だいじょう‐だいじん ダイジャウ‥【太政大臣】
〘名〙
①
令制で、
国政の最高機関である
太政官の最高の官。国政を総裁する。左右大臣の上に位置するが、適任者がなければ則
(すなわち)闕
(か)くとされるので、これを
則闕(そっけつ)の官という。おおきおとど。おおきおおとの。おおきまつりごとのおおまちぎみ。おおきおおいも
うちぎみ。
※
令義解(718)
職員「太政大臣一人 右師
二範一人
一。儀
二形四海
一。経
レ邦論
レ道。燮
二理陰陽
一。无
二其人
一則闕」
※
平家(13C前)一「
六波羅の入道前太政大臣
(ダイジャウだいジン)(高良本ルビ)平朝臣清盛公と申し人の
ありさま」
だじょう‐だいじん ダジャウ‥【太政大臣】
〘名〙
※中家実録(1285頃か)一「太政官 駄譲願〈略〉太政大臣之太政之訓、尤同唱也」
おおき‐おおいもうちぎみ おほきおほいまうちぎみ【太政大臣】
〘名〙 令制における太政官の最高の官。
職員令によれば、「師
二範一人
一儀
二形四海
一」、すなわち天皇にとっても、
天下にとっても範となるような人を任ずるもので、適当な人がなければ
欠員とした。これを則闕
(そっけつ)の官という。おおきおとど。おおきおおとの。おおいまつりごとのつかさ。おおきまつりごとのおおまちぎみ。だいじょうだいじん。
※
伊勢物語(10C前)九八「おほきおほいまうちぎみときこゆるおはしけり」
おおき‐おとど おほき‥【太政大臣】
※伊勢物語(10C前)一〇一「おほきおとどの栄花の
さかりにみまそ
かりて」
おおまつりごと‐の‐おおまえつぎみ おほまつりごとおほまへつぎみ【太政大臣】
おおまつりごと‐の‐おおまつぎみ おほまつりごとおほまつぎみ【太政大臣】
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デジタル大辞泉
「太政大臣」の意味・読み・例文・類語
だいじょう‐だいじん〔ダイジヤウ‐〕【▽太政大臣】
おおいまつりごと‐の‐おおまえつぎみ〔おほいまつりごと‐おほまへつぎみ〕【太=政=大=臣】
おおき‐おおいどの〔おほきおほいどの〕【太=政=大=臣】
おおき‐おおいもうちぎみ〔おほきおほいまうちぎみ〕【太=政=大=臣】
おおまつりごと‐の‐おおまつぎみ〔おほまつりごと‐おほまつぎみ〕【太=政大=臣】
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太政大臣
だじょうだいじん
(1) 律令官制の最高官で,「だいじょうだいじん」と読まれた。左右大臣の上に位置する太政官の長官であるが,特に職掌は定められておらず『大宝令』では適任者がなければおかない則闕の官であった。天智 10 (671) 年大友皇子が任命されたのが最初。その後令制の制定によってその制度が明確となった。天平宝字4 (760) 年に藤原仲麻呂が大師と名称を改め任命され,天平神護1 (765) 年に道鏡が太政大臣禅師として任命された。天安1 (857) 年藤原良房が任じられてからは藤原氏や源氏が相次いで任命されている。一位相当官で,封戸,職田,年給などの俸禄も最高であった。
(2) 明治4 (1871) 年7月 29日の官制改革により,政治の最高機関となった正院を司るために設けられた官職。太政大臣は,天皇を輔翼,庶政を総判,祭祀,外交,宣戦,講和,立約の権,海陸軍の統治および宮中軍務を任とした。 1877年1月 18日正院廃止ののちも,85年 12月 22日太政官達 69号にその職制が廃されるまで,明治初期政治の中枢に位置し国事を掌握した。
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太政大臣
だいじょうだいじん
「だじょうだいじん」とも。律令制での太政官の最高の官。天智朝期に,左右大臣・御史大夫とともに,大友皇子が任じられたのが初例。前代の皇太子の執政者的性格がみられ,持統朝で高市(たけち)皇子も任じられた。大宝令では唐の三師・三公にならい,天皇の訓導の官で,適任者がいなければ欠員でよいという則闕(そっけつ)の官とされる一方で,太政官の首席大臣として詔書・論奏や勅授位記に署名すると規定された。定員1人,一品・正従一位相当。当初は贈官のみで任官はなく,特殊な例として,藤原仲麻呂の大師(たいし)と道鏡の太政大臣禅師(ぜんじ)がある。任官の初例は文徳朝の藤原良房で,光孝朝の藤原基経に至って,あらためて太政官の首班として国政を統轄する地位と定められた。摂関政治の成立当初は,とくに関白の地位は太政大臣の職掌と密接にかかわるものであったが,10世紀以後,摂政・関白は太政大臣から離れた独自の地位となり,太政大臣は名誉職的な存在となった。
太政大臣
だじょうだいじん
1⇒太政大臣(だいじょうだいじん)
2明治前期の太政官制において天皇を補佐する最高の官職。1871年(明治4)7月,太政官職制の制定により設置。職務は天皇を輔弼(ほひつ)し万機を統理するものと定められた。三条実美(さねとみ)が太政大臣に就任したが,現実には藩閥政治家の実力者が参議として実権を握った。85年12月,太政官制にかわる内閣制度の確立により廃止。
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だいじょうだいじん【太政大臣】
令制における太政官(だいじようかん)の最高の官職で,日本固有の職。和訓では〈おおまつりごとのおおまえつぎみ〉といい,唐名では(大)相国。令では唐の三師(太師,太傅,太保),三公(太尉,司徒,司空)を兼ねる重職と位置づけられ,適任者のない場合には欠員とされ,〈則闕(そつけつ)の官〉ともいわれた。その具体的な職掌は令文にも記されておらず,〈非分掌之職〉であった。初見は《日本書紀》天智10年(671)正月条に大友皇子を任じた記事であるが,これは〈百揆を総べ〉〈万機を親くす〉る,いわば摂政にも比すべき国政の総理者であり,令制のそれとは異なる存在である。
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太政大臣
だいじょうだいじん
太政官の長官
①律令制の最高官で大宝令で制度化され,「則闕 (そつけつ) の官」と称し,適任者のいないときは置かなかった。律令制以前に大友皇子が任じられている。人臣では藤原仲麻呂が太政大臣に相当する大師となったのが初め。平安時代,藤原良房以後藤原氏が多く任ぜられた。
②「だじょうだいじん」と読む。明治時代の太政官制で,1871年に三条実美が任ぜられ,'85年の内閣制度実施まで続いた。
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世界大百科事典内の太政大臣の言及
【太政大臣】より
…初見は《日本書紀》天智10年(671)正月条に大友皇子を任じた記事であるが,これは〈百揆を総べ〉〈万機を親くす〉る,いわば摂政にも比すべき国政の総理者であり,令制のそれとは異なる存在である。ついで持統4年(690)7月条には,飛鳥浄御原令官制の実施にともない高市皇子が任ぜられているが,これは令制の太政大臣に近い形態であるらしい。奈良時代には藤原仲麻呂がこれを大師と改称し,みずから就任した例や,道鏡の太政大臣禅師就任などの例もあるが,その職掌が不分明であるためか,名誉職的な要素が強く,贈官が原則であった。…
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