奄美という呼称は史料上七世紀半ばまでさかのぼり、その範囲は必ずしも一定しないが、ここでは八つの島嶼、すなわち
奄美諸島は九州島や沖縄諸島から影響を受けながらも島嶼独自の文化圏を形成しているが、土器編年は縄文時代・弥生時代・古墳時代という区分を用いる。昭和三〇年(一九五五)大島の
縄文草創期・早期の遺跡はまだ確認されていないが、縄文前期になると九州本土系の縄文文化は南西諸島に強い影響力を及ぼすようになる。南島出土の爪形文系土器の年代はかつて考えられていたよりもはるかに新しく、アカホヤ火山灰の噴出以後、縄文前期相当の時代であることが確かめられている。喜子川遺跡のアカホヤ火山灰層の上から爪形文土器が発見され、九州の草創期に属する爪形文土器(一万二千年前―一万年前)とは異なる系統のものである可能性が強いことを示唆している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
鹿児島県南部、鹿児島市の南方約380キロメートルの海上に浮かぶ奄美大島にある市。2006年(平成18)名瀬市(なぜし)、大島(おおしま)郡笠利町(かさりちょう)、住用村(すみようそん)が合併して成立。奄美大島の中央部から北東部を占め、飛び地の笠利地区は大島郡龍郷(たつごう)町を挟んで、島の北東端部に位置する。北部は東シナ海に面し、南部は太平洋に臨む。国道58号が走り、笠利地区に奄美空港がある。海路は名瀬港に鹿児島、那覇(なは)などからフェリーが就航。笠利地区には宇宿貝塚(うしゅくかいづか)(国指定史跡)、城間(しろま)トフル墓群(県指定史跡)ほか原始・古代の遺跡が多く分布し、奄美の文化と歴史の発祥地であったとみる説がある。名瀬小湊(なぜこみなと)の小湊フワガネク遺跡(国指定史跡)は、弥生~平安時代の複合遺跡で、ヤコウガイ製貝匙(かいさじ)など大量の貝製品、その製作跡、在地系の兼久(かねく)式土器、鉄器などが発見され、注目を浴びた。古代には大和朝廷の朝貢圏に属し、7世紀から遣唐使の南島路の寄港地となった。しかし、9世紀末には遣使がとだえ、九州などとの交流も衰退。その後、アジ(按司)が割拠し、グスク(城)を築いて対立。伊津部勝(いつぶがち)城跡、浦上(うらがみ)城跡、有屋(ありや)城跡などのグスク跡がある。平家の落人平有盛(たいらのありもり)(?―1185)・行盛(ゆきもり)(?―1185)・資盛(すけもり)(1158?―1185)の3人が奄美大島を三方に分けて領知したという伝承が残り、浦上には有盛(ありもり)神社、またグンギン(権現)とよばれる平家見張所跡の伝承地などもある。15世紀末以降琉球王国(りゅうきゅうおうこく)の統治下に入り、1609年(慶長14)島津氏の琉球侵略以後は薩摩(さつま)鹿児島藩直轄領となる。薩摩藩統治時代、代官所が置かれた伊津部は、島の政治・経済の中心地となった。伊津部の北東の大熊湊(でつくまみなと)は鹿児島から役人の往来や砂糖の積み出しに利用。薩摩藩による砂糖の単一作物化政策は村々の疲弊を招いた。
主産業は農林業。なだらかな北部地域では、サトウキビ、野菜の栽培、肉用牛の飼育といった複合経営が行われる。山地の多い南部では、海岸沿いの狭小な平地や傾斜地を利用して、ポンカン、タンカンのほか、パッションフルーツなどトロピカルフルーツの果樹栽培が盛ん。伝統工芸の大島紬(つむぎ)の生産も盛んで、大島紬資料館や、大島紬村がある。黒糖焼酎は奄美特産として知られる。奄美群島国立公園の指定域で、南部の神屋・湯湾岳(かみやゆわんだけ)一帯は国指定天然記念物。神屋・湯湾岳地区はシイを主体とする亜熱帯性の原生林が繁茂し、特別天然記念物のアマミノクロウサギなど特殊な動植物が多い。住用川、役勝(やくがち)川河口湿地帯のマングローブ(オヒルギ、メヒルギ)の群落は特別保護区に指定。ほかに大浜海岸や摺子(すりこ)崎、用安(ようあん)海岸、アヤマル崎などの観光地がある。笠利地区にある明治時代初期の民家、泉家住宅は国指定重要文化財。面積308.33平方キロメートル、人口4万1390(2020)。
[編集部 2019年5月21日]
鹿児島県奄美大島の北部にある市。2006年3月名瀬(なぜ)市と笠利(かさり)町,住用(すみよう)村が合体して成立した。笠利町の地域は飛び地となった。人口4万6121(2010)。
奄美市北東部の旧町。旧大島郡所属。人口6784(2005)。奄美大島北東端に位置し,三方を海で囲まれ,中央部を標高200m以下の山々が南北に連なる。海岸線には500m内外のサンゴ礁が発達し,東部海岸は砂丘が多く,西部海岸には笠利湾が湾入する。産業は大島紬の生産とサトウキビの栽培が中心で,製糖工場があり,畜産,野菜,花卉の栽培も行われる。南部の和野には奄美空港があるが,旧空港から約3km北のサンゴ礁を埋め立てて新たにジェット機の発着する新空港が建設された(1988開港)。海岸一帯は奄美群島国定公園に属し,北東部海岸の字用(よう)地先海面は海中公園地区に指定されている。町内には宇宿貝塚をはじめ先史時代の貝塚,遺跡が多い。
奄美市南西部の旧村。奄美大島中東部を占める。旧大島郡所属。人口1784(2005)。北東部は旧名瀬市に隣接する。南,北,西の三方は急峻な山地,東の太平洋岸は急崖の連続するリアス式海岸で,平地に乏しい。集落は川内川,住用川,役勝(やくがち)川流域や海岸部のわずかな低地に散在,中心は住用川河口の西仲間で,国道58号線が通じる。古くから林業が盛んで,南部沿岸の戸玉にはチップ工場がある。農業はポンカン,サトウキビの栽培が中心で,肉牛の飼育も行われる。奄美大島特産の大島紬は,ほとんどの家で織られており,工場生産は少ない。住用川中流の神屋は亜熱帯性原生林とアマミノクロウサギ(特天)など特色ある動物が生息する地域として,湯湾(ゆわん)岳(694m)とともに国の天然保護区域に指定されている。住用川と役勝川の合流する河口の三角州地帯には,大規模なマングローブ林がある。
執筆者:赤池 享一
奄美市中部の旧市。奄美大島の北部を占める市。1946年市制。人口4万1049(2005)。北に向かって開ける名瀬湾の名瀬港を核に市街地が発達する。1720年(享保5)薩摩藩が奄美諸島での糖業経営のため代官所を置き,以後諸島の政治,経済の中心となった。1875年大島支庁設置,第2次大戦後は一時アメリカ軍政下にあった。1953年日本に復帰し,再び支庁が置かれた。最も重要な産業は大島紬の生産で,問屋も集中して流通の中心ともなっている。野菜,ポンカンやタンカンの栽培,養豚が盛んで,カツオ,マグロなども漁獲する。名瀬港は鹿児島,大阪,東京,沖縄への船の寄航地。ハイビスカス,ソテツ,アダンなどの植物,サンゴ礁の海岸など南国の風光に富み,特にガジュマルの群落がある朝仁海岸,海水浴場の大浜海岸,東シナ海の展望地おがみ山などが有名。八月踊が伝わる。
執筆者:服部 信彦
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