姫路城下(読み)ひめじじようか

日本歴史地名大系 「姫路城下」の解説

姫路城下
ひめじじようか

姫路藩主池田氏(五二万石)が建設した姫路城の城下町。慶長六年(一六〇一)池田輝政ひめ山での築城に取りかかり、同時に城下の町割にも着手、江戸時代の姫路城下町の原型が出来上った。城郭と城下町を含めた縄張りは、全体的にみれば渦郭式または螺旋式といわれるものである。大天守のある姫山を中心に左巻きに渦を描くように三重の堀をめぐらし、内堀の中を内曲輪、中堀の中を中曲輪、外堀の中を外曲輪といった。内曲輪には天守や本丸・二の丸・三の丸、藩主の屋敷、政務に当たる役所などがあり、中曲輪は武家町、外曲輪は主として町人町があり、外堀に沿って侍屋敷や組屋敷もあった。外曲輪の町をうち町、外曲輪の周辺に広がる町をそと町といった。町人町は内町・外町を合せて姫路町といったが、七八町を基本にしている。中曲輪以内を内山下うちさんげ、中曲輪以外を外山下そとさんげとよんだり、外町を神谷かみや(神屋)野里のざと船場せんば(川西)に分けることもあった。敵の攻撃に備えて江戸城や大坂城と同様に町人町を堀の内に組込んだ総曲輪とし、外町には丁字形の三差路やのこぎり歯のような道筋を随所に設けている。また五軒邸ごけんやしきから坂田さかた町にかけて多くの寺が集められた。そのほかの町として飾万津しかまつ町があり、南の外堀にある飾万(飾磨)門から飾万(飾磨)の湊までしのび町・豆腐とうふ町・南畝のうねん町など二〇町からなっていた。

〔城下町の形成〕

黒田職隆の子孝高から本拠を姫路城に移すことを勧められた羽柴秀吉は、天正八年(一五八〇)四月から翌年三月にかけての短期間に姫路城を大改修し、三重四階の天守をもった城を築いた(新版「姫路市史」)。秀吉は同八年四月の英賀あが落城後、英賀の町人・百姓を姫路山下に召寄せて市場を立てさせ(六月一九日羽柴秀吉書状「利生護国寺文書」紀伊続風土記)、一〇月二八日には龍野たつの町に楽市による諸公事役の免除などを定めた三ヵ条文からなる制札(「羽柴秀吉禁制」姫路紀要)を与えるなど、新しく城下町建設に取組んでいる様子がうかがわれる。制札の最初の条文に「市日之事、如先規罷立事」とあるところから、英賀の町人・百姓が龍野町に移住したとする説がある。秀吉が大坂城を築いて大坂に移ると、異父弟長秀(秀長)、続いて義兄木下家定が姫路城に入った(「本朝通鑑」、新版「姫路市史」)。同一五年一〇月二七日の木下家定年貢米割付状(芥田文書)、二月一六日の木下家定書状(同文書)などには、在町的な匂いが強いが材木町(現在の材木町ではない)川間こばさま町・いとく町・寺町・殿町・小姓こしよう町といった町名がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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