があり,20年から6冊刊行された随筆集《貝殻追放》には大正期の健全な市民精神がうかがわれる。【前田 愛】。…
…面積=1892.06km2(全国46位)人口(1995)=879万7268人(全国2位)人口密度(1995)=4650人/km2(全国2位)市町村(1997.4)=33市10町1村府庁所在地=大阪市(人口=260万2421人)郷土の花=アシ 府木=イチョウ 府鳥=モズ近畿地方の中央に位置し,大阪湾に面する。南北に長く伸びる府域は,他府県に比べ狭小な面積であるが,人口と人口密度は,いずれも東京都に次いで全国第2位。…
…公害の語源は明らかではないが,日本の法制上登場するのは,明治10年代の大阪府の大気汚染規制のための府令(のちの条例)や同20年代の〈河川法〉以降である。この場合の公害は〈公益〉の反対概念であったが,やがて大正期に入ると,地方条例の中で,今日と同じように,大気汚染,水汚染,騒音,振動,悪臭などによる公衆衛生への害悪を総称して公害と呼んでいる。…
…第3には,巨大都市といくつかの大都市がその都市圏を連接し,一つの共通都市圏を形成するにいたったメガロポリス(巨帯都市)の誕生である。アメリカ合衆国北東部のボストンからニューヨークを経てフィラデルフィアに至る地帯に名づけられた名称であるが,ライン・ルール,ロンドン・バーミンガム,シカゴ・シンシナティ,ロサンゼルス,東京・大阪などもメガロポリスの性格をもっているといわれるようになった。
[都市問題]
都市が拡大する速度(都市化の速さ)と都市施設の整備の速度が均衡がとれていれば,住民の生活や都市の活動は順調に進むが,都市化の速度が急速になると,人口増加や都市機能の高度化の速度に都市施設の整備が追いつけず,種々のひずみ現象が現れる。…
…現在の大阪市の上町台地北半部を中心とする地域の古称。おおむねもとの摂津国東成,西成両郡の地にあたる。…
…摂津国住吉郡の在郷町(現,大阪市平野区)。中世には平等院領杭全荘(くまたのしよう)などがあったが,戦国期に環濠都市として発展,七名家といわれる末吉,土橋(つちはし),三上,成安,辻葩(つじはな)らが年寄として支配した。…
※「大阪」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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