1851年(咸豊1)広西に樹立され,のち南京を首都天京として,清朝,また末期にはイギリス,フランス干渉軍と戦って64年(同治3)に滅んだ中国の民衆的政権。
母体は1843年(道光23)広東省花県の客家(ハツカ)の農民出の読書人洪秀全が創始した拝上帝教という宗教団体である。彼は科挙失敗後の病中に見た幻覚を,偶然手にしたプロテスタントの布教文書によって解釈し,みずからを堕落した中国を救う使命を真の神,天父上帝から与えられた者と確信した。彼はこの神をエホバと等置したが,実質は中国古来の人格神で天の主宰者たる上帝にほかならず,キリスト教とは異質のものだった。ただ彼はこれを他のいっさいの神仏の存在を許容せぬ排他的な唯一神とみなし,中国の堕落は歴代皇帝が儒,仏,道などさまざまの偽りの神,偶像,すなわち妖魔を導入し,人びとがこれにひれ伏したからだとみなした。すべての人はこの上帝から肉体と生命を賦与されたもので,したがって天下のすべての男は兄弟,女は姉妹であり,天下の人はいっさいの差別・対立・抗争のない一大家族となるべきだと主張し,その理想を孔子が《礼記(らいき)》礼運篇にしるした大同世界に仮託して描いた。この拝上帝教は,広西省の桂平県,貴県などの山間部や山麓地帯に分散して居住し,先住民集団から疎外されていた客家の農民に,病気や災難からの救済という中国のいっさいの民間信仰に共通する現世利益的要素を加えつつ受容され,暗黒の日常から光明の未来へ飛躍しようとする熱情をかきたてたのである。
47年にこの地方で始めた偶像(神廟,神像)破壊運動を通じて,拝上帝教徒は旧秩序,その支柱たる郷紳や地主勢力と衝突し,ついで清朝官憲との抗争に発展した。50年初めころ首脳部は清朝を妖魔の最たるものとして打倒し,地上に上帝の意志を体した天国を樹立する意図を固め,春から秋にかけて各地の男女老幼の信徒約1~2万を桂平県金田村に結集し,同年末には清軍との公然たる戦闘が始まった。翌年初め,軍を男軍,女軍に分け,モーセの十戒から取った禁欲的戒律に基づく厳しい軍規を定め,洪秀全は天王と称した。9月,広西省永安(現,蒙山県)で国号を太平天国とし,東・西・南・北・翼の5王以下の官制を定め,東王楊秀清を最高司令官とした。
広西各地で苦戦したのち,52年(咸豊2)6月,男女5000~6000人の兵力で湖南南部に入った太平軍は,そこで天地会員や坑夫,貧農,流民などから成る多数の新参加者を加えて,大発展する契機をつかんだ。その滅満興漢のよびかけや,租税免除の約束,富豪から奪った財貨の貧者への分配,民衆に対する厳しい軍規,死を昇天として恐れぬ闘志,諸王の固い団結などによって,太平軍は民衆の圧倒的支持を受け,湖南,湖北,江西,安徽を抜いて,53年南京を占領した当時には,数十万のよく統制された大兵力に発展していた。南京建都後,天王は大同の理想を土地・社会制度として具体化した〈天朝田畝制度〉を発表し,また纏足(てんそく),売春,アヘン,酒,賭博を禁止し,儒教の経典を修正するなどの改革を行った。〈天朝田畝制度〉はすべての土地を上帝の所有として私有を禁止し,男女の別なく年齢に応じて一律平等に割り当て,各家族の消費分を除くいっさいの剰余生産物を,25家ごとに設立される聖庫に納めて,冠婚葬祭,孤児や寡婦の扶養,子弟の教育などにあてるというもので,生産力の発展や経済的繁栄ではなく,生活の絶対的安定と平等を主目的とするものであった。このユートピアは実現すべくもなく,現実には従来の土地制度を是認するようになった。またこのユートピアにおいてすら官と民は身分上高下の関係におかれ,男女関係においても天王以下の諸王には多妻制を公認するなどの矛盾が含まれていた。
軍事面では広西以来の精鋭を中核とする3,4万の北伐軍が天津付近で全滅したことによって,短期間に清朝を倒す可能性が失われた。56年には,建都以来進行していた諸王間の隠微な権力闘争が,流血の大分裂として爆発し,東王がその部下約2万とともに北王韋昌輝に,ついで北王が天王に殺害され,衆望を担った翼王石達開が天王の圧迫に耐えかねて20万の大軍を率いて天京を離脱する悲劇を演じた(南王馮雲山と西王蕭朝貴は南京占領までに戦死)。これに乗じて曾国藩が儒教と伝統的秩序の擁護をかかげて,湖南の儒者・地主を中核に組織した義勇軍(湘(しよう)軍),ついで李鴻章が安徽で組織した淮(わい)軍が攻勢に転じ,太平軍は60年までに天京上流の従来の地盤を喪失した。
第2次アヘン戦争と北京条約(1860)によって,清朝をその対華政策の支柱として再編することに成功したイギリス以下の列強は,初期の中立政策を放棄し,1860年以降,天京以東の江蘇・浙江省に新たな活路を求めて進出してきた太平軍に,上海,寧波などで武力攻撃を加え始めた。天王は天下万国の真の主としてヨーロッパ諸国民を臣民視する中華思想の一方,これを同じ唯一神を信ずる洋兄弟とみなし,アヘンを除く通商やキリスト教布教には友好的だった。だが彼らは列強の武力干渉と,これに対する必死の抵抗を通じて,その侵略性を認識し,中華思想から脱却して近代ナショナリズムの思想を萌芽させ始めた。また,この対外抵抗は,イギリス,フランスの幕末日本への軍事的圧力をゆるめ,その対日政策にも影響を与えた。列強の軍事援助を受けた淮軍とイギリスの将校ゴードンを司令官とする義勇軍(常勝軍)の連合軍によって,太平軍はその最後の地盤,江浙地方をも失い,1864年6月,洪秀全は病死し,その20日後に天京が陥落して,太平天国は滅亡した。
敗北したとはいえ,この運動は近代以前の世界史上のいかなる民衆反乱もつくり得なかった高度に統一された組織と,多数の女性を含む独自の軍隊をつくって,十数年にわたって内部の封建勢力,ならびに新来の外国資本主義勢力に対して戦いつづけた。それによってこの運動は近代の中国革命の源流となった。民国革命の父孫文は第二の洪秀全と自称し,後者が免れなかった皇帝主義を批判しつつ,その清朝打倒と独立という課題を自覚的に継承しようとした。また太平天国時代の地主や官僚に対する農民の闘いは多くの歌謡や伝説によって民衆の中に語り継がれ,1920年以降のより自覚的な農民革命論を生み出す土壌を準備した。
執筆者:小島 晋治
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1851年春ごろ中国の広西省に興り、64年に南京(ナンキン)で滅亡した漢族の反清(しん)「革命」国家。清朝側は太平天国軍を長髪賊、粤匪(えっぴ)などとよんだ。
[小島晋治]
1843年、広東(カントン)省花(か)県の客家(ハッカ)の農民出身の在野読書人洪秀全(こうしゅうぜん)が拝上帝教(上帝教)を創立したことに始まる。彼は、中国古代の至上神で天の主宰者たる上帝を、キリスト教のヤーウェ(エホバ)と等置し、これを唯一神に変えた。初めは、中国人プロテスタント宣教師梁発(りょうはつ)が書いた解説書『勧世良言』そのままに、いっさいの偶像を拝まず、上帝だけを信じ、禁欲的戒律を守れば、すべての人が「魂の父」である上帝の子女、兄弟姉妹として助け合い、睦(むつ)み合う「大同」の世が実現すると説いただけで、かならずしも地上の革命を意図したものではなかった。上帝教は主として、広西南東部の新来の移住民として、一族の神々や土地神の祀(まつ)りを中心に結集していた先住民の共同体から排除されていた客家の農民に受容され、その過程で、キリスト教とは異質の土俗的一神教に変質した。すなわち、衣食の保証、病気や災害から免れるという現世利益の実現と結合し、またとくにこの地で盛んであった「降僮(こうどう)」という神の人間へののりうつりの信仰を受け入れた。1848年、偶像破壊運動がもたらした信徒の動揺を、それぞれ上帝およびキリストののりうつり(「下凡」)によって鎮めようとした当地の野心的な貧農楊秀清と蕭朝貴(しょうちょうき)は、上帝とキリストのことばとして、洪秀全がキリストに次ぐ上帝の次男であり、天下万国の真の君主、救世主として地上に遣わされたものであることを告げた。秀全はこれを信じ、かつて上帝教創立の契機となった己の幻夢をもとに、地上天国の創立と、秀全が「真の君主」となることを正当化する神話を創造した。偶像破壊を通じて、客家の貧農を中心とする上帝会と、郷紳が支配する団練(武装自警団)との抗争が激化するなかで、前者は1850年春以降、挙兵準備を進めた。同年夏から秋にかけて、婦人、老人、子供を含む約1万の各地の信徒は、土地・財産を処分して武装集団を結成し、清軍と抗戦しつつ、広西南東部の桂平(けいへい)県金田(きんでん)村一帯の村々に集結し、秋から冬にかけて、清軍との全面的な戦闘が始まった。翌年春ごろ、秀全は天王と称し、「太平天国」という新国家を樹立した。
[小島晋治]
彼らは初め、広西と広東に新国家を建設しようとしたらしいが、清軍との広西での苦闘を経て、1852年5月、数千に減少した兵力で湖南南部に入った。この地で天地会員や貧農、坑夫、失業遊民層などを吸収して数万の兵力に拡大し、揚子江(ようすこう)流域を目ざして進撃した。太平軍は民衆に対する厳正な軍規と、強烈な滅清興漢のアピール、また「3年間土地税を免除する」「税を少なくして貧富を均(ひと)しくする」などのスローガンの下に、官僚、大地主、富商を攻撃し、農民や貧民に戦利品を分配したことなどによって、民衆の強い支持と協力を得、1853年3月、20万~25万の大軍となって南京を占領、ここを首都天京として新政権の建設を開始した。新政府は土地国有と耕地の均等割当て、自家消費分以外の全余剰生産物の国有などをおもな内容とする「天朝田畝(でんぽ)制度」を、未来の理想社会として発布したが、実現への努力もなされないままに終わった。結局、膨れ上がった軍隊と官僚を養う必要に迫られて、旧来の土地制度(地主制)を承認し、これを基礎に土地税を徴収する政策を採用した。地主勢力は、占領当初に行われた太平軍の激しい攻撃と収奪、また旧支配機構の崩壊を契機に爆発した地代支払い拒否などの農民の反地主闘争によって弱められた。しかし、新政府の地主制容認政策によって生き延び、新政府の地方官=郷官(きょうかん)の多くは地主や旧胥吏(しょり)によって占められた。新政府は史上初めて婦人の科挙(女科)を行い(1回のみ)、売春と纏足(てんそく)を禁止するなどの革新的な措置をとり、また厳格な男女隔離を行った反面、天王はじめ諸王は早くから多数の妻妾(さいしょう)を擁し、婦人に「三従の教え」を説いたりした。また官と民は身分的上下関係とされて、功臣の官職世襲や繁雑な身分儀礼が規定され、諸王は壮麗な宮殿を造営するなど、王朝体制が再生産された。この過程で、諸王間の対立が深まり、1856年北王韋昌輝(いしょうき)が天王の支持の下に東王楊秀清を殺害し、ついで天王が北王を処刑し、翼王石達開が天王の圧迫に耐えかねて大軍を率いて分裂し、この間、数万人が殺害されるという悲劇が起こった。北京(ペキン)攻略を目ざした北伐軍が1854年に全滅したことに続く、この内部抗争による弱体化に乗じて、曽国藩(そうこくはん)らの湘(しょう)軍が反撃に転じ、58年までに湖南、湖北、江西などの太平天国の領域が奪回された。60年以降、忠王李秀成(りしゅうせい)の大軍が清朝のドル箱だった江浙に進出して反撃したが、1860年の北京条約締結以後、中立・不干渉政策から清朝援助政策に転換し始めたイギリスなど列強の武力干渉、とくに常勝軍と、湘軍および李鴻章(りこうしょう)の淮(わい)軍の連合攻撃によってしだいに追い詰められ、1864年、湘軍が天京を占領して、太平天国は滅亡した。
[小島晋治]
太平天国運動は古い型の農民戦争ないし民衆反乱ではあったが、かつてない高度な組織、規律をつくりあげて、清朝と、これを支持する官僚、大地主、富商、高利貸に大打撃を与え、また末期には初期の中華思想的世界観から脱却して、相互の領土主権の尊重を強調するなど、民族主義の萌芽(ほうが)を示し、その全歴史を通じて、近代の中国革命の課題=反帝国主義・反封建主義の課題を提示した。直接には最初の工業化の試みである洋務運動を生み出す大きな要因となり、またイギリスの対日政策に一定の教訓、影響を与え、間接的とはいえ日本の明治維新を援助する役割を果たした。
[小島晋治]
『西順蔵編『原典中国近代思想史I アヘン戦争から太平天国まで』(1976・岩波書店)』▽『小島晋治著『太平天国革命の歴史と思想』(1978・研文出版)』
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1851~64
清末,上帝会の教主洪秀全(こうしゅうぜん)が,1851年1月広西省桂平県金田村で創建した政権。湖南,湖北をへて長江流域に進出し,53年3月南京を占領し,ここを首都として清朝に抗戦し,64年滅亡した。粤匪(えっび),長髪賊とも称された。洪秀全はキリスト教からヒントを得てみずから上帝(エホバ)の次子,キリストの弟と称し,儒教や偶像崇拝を厳しく排斥して,独特の上帝信仰と天国思想を創案した。馮雲山(ふううんざん)とともに広西省で伝道に成功し,47年上帝会を組織した。会員の多くは客家(ハッカ)の貧農層で,指導者は客家出身の下層読書人,土豪,焼炭工などであった。太平天国が湖南へ進出してからのちは,各地の会党,流民や貧農が大挙して参加したが,中心勢力はやはり客家であり,その指導権はゆるがなかった。太平天国は人間平等の観念から,政治上・経済上の平等主義を掲げ,貧民層をひきつけることには成功したが,儒教の排斥,伝統文化の破壊を事として,極端な信仰を強制し,また一般民衆に対する殺戮や略奪をほしいままにしたため,読書人・地主層の指導下に結集された湘軍(しょうぐん)や淮軍(わいぐん)などの保守勢力に討伐された。
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中国清代後期の民衆的政権。太平天国はその国号。広東省の読書人洪秀全(こうしゅうぜん)は,科挙失敗後キリスト教の影響をうけ,1847年には神の啓示をうけたと確信し,拝上帝会を組織。50年同会は太平天国を号し,51年広西省で挙兵した。太平軍は勢力を拡大しながら北上して武漢を攻略,揚子江(長江)ぞいに東行して53年3月南京を陥落,首都天京とした。しかし56年頃から内部抗争が激しくなり,曾国藩(そうこくはん)の湘(しょう)軍や李鴻章(りこうしょう)の淮(わい)軍などが60年頃までに天京以西の地盤を奪取し,北京条約成立後,欧米列強も太平天国に対し中立から敵対に転じた。こうした連合戦線の攻撃のなか64年6月洪が病死し,7月には天京が陥落して太平天国は壊滅したが,十数年にわたる戦はその後の中国で革命運動の先駆として意識された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…孔子あるいは儒教に対する批判的な動きは,1840年のアヘン戦争以降,中国の封建的王朝体制が崩壊してゆくなかで,ようやく歴史の表面にあらわれてくる。1850‐64年,南中国を支配した農民反乱,太平天国では,村の私塾におかれた〈大成至聖先師孔子〉という位牌がうち壊され,孔子が祖述したとされる儒教経典を〈妖書邪説〉とみなして読むことを禁じる布告が出されるなどした。だが,太平天国が命脈を終えるとそうした動きは中断,本格的批判運動は中華民国成立以後にもちこされた。…
…中国,太平天国の創始者。広東省花県の客家(ハツカ)の中農の家に生まれた。…
… 城攻めは古来,準備と攻撃に3ヵ月ずつ要するといわれるが,1268年(至元5)秋に始まるフビライ麾下の元軍が南宋の呂文煥(りよぶんかん)が守る襄陽(じようよう)を攻撃した城攻めは,73年1月まで4年半を要し,回回砲(かいかいほう)と呼ぶ新型の大投石機まで登場した最後の決戦でさえ14昼夜かかった。また南京城の攻防は548年(太清2)の侯景の乱が有名であるが,清の同治1年(1862)夏から始まった曾国筌(そうこくせん)が指揮する湘(しよう)軍の太平天国天京攻撃も悽惨(せいさん)を極めた。このときはすでに爆破火薬が使用されたにもかかわらず城壁はゆるがず,城内を砲撃できる周囲の高地を占領しつつ,丸2年の包囲の末ようやく城がおちた。…
…生地に近い澳門(マカオ)のモリソン学校に学び,1847年(道光27)中国初の留学生として校長S.R.ブラウンにしたがって渡米,50年イェール大学に入学,洗礼を受け帰化した。卒業後帰国して茶・生糸の仲買いに従事,60年太平天国の洪仁玕に新政の提案をしたが運動には参加せず,逆に清側の曾国藩の洋務政策に協力し,72年(同治11)アメリカ留学生派遣を実現したが4年で挫折した。日清戦争時に再び帰国し変法運動に参加,1900年(光緒26)自立会会長に推され,蜂起失敗後アメリカで余生を送った。…
※「太平天国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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