精選版 日本国語大辞典 「孝文帝」の意味・読み・例文・類語
こうぶん‐てい カウブン‥【孝文帝】
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中国、北魏(ほくぎ)第6代の皇帝(在位471~499)。諱(いみな)は宏、廟号(びょうごう)は高祖。父献文帝の譲位により即位したときは5歳であり、祖父文成帝の皇后文明太后の執政が490年まで続いた。この間に、国家による土地把握をたてまえとする均田制、戸単位にかわって夫婦を単位として徴税する租調制、それらを施行する条件をつくる三長(さんちょう)制の創出が行われた。これらは国家による小農民の直接把握を目ざすもので、北魏のみならず中国史上重要な意義をもつ。これに先だつ地方官への俸禄(ほうろく)支給制の施行もその一環とみなせる。
この基礎のうえに立つ親政期の政策は、通常、漢化政策と称される。それは平城(へいじょう)(山西省大同)から洛陽(らくよう)への遷都強行に始まり(493年に着手)、鮮卑(せんぴ)の言語、衣服の使用を禁じ、姓を漢族風に改め(たとえば帝室拓跋(たくばつ)氏は元氏となった)、洛陽に移った北人の平城帰葬を許さないなどの諸策が相次いで出された。もっとも注目すべきは姓族分定であり、漢人貴族の家格詳定を伴いつつ、北族社会を、当時の中国社会を規定していた門閥(もんばつ)主義下に再編しようとしたものであり、そのうえで同格の漢人と北族の通婚を奨励、帝は自ら諸弟の妃に漢人名族の女を選んだ。これらは北族による統治の行き詰まりの打開策であったが、反面、北族の不満は大きく、在世中に皇太子らの反逆があり、また20余年後の六鎮(りくちん)の乱の遠因となった。帝は、詔勅をも自ら書くほど中国的教養が深く、朝廷の儀礼も、治世中に多く中国的なそれに改められた。
[窪添慶文]
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467~499(在位471~499)
北魏の第6代皇帝。名は拓跋宏(たくばつこう),486年まで太皇太后馮氏(ふうし)(文明皇后)が執政し,その治下で俸禄制,均田制,三長制が施行された。親政後は中国同化政策を進め,平城から洛陽に遷都した。鮮卑(せんぴ)人の胡服,胡語,胡性をやめて中国風に改め,鮮卑,漢人両貴族の家格を定めて,相互の通婚を奨励するとともに,専制的官僚制と貴族制との調和を図った。
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…帝国の発展に伴って漢人貴族の政権参加も一般化し,北族中心の国家体制を改革する必要が生じた。第6代孝文帝は洛陽遷都を断行し,また北族の姓氏,言語,風習を漢族風に改める諸政策によって,中国的貴族制国家を志向した。それはやがて北族系軍人の不満を増大させ,524年(正光5)の六鎮の乱を契機に東西両魏に分裂した。…
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